枯れゆく世界樹
木の根が幾重にも絡み合った天井は、まるで巨大な生き物の胎内にいるようだった。中に足を踏み入れると、外の静けさとはまた違う、張り詰めた空気が肌を刺した。
奥の高い椅子に、三人のエルフが並んで座っていた。いずれも白髪に近い髪色をしているが、皺ひとつない顔立ちからは年齢が読み取れない。ただその瞳の奥には、他のエルフたちよりも深い時間の堆積が感じられた。
「コンラート。連れてきたのはその人間か」
真ん中に座る、ひときわ鋭い目つきの女性が口を開いた。
「はい。世界樹の根元で倒れておりました。本人は――世界樹の声を聞いたと主張しております」
その一言で、三人の空気が明らかに変わった。淡白なエルフたちにしては珍しく、驚きがはっきりと顔に表れていた。
「世界樹の、声だと」
「私はその真偽を判じる立場にありません。それゆえ、ここへ」
コンラートは淡々と述べ、一歩下がった。俺に判断を委ねるように、視線だけをこちらへ向ける。
「話せ、人間よ。何を、聞いた」
女性の声には、有無を言わさぬ圧があった。俺は一度深呼吸をして、口を開いた。
「死にかけていた時、頭の中に直接、声が聞こえました。長く生きるあなたたちが、心を凍らせてしまったことを悲しんでいるんだと。誰かのために深く生きられる者を、ずっと探していたと」
沈黙が落ちた。誰も言葉を発さない。俺は続けた。
「気づいたら、この森にいました。何が起きたのか、俺にも分かりません。ただ、あの声だけは、はっきり覚えています」
長老の一人、右端に座る痩せた男が、静かに言った。
「世界樹の声は、我々エルフには、遠い昔から届かなくなっている」
「昔から?」
「かつては、我らも世界樹と対話していたという伝承がある。だがそれも、幾百年も前の話だ。今の我々には、木の声を聞く力は残されていない」
真ん中の女性が続けた。
「にわかには信じがたい。だが――お前がここに立っていること自体が、すでに異常だ。人間がこの森の深部に、しかも世界樹の根元に、迷い込むことなどあり得ぬ」
三人はしばし目配せを交わした。声には出さない、長い時間を共に生きた者だけが分かる会話のようだった。
「連れて行け」
女性が短く命じた。俺は思わず身構えた。追放か、それとも別の何かか。
「世界樹の元へ、だ」
言葉の意味を理解する前に、コンラートが俺の腕を軽く引いた。
「行くぞ」
*
再び森を歩き、辿り着いたのは集落の外れにある広場だった。そこに、あの巨木――世界樹が、ひときわ大きく根を張っていた。
近くで見ると、その衰弱ぶりは一目で分かった。幹の表面には亀裂が走り、枝という枝の葉がほとんど落ちている。かろうじて残った葉も、力なく萎れていた。
コンラートに続いて長老たちも姿を現す。三人は世界樹を見上げ、痛ましげに目を細めた。あの淡白な表情の中に、初めて明確な感情が浮かんでいた。
「近づいてみよ」
女性長老が促す。俺はおそるおそる、世界樹の根元に手を伸ばした。
指先が幹に触れた瞬間、頭の中に、あの声が再び響いた。
**——来たか。**
嬉しそうな、それでいてどこか疲れ果てたような声だった。
「聞こえる。声が、聞こえてる」
俺の言葉に、長老たちの間にざわめきが走った。コンラートの瞳にも、隠しきれない驚きが浮かんでいた。
**——お前を呼んだのは、私だ。私の子らは、長く生きすぎた。長く生きるほどに、傷つくことを恐れ、深く想うことをやめてしまった。私は、それを憂いてきた。**
「なんで、俺なんだ」
**——お前は、届くかどうかも分からぬまま、誰かのために生き続けた。その心を、私の子らは忘れてしまった。お前がここで、その心を示すことができれば――私は、再び根を張ることができるだろう。**
声は、そこで一度途切れた。それから、静かに続いた。
**——だが、それは容易な道ではない。私の子らの心は、長い時をかけて凍りついている。お前一人の力では、届かぬかもしれぬ。**
「やってみるよ」
考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。誰に届くかも分からないまま尽くしてきた人生だった。だからこそ、その問いには即答できた。
世界樹から手を離すと、周囲の空気がわずかに揺れた気がした。振り返ると、長老たちが真剣な顔でこちらを見つめていた。
「今、何を話していた」
女性長老が問うた。俺にしか聞こえなかった声を、俺は言葉を選びながら伝えた。
「世界樹は、あんたたちが長く生きすぎて、傷つくのを恐れて、深く想うことをやめてしまったのを、ずっと悲しんでたって。それでも届くかどうか分からないまま誰かのために生きてきた俺を、探してたんだと」
長老たちの間に、重い沈黙が流れた。
「そして、俺がここでその心を示せたら、世界樹はまた根を張れるかもしれないって。ただ――簡単な道じゃないとも言われた。あんたたちの心は、長い時をかけて凍りついてるから」
俺の言葉を聞き終えると、女性長老は隣の二人と、しばし目配せを交わした。
「――信じよう」
女性長老が、静かに告げた。
「世界樹が選んだ者を、我らが拒む理由はない。だが、里の全員がすぐに受け入れるとは思うな。長く続いた静けさの中で、変化を恐れる者も多い」
「分かってる」
「コンラート」
長老の視線が、隣に立つ調査官へと向いた。
「この者の監視と案内を、お前に任せる。世界樹の異変を最も近くで追っていたのは、お前だ」
コンラートは一瞬、何かを言いかけるように口を開いたが、結局は短く頷いただけだった。
「承知しました」
淡々とした返事だった。だがその瞳の奥に、俺は微かな戸惑いのようなものを見た気がした。
新しい生活が、こうして静かに始まった。誰にも聞こえない声を頼りに、凍りついた森の中で――俺は、自分にできることを探し始めることになる。




