初めて見た表情
その日は朝から、里の空気がどこか張り詰めていた。畑仕事に出ていたエルフたちが、次々と慌ただしく里の中心へと戻ってくる。
「何かあったのか?」
近くにいたエルフに尋ねると、珍しく明確な緊張の色を浮かべた声が返ってきた。
「森の西側で、魔獣の群れが出た。畑を荒らしている」
俺は思わず息を呑んだ。この里に来てから初めて聞く、明確な危機の知らせだった。
「コンラートは?」
「調査官たちは、もう向かっている」
「え?」
思わず声が漏れた。世界樹の異変を調べる役目のはずの調査官が、なぜ魔獣の討伐に向かうのか、俺には結びつかなかった。
「調査官は、世界樹だけでなく、森全体の異変を扱う者たちだ。魔獣の異常発生も、その範疇にある。里の安全を守るのも、調査官の役目のひとつだ」
説明を受けて、ようやく合点がいった。世界樹の調査という静かな任務の裏で、コンラートたちは里そのものの守り手でもあったのだ。
居ても立ってもいられず、俺は西の森へと足を向けた。ミルが心配そうな顔で追いかけてくるのを、途中で「危ないから、ここにいてくれ」と言い聞かせ、一人で先を急いだ。
――偉そうなことを言っておいて、俺に魔獣を退治する力なんてない。ただのわがままだ。それでも、じっとしていられなかった。
畑の近くまで来ると、荒々しい獣の唸り声と、木々がなぎ倒される音が響いていた。数頭の大きな獣が、畑を踏み荒らし、逃げ惑うエルフたちを威嚇している。
その中心で、コンラートが剣を構えていた。他の調査官たちと連携しながら、獣たちを森の奥へと押し返そうとしている。だがその中の一頭が、逃げ遅れた小さなエルフの子どもに狙いを定めていた。
「危ない!」
叫んだのは俺だった。だがその声よりも早く、コンラートが動いていた。
獣と子どもの間に割って入り、盾となるように剣を構える。獣の爪が、コンラートの肩を掠めた。血が飛び散り、彼はわずかによろめいた。
「コンラート!」
俺は思わず駆け寄った。獣はもう一度襲いかかろうとしていたが、他の調査官たちが駆けつけ、なんとか森の奥へと追い払うことに成功した。
騒動が収まると、コンラートは肩を押さえながら、荒い息をついていた。
「大丈夫か?」
「……ああ、大した傷ではない」
そう言う声には、明らかな痛みが滲んでいた。俺は構わず、彼の腕を支えて里の方へと向かった。
*
治療小屋に運び込まれ、傷の手当てが行われている間、俺はその場を離れずにいた。コンラートは何度か「戻っていい」と言ったが、俺は聞かなかった。
「あの子ども、大丈夫だったか?」
「無事だ。お前が、あの時声を上げなければ、私の反応は一瞬遅れていたかもしれない」
「そうなのか?」
「……いや」
コンラートは、少し言い淀んだ。何かを言いかけて、やめたように見えた。
治療が終わり、二人きりになった小屋の中で、しばらく沈黙が続いた。俺はふと、コンラートの顔を見た。
その表情に、俺は思わず息を止めた。
いつもの平坦な無表情ではなかった。眉間にわずかな皺が寄り、唇が固く結ばれている。それは――怖れだった。子どもを守れなかったかもしれないという、恐怖の残滓が、まだ彼の顔に張り付いていた。
「コンラート」
「……なんだ」
「今、怖かったんだろ」
コンラートの瞳が、大きく揺れた。それは、これまで見たどんな反応よりも、はっきりとした感情の色だった。
「――そんなことは」
「隠さなくていい。今の顔、ちゃんと見えた」
コンラートは何かを言いかけたが、言葉にならなかった。しばらく俯いた後、絞り出すように呟いた。
「……あの子どもの顔が、一瞬、エリーと重なった」
「エリーって?」
「かつて――私が、守れなかった者だ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、目の前の男が抱えている何かの重さを、初めて肌で感じた気がした。
「淡白でいることは、こういう時のためでもある」
コンラートは、独り言のように続けた。
「感情を動かせば、また同じ恐怖を味わうことになる。だから、動かさないようにしてきた。それが、生きる術だった」
「……それでも、誰かを思うことは大切なことだろう」
「――そうかもな」
短い相槌だった。だがそれは、これまでのどんな返事よりも重く、確かなものに聞こえた。
コンラートは俺の方を見た。その瞳には、まだ隠しきれない動揺が残っていた。
「お前と関わるようになってから、私は……何かが、変わり始めている気がする」
その言葉に、俺の胸が小さく跳ねた。
「悪いことじゃないだろ」
「分からない。ただ、少し――怖い」
正直な吐露だった。俺はそっと、その肩に触れないよう気をつけながら、隣に腰を下ろした。
「怖くても、いいと思うけどな。俺はずっと、届いてるかどうか分からないまま、誰かのために動いてきた。それが世界樹の目にとまって、今はここにいる」
コンラートは何も言わなかった。だがその沈黙は、拒絶ではなかった。ただ静かに、俺の言葉を受け止めているような、そんな沈黙だった。
小屋の外では、里の人々が忙しなく動き回る音が続いていた。獣の被害の後片付け、負傷者の手当て、子どもたちの無事を確かめる声。淡白なはずのエルフたちの中にも、確かな安堵と気遣いが滲んでいた。
――淡白なだけじゃ、ないんだ。
この里の全員が、感情を失ったわけではない。ただ、それを表に出すことを、長い時間の中で忘れてしまっただけなのだ。
コンラートの横顔を見つめながら、俺はその確信を、より強くしていった。




