兄のような存在
「リオ、こっち!」
朝、家の扉を開けるとすぐに、ミルの声が飛んできた。振り返ると、木の陰から駆け寄ってくる小さな姿が見える。もはや日課になりつつあった。
「早いな、今日は」
「早く会いたかったから」
悪びれもせずそう言うミルに、俺は思わず笑ってしまった。里のエルフたちの淡白さに慣れてきた今、こんなにもまっすぐな感情表現は、かえって新鮮だった。
「今日は何して遊ぶんだ?」
「あのね、川の方に、綺麗な石があるところ知ってるんだ。案内する」
手を引かれるまま、俺はミルについていった。この二週間ほどで、ミルは俺にとって、施設で世話をしていた年少の子どもたちを思い出させる存在になっていた。無邪気で、素直で、少し危なっかしい。放っておけない、という感覚が自然と湧いてくる。
川辺に着くと、ミルは早速裸足になって水の中に入っていった。
「危ないぞ、滑るから」
「大丈夫、いつも来てるもん」
そう言いながらも、案の定、足を滑らせてよろけるミル。俺は慌てて手を伸ばし、その体を支えた。
「ほら、言ったろ」
「……ありがと」
素直に礼を言うミルの頭を、俺は軽く撫でた。ミルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「リオって、本当のお兄ちゃんみたい」
その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。誰かにとっての「兄」のような存在になれること。それは、届いているかどうか分からない孤独の中で、久しぶりに感じる確かな手応えだった。
*
その日の夕方、家に戻る途中で、コンラートと出くわした。
「また、あの子どもと一緒にいたのか」
「ミルか? ああ、今日も川に行ってた」
「あの子は、里の中でも扱いに困る存在として知られている」
淡々とした口調だったが、その言葉に俺はわずかに苛立ちを覚えた。
「扱いに困るって、どういう意味だ」
「感情の起伏が激しすぎる。エルフとしては、いささか未熟だと見なされている」
「未熟って……ただ、素直なだけだろ」
「素直さが、必ずしも美徳とは限らない」
コンラートの言葉には、他のエルフたちと同じ価値観が滲んでいた。俺はそれに、少なからず反発を覚えた。
「あんたたちにとっては、そうかもな。でも俺には、ミルの方がよっぽど分かりやすくて、付き合いやすい」
コンラートは、しばらく黙って俺を見ていた。何かを考えているような、探るような視線だった。
「お前は、ミルに何を求めている」
「求めてるって、何も。ただ、一人で寂しそうにしてるのを放っておけなかっただけだ」
「見返りもなく、か」
「見返りって……」
俺は思わず言葉に詰まった。見返りを求めていないと言えば嘘になる。誰かに必要とされたい、誰かの心に届きたい。その欲求は、俺の中にずっとあり続けてきたものだった。
「……分からない。ただ、ミルが笑ってくれると、俺も嬉しいんだよ。それだけじゃ、駄目か?」
コンラートは、その問いにすぐには答えなかった。しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「駄目ではない。ただ――理解しがたいだけだ」
「理解しがたい?」
「見返りのない行為を、それほど自然に続けられることが」
その言葉には、単なる批判ではない、何か別の響きがあった。俺はふと、コンラートという男が、これまでどんな時間を生きてきたのか、少し気になった。
「あんたは、誰かにそうしてもらったこと、ないのか?」
一瞬、コンラートの瞳が揺れたように見えた。だがすぐに、いつもの平坦な表情に戻った。
「――長く生きれば、そういうことも忘れる」
それだけ言うと、コンラートは背を向けて歩き出した。俺はその背中を見送りながら、今の一言に、何か大切な手がかりがある気がしてならなかった。
*
数日後、ミルと過ごしていると、遠くからこちらを見ているコンラートの姿に気づいた。
「あれ、コンラートだ」
ミルが指差す方を見ると、確かに木の陰から、こちらの様子を窺うようにコンラートが立っていた。目が合うと、彼は特に動じる様子もなく、そのまま近づいてきた。
「監視の一環だ」
聞いてもいないのに、そう説明された。俺は思わず苦笑した。
「そういうことにしといてやるよ」
コンラートは何も言わず、少し離れた場所に立ったまま、俺たちの様子を見ていた。ミルは最初こそ緊張していたが、しばらくすると気にせず遊び始めた。
「ねえリオ、コンラートも一緒に遊べばいいのに」
無邪気なミルの提案に、俺は思わず笑ってしまった。
「あいつは、任務中だからな」
だが視線を向けると、コンラートは何とも言えない表情で、こちらを――正確には、笑っているミルの姿を見つめていた。それは監視の目つきというより、もっと別の何かを探るような眼差しだった。
俺の胸に、小さな疑問が芽生えた。淡白なはずのこの男が、なぜこんなにも、俺たちのやり取りに目を向けているのだろう。
*
その後も、俺とミルの交流は、里の日常に少しずつ溶け込んでいった。
ある日、収穫の手伝いに駆り出された俺は、ミルと一緒に果実を運ぶ作業をしていた。大人のエルフたちが黙々と作業を進める中、ミルが「重いよう」とわざとらしく声を上げると、隣で作業していた年配のエルフが、ふっと口の端を緩めた。
「そんなに軽い籠で、重いも何もないだろう」
からかうような一言だった。だがそれは、俺がこの里に来て初めて聞く、軽口と呼べるものだった。ミルは頬を膨らませ、「もう、意地悪」と言い返す。その様子に、周囲の何人かが、微かに視線を向けていた。
「あの子どもが、あんなふうに笑うのは久しぶりだな」
作業の合間、隣にいた別のエルフが、誰にともなく呟いた。俺には向けられていない言葉だったが、確かに耳に届いた。
夕方、収穫作業が終わる頃には、何人かのエルフが、俺とミルのやり取りに自然と加わるようになっていた。誰かが果実の運び方を教えてくれたり、ミルの悪戯に苦笑いを浮かべたり――ほんのわずかな変化だったが、確かに、里の空気が少しだけ緩んだ気がした。
「今日、いつもよりみんな、喋ってた気がする」
家に戻る道すがら、ミルが不思議そうに言った。
「そうだな。俺も、そう思う」
たった一人との絆が、周囲にまで小さな波紋を広げていく。俺自身、まだその実感を掴みきれてはいなかった。だが、確かに何かが、少しずつ動き始めている――そんな予感だけが、胸の中に残った。




