酒呑童子
漆黒を垂らしたような闇夜に、ぼんやりと下弦の月が浮かんでいる。
殿の庭にある池に垂らしこまれた月光は、秋の夜長に、実にそれらしい景観である。
酒呑童子はそれを気怠げに眺めながら、簀子にゆったりと座り込み酒を呑んでいた。
青白い肌に下唇が蠱惑的な薄桃色の唇。
そこにたっぷりと酒を含み、口内でじっくりと味わいながら、喉元へ流して潤す。
生前は苦しんで死んだせいか、この渇きが潤うことは一度もない。
酒を含んでいる時は味わうこともなく、大抵は「次はどの酒蔵を奪おうか」と考えを巡らせることに夢中である。
薄ら暗い微笑をたたえながら、にぃっと口角を上げ微笑む様子は、闇から絶望がうっそりと浮かび上がってきたような美しさがある。
数年前、都からそれほど遠くもないこの小山の奥に、居を構えた。
それを人間どもも知っているが、悪名を轟かせた今、近づいてくるような者は一人もいない。
鬼になりたての頃は非道な行いで憂さ晴らしもしたが、最近はもっぱら酒を嗜むだけである。
しかし人間は一度たった噂話をいつまでも信じ続ける生き物だ。
今や言葉を交わすのは配下の鬼数名くらいである。
叡山で稚児をしていたときから人間の非道な修正には反吐がでる思いであった。
そのような絶望感が、若くして死んだ自分の魂を鬼たらしめたのだろう。
しかしいくらなんでも暇がすぎるのではないか。
暇な時間ほどつまらぬものは無い。
もうそろそろ鬼としての時も終わらせた方が良いものかと、気が晴れぬ思いを募らせていた。
その時ふいに配下の者から報告が入る。
「門前に女が一人おります。
美酒を献上したいと申しておりまするが、いかがいたしましょう」
急な来客に頬が綻ぶ。
どうせどこかの貴族か武士が自分を討伐しにきたのだろう。
あるいは朝廷の勅命やもしれない。
だが暇つぶしにはちょうどよいではないか。
「こちらへ連れてこい」
◆
「私は桔梗と申します。都で源頼光様の女房をしております。
本日はわが主の使いで参りました。
どうぞこちらの美酒をお納めください」
酒樽を荷車いっぱいに積んで、女がなめらかな足取りでやってきた。
「はて、源頼光とは特に面識もないはずだが。どういった風向きか」
「源頼光様はかねてより都の守護との名声が高まっておいでです。
そこで酒呑童子様に穏やかにお過ごしいただきたく、
かように貢物をお持ちした次第です」
「つまりはこの酒の対価として、都で暴れるようなことはしてくれるなと。
そういう趣旨であるか」
「左様でございます」
ふむ、と頷き桔梗をまじまじと見つめる。なかなか美しい女子である。
色白で目元がくっきりと彫りの深い強い目線。
袂の端からちらりとのぞいた手元は三つ指揃えきりりとしており、凛とした心もちを窺わせる。
だが――。
「桔梗よ、生憎だか私は嘘をつく者からの要望は聞けぬ性質なのだ」
「嘘などついておりませぬ」
「うむ、では別の問をしてやろう。お前、源頼光の女房ではないのであろう」
「なぜ、左様なことを仰りまするか」
「貴族の家にいる女房など、肝の小さき者ばかりぞ。
ところがお前のその佇ずまい、指の一本も震えておらぬ。
そのようなものが貴族の家人であるはずが無かろう」
桔梗は俯いた姿勢を崩さずに、「ふふふふ…」と笑い出す。
「さすがは酒呑童子様。よくぞ見破られ申した。
私は都で洗濯女をしているものでござります。
此度は源頼光様に命じられ、あなた様を討伐する計画を負わされてござります」
「おや、それはどのような計画か。
面白き女から、面白きことを聞かせておくれ」
口角をにやりと引きつりながら酒呑童子は興味深げに笑う。
子どもがいたずら遊びをするかのような無邪気な表情である。
「今宵お持ちした酒には眠り薬がたっぷりと注がれておりまする。
眠られたところを渡辺綱様、坂田公時様、碓井貞光様、卜部季武様が
四方で攻め入り、最後は源頼光様が打ち取る算段でござります」
「ふむ‥酒好きなことを利用したものとは思うていたが、
なんと捻りのない計画か。
古の大蛇でもあるまいに、この私もずいぶんと舐められたものよ。
しかし何故もってその計略を私に明かしたのか、桔梗よ」
「私は貴族たちに復讐したいのでござります。
今回のこと、家人の中にこの役目を担うものがいなかったため、
身よりもない洗濯女が任じられ、今こうして御前におりまする。
今回の任務は勅命でござりますれば、私の命など顧みられてもいないでしょう。
しかしこのまま喰われることも、無事に帰ったとしても鬼の元から
帰ってきたと噂の的になるのも嫌でござります。
これまで貴族の言いなりとなり、さんざん辛酸を舐めたこの人生。
せめて最後にあの者たちの計画通りにはさせまいと、
そう思い至りましてござります」
酒呑童子の目を射貫くように目を合わせた桔梗の目は、これまでの恨みつらみを宿し、赤黒い炎が揺らめいて見えた。
生前は稚児であった酒呑童子にはわかった。
桔梗もまた自分と同じく権力者への恨みを宿していること、そしてその怒りは本物だということが。
その怒りが、人よりも鬼の側につくことを選ばせたのだ。
「酒吞童子様、すべてを伝えた今、もはや心残りはござりませぬ。
この場で喰ろうてもらってかまいませぬ」
「……いや、同じ怒りを宿しそなたの怒りのこと、喰らう気も失せたわ。
なれば、暇つぶしに面白いことをしてみよう」
◆
殿の中には酒を大量に煽り、眠りこけた酒呑童子が寝転がっている。
そしてその隣には桔梗の血にまみれた屍体も見える。
つと、件の4名が几帳を押しやり攻め入った。
一気に四方から囲い込むように間合いを取ると眠ったままの酒呑童子に近づき壁を作る。
そしてふいにその横から満を持して現れた源頼光が勢いよく刀を振りかざす。
酒呑童子の首がゴトリ、と簀子に転がる音が響く。
桔梗の血が辺り一面にひろがった殿の床を、一瞥もせずドカドカと歩く5人の男たち。
そして用済みとばかりにそそくさと出ていくと、足音が遠くへ消えていく。
しんと静まりかえった殿のはるか上、梁の上から一連の様子を、二人は見ていた。
酒呑童子は桔梗の脇に手を回し抱きかかえ、ふわりと宙を飛んだかと思うと羽のように軽やかに地上に降り立った。
するとすべての術が消え、そこには首を切り落とされた小鬼と、腸を切り裂かれた小鬼の屍体が2つ転がっていた。
「お前の屍体を一瞥もせず帰っていった。
なるほど、さながら人の皮をかぶった鬼とはこのことぞ」
「今更驚きもいたしませぬ。
それよりも、よもやあなた様が術をお使いになるとは思わせなんだ」
「うむ。陰陽師たちのやり口をまねたのだ。気配を消し、なり替わらせるのじゃ。
ちょうどこやつら2体は麓の村で私の名を語り悪さばかりしていた小物よ、
片付いてさっぱりしたわ。
さて、これでもはや都の者たちも私とお前が生きているとは思うまいよ」
二人は目を合わせながら、くつくつ、けらけらと笑い合う。
その愉快気な笑い声は、月夜の森に振動のように染み渡っていく。
「さぁ、これからどうしようか」
「面白きことがお好きなら、東国はいかがでございましょう。
未開の地ですから暴れ放題でござりますよ」
「うむ、それは楽しそうだ。
お前も共に行かぬか、桔梗よ」
「あなた様さえ、よろしければ、ぜひに」
「なぁ、お前は私が恐ろしくは無いのか」
「私は名高き酒呑童子の殿に一人で乗り込んだ女でございますよ。
もとより喰われる覚悟はできております。
それに――、私は鬼でも人でも美しい者が好きなのです」
二つの影は東国へ続く道をひた歩いていく。
了




