死の淵で聞こえた声
蛍光灯の光が、やけに白く目に染みた。
俺の名前は里崎理央。二十九歳。物心つく前から、養護施設で育った。両親の顔も、名前すら知らない。だから小さい頃から、自分の居場所は自分で作るしかなかった。
年下の子が転んで泣いていれば、真っ先に駆け寄った。誰かの分の食事が足りなければ、自分の分を分けた。それが当たり前だった。誰かに必要とされている間だけ、俺はここにいていいのだと思えた。
施設を出てからも、その癖は変わらなかった。会社では、誰もやりたがらない仕事を率先して引き受けた。後輩のミスを庇い、上司の機嫌を伺い、飲み会の幹事を買って出た。断ることを知らなかった。
「理央くんがいると助かるよ」
そう言われるたびに、少しだけ息がしやすくなった。だがその言葉が本当に相手の心から出たものなのか、俺には確かめる術がなかった。ただの社交辞令かもしれない。俺がいなくなっても、代わりはいくらでもいる。そう思うと胸の奥が冷たくなった。
——今日も残業だ。
時計の針は深夜零時を回っていた。誰もいないオフィスで、俺はパソコンの画面をぼんやりと眺めていた。目の奥が重い。肩から腕にかけて、痺れるような痛みが走る。まあいつものことだ。少し休めば治る。
そう思った瞬間、視界が大きく傾いた。
床が近づいてくる。冷たいフロアタイルの感触が、頬に伝わった。声を出そうとしたが、喉から息が漏れるだけだった。
――ああ、これは。
不思議なほど冷静に、俺は自分の状態を理解していた。誰も見ていないオフィスで、誰にも気づかれないまま俺は倒れている。
意識が薄れていく中、頭の片隅に浮かんだのは、大それた後悔ではなかった。ただ、ひとつの問いだった。
——俺がいなくなっても、誰も困らないんじゃないか。
これまで尽くしてきた人たちの顔が、次々と浮かんでは消えていく。感謝された記憶も、笑いかけられた記憶もある。だがそのどれもが、本当に俺に向けられたものだったのか、最後まで分からなかった。届いていたのか、届いていなかったのか。確かめる前に、目の前が暗くなっていく。
それでも、不思議と誰かを恨む気持ちは湧かなかった。ただ静かに、目を閉じようとした。
そのとき。
——**聞こえるか。**
声だった。頭の中に直接、響いてくるような声。老いた木の幹が軋むような、それでいてどこまでも澄んだ声だった。
「……誰、だ」
声に出したつもりはなかった。だが確かに、俺はそう問い返していた。
**——長く、探していた。誰かのために、深く生きられる者を。**
意味が分からなかった。だが不思議と、その声には嘘がないと分かった。誰かに尽くすことに、疲れ果てていたはずの俺の胸の奥で、何かがかすかに震えた。
**——私の子らは、長く生きすぎた。長く生きるほどに、心を凍らせることを覚えた。誰かを深く想うことも、深く傷つくことも、恐れるようになった。それを、私は長い間憂いていた。**
声は悲しみを帯びていた。人間のものとも、機械的なものとも違う、もっと大きな何かの悲しみだった。
**——お前は、違う。届くかどうかも分からぬまま、それでも誰かのために生き続けた。その心を、私は求めていた。**
俺は答えようとした。だが、もう声にならなかった。ただ、意識の奥深くで、何かが強く肯定されたような感覚だけが残った。
——選ばれた、のか。俺が。
暗闇の中に、光が差し込んでくる。それは病院の白い天井でも、オフィスの蛍光灯でもなかった。木々の間から降り注ぐ、柔らかな緑の光だった。
風の匂いがした。土と、青葉と、どこか懐かしい湿った香り。
ゆっくりと目を開けると、そこには見たこともない森が広がっていた。
見上げるほど高い木々。その中心に、ひときわ大きく、しかしどこか力を失ったように葉を落とした一本の巨木がそびえている。
俺はその根元に、倒れ込むように横たわっていた。
「……ここ、どこだ」
自分の声が、やけに小さく森に吸い込まれていく。
体を起こそうとした瞬間、乾いた枝を踏む音が背後で響いた。振り返ると、木々の間から、こちらをじっと見据える人影があった。
長い耳。整いすぎた、人間離れした顔立ち。淡い色の瞳が、感情の読めない静けさで俺を映していた。
「――お前は、何者だ」
低く、抑揚のない声だった。俺は答えることもできず、ただその瞳を見つめ返すことしかできなかった。
死んだはずの俺の、新しい生が――今、始まろうとしていた。




