――1章7節 水のない魚
ふと、真弦の視界に、一人の女性が映り込んだ。
明るい色の服を纏い、軽やかな足取りで店に入ってくる。
洗練された動きのはずなのに、どこか違う。スケジュールに刻まれたリズムではなく、息づかいのような揺らぎがある。完璧な都市のルールに、ほんの少しだけ意図的なズレを生んでいるような――その微細なズレが、彼女を特別に見せていた。
カウンターで注文を済ませた彼女が、振り返る。
その瞬間、視線が交わった。
彼女は、ふっと微笑んだ。初対面のはずなのに、まるで旧友に向けるような、温かい笑みだった。
しばらくして、彼女は真弦のテーブルへ歩み寄ってきた。
「ねえ、君。ここ、座ってもいいかな」
「あ……どうぞ」
向かいに腰を下ろすと、彼女はカップを手に、窓の外へ視線を投げた。
「あなたも、ここよく来るの?」
「うん。来ると、落ち着くから」
「分かる」
彼女は頷き、それから少し悪戯っぽく笑った。
「……でもね。なんだか整いすぎてて、息苦しい気がするのは、私だけかな」
真弦は、思わず彼女を見返した。
それは、彼がずっと言葉にできずにいた感覚そのものだった。
「……君も、そう思う?」
「うん」
「俺も、最近そればっかり考えてて。何もかも完璧すぎて、逆に……何かが欠けてる気がするんだ」
彼女は、嬉しそうに頷いた。
「君はきっと、目に見えないところに本物があるって、無意識に感じ取ってるんだよ」
その瞳に、一瞬、遠い記憶を辿るような憂いがよぎる。けれど彼女はすぐに、柔らかな微笑みへ戻った。
「ねえ、小魚の話、知ってる?」
「小魚?」
「神様が、小魚に“目に見えないものの大切さ”を教えようとした話。最初、小魚はまったく関心を持たなかった。だから神様は、ほんの一瞬だけ、その子の周りから水を消してしまったの」
彼女は、カップの水面をそっと指でなぞった。
「小魚は苦しんで、もがいて、やっと気づく。“目に見えないものがなければ、私は生きていけない”って。……水が戻ったとき、もう二度と、水から離れようとはしなくなった」
「……それって」
真弦は呟いた。
「この都市にも、言えることかもしれない。表面が整ってても、見えない何かが欠けてたら、生きるのが苦しくなる」
「えぇ。そういうこと」
彼女は満足そうに笑い、それから立ち上がった。
「ねえ、ちょっと散歩しない?」
真弦は、不思議と迷わなかった。
「……うん、いいよ」
会計のとき、真弦は奢ろうとレムスフィアへ手を伸ばした。けれど彼女は、その手をそっと制した。
「奢られるの、好きじゃないの」
柔らかい声。けれど瞳には、確かな芯があった。
二人は、澄んだ日差しの中へ歩き出す。
隙のないこの都市の中で、彼女の存在だけが、奇妙なほどリアルで、温かかった。




