森の色を持たない者
「――お前は、何者だ」
もう一度、同じ問いが投げかけられた。俺は倒れたままの姿勢で、目の前の男を見上げていた。
長い銀の髪。人間離れした端正な顔立ち。淡い青緑の瞳は、感情の色を一切映さず、ただ静かに俺を観察していた。腰には剣。動きやすそうな装束は、狩人か、あるいは何かの任務に就く者のものに見えた。
「……分からない。俺にも、状況が」
正直に答えるしかなかった。倒れたはずの体はどこも痛まず、むしろ久しぶりに軽い。だがそれ以上に、頭の中に残る声の余韻が、俺の思考を占めていた。
男はゆっくりと近づき、片膝をついて俺の顔を覗き込んだ。品定めするような、それでいて温度のない視線だった。
「人間だな。しかも、この森の深部に……ここは、私たちエルフでさえ滅多に立ち入らぬ場所だ」
「エルフ」
その単語に、俺は思わず声を漏らした。物語の中の存在だと思っていたものが、目の前に立っている。混乱よりも先に、奇妙な納得が胸に落ちた。あの声が、これで説明がつく。
「お前が世界樹の根元で倒れていた理由を話せ。でなければ、里まで連れて行くわけにはいかない」
「世界樹……」
俺は、後ろを振り返った。葉を落とし、力を失ったようにそびえる巨木。あの声の主が、これなのだろう。
「声が、聞こえたんだ」
「声?」
男の眉が、わずかに動いた。それが初めて見せた反応らしい反応だった。
「死にかけていた俺に、何かが語りかけてきた。長く生きすぎて心を凍らせた者たちを、憂いていると。誰かのために深く生きられる者を、探していたと」
言いながら、自分でも馬鹿げた話だと思った。案の定、男の目に浮かんだのは驚きよりも、明確な疑いの色だった。
「にわかには信じがたい話だ。世界樹の声が聞こえる者など、私は一人も知らない」
「噓じゃない」
「噓だとは言っていない。ただ――それを判じるのは、私の役目ではないというだけだ」
男は立ち上がり、世界樹を見上げた。しばらく沈黙が続いた。木々のざわめきだけが、二人の間を埋めていた。
「私は世界樹の異変を調べる者に過ぎない。お前の言葉が真か偽か、それを見極めるのは長老たちだ」
「名は」
不意に問われ、俺は答えた。
「理央だ」
「リオ、私はコンラート。世界樹の異変を調べる任にある」
コンラートは短くそれだけ名乗ると、俺に向き直った。
「立てるか」
差し出された手を、俺は少し戸惑いながら取った。エルフの手は、思っていたより硬く、そして温かかった。長命種と聞いていたから、もっと違うものを想像していたのかもしれない。
「里まで案内する。長老たちに、お前のことを話さねばならない」
「……俺は、どうなるんだ」
「分からない。人間がこの森に足を踏み入れることは、通常ならばあり得ない。お前の言葉が真実なら、なおのこと長老たちの判断が要る」
淡々とした口調だった。感情の起伏がまるで見えない。まるで、天気の話でもしているかのような平坦さで、俺の存在という異常事態を語っている。
歩き出したコンラートの後を、俺は追った。森は思っていたよりも静かだった。鳥の声も、虫の音も聞こえない。ただ木々のざわめきと、二人分の足音だけが響いていた。
「……あんたたちの森って、いつもこんなに静かなのか」
「そうだ」
「賑やかな方が、俺は好きだけどな」
コンラートは振り返らずに答えた。
「静けさは、乱れがないということだ。悪いことではない」
「そうかな。俺には、寂しいだけに聞こえるけど」
コンラートの足が、一瞬止まった。だがすぐにまた歩き出した。何か言いたげな沈黙だったが、結局言葉にはならなかった。
しばらく歩くと、木々の合間から集落らしきものが見えてきた。木の幹に沿うように作られた家々、その間を静かに行き交うエルフたち。誰もが表情に乏しく、必要最低限の動きだけで生活しているように見えた。
道行く人々が、ちらりとこちらを見る。だが誰も足を止めない。驚きも、好奇心も、ほとんど見えなかった。
「……なあ、皆いつもこんな感じなのか」
「感情を露わにすることは、私たちの美徳ではない」
コンラートは前を向いたまま答えた。
「長く生きるということは、多くのものを見送るということだ。その度に心を乱していては、生きていけない」
その言葉には、どこか実感がこもっているように聞こえた。だがそれ以上、コンラートは何も語らなかった。
俺は、世界樹の声を思い出していた。「心を凍らせることを覚えた」という言葉。今、目の前を歩く人々の姿は、まさにそれを体現しているようだった。
――誰かのために深く生きられる者、か。
自分がここで何をすべきなのか、まだ何も分からない。だが確かなのは、この静かすぎる森に、自分が呼ばれた理由が、きっとある。
集落の中心に近づくにつれ、より大きな建物が見えてきた。木の根が絡み合うように作られた、古めかしくも荘厳な佇まいの建物だった。
「あそこに、長老たちがいる」
コンラートの声に、初めて緊張のようなものが混じった気がした。俺は深く息を吸い、その建物へと足を踏み出した。
新しい生の、本当の始まりだった。




