――1章8節 裂け目と緋い光
二人は大庭園「エターナルグローブ」へ足を踏み入れた。小川が流れ、木々が風に揺れる、穏やかな空間だ。
園内を歩いていると、管理人のナオが柔らかな笑みで近づいてきた。植物と人の共存に情熱を注ぐ、理想家肌の女性だ。
「ようこそ、エターナルグローブへ。どうぞ、ごゆっくり」
会釈して去る彼女を見送り、二人は歩を進める。
「自然ってさ」
彼女が、小川を見つめて言った。
「どれだけ制御しても、手に負えない部分が残るよね。この庭も綺麗に整えられてるけど、よく見ると、勝手に生えた野草がある。そういう自由があるから、かえって魅力が増すんだと思う」
「分かる気がする」
真弦は頷いた。
「計画通りのものに、少しだけ予測できないものが混じる。それで初めて、“自然”に感じるのかもしれない」
「人間も同じだと思わない? 感情とか無意識って、完全には制御できないでしょ。その不完全さが、人間らしさを作ってる」
「……理想通りに生きてたら、案外、退屈なのかもな」
彼女は、楽しげに笑った。
――その時だった。
温室の上空が、不気味に揺らいだ。
青空に、亀裂のような「歪み」が走る。空気がねじれ、何もない暗い深淵が口を開けた。それは静かに蠢きながら、周囲の空間をじわじわと飲み込んでいく。
「……なんだ、あれは!?」
真弦は息を呑んだ。隣の彼女は――驚いていなかった。むしろ、鋭い目でその裂け目を見据えている。
異変に気づいたナオが、温室から駆け出してきた、次の瞬間。
強烈な吸引力が、彼女を捉えた。
「きゃっ……! だめ、引き込まれる!」
ナオの体が、裂け目へ引き寄せられていく。指先で必死に地面を掻くが、止まらない。
「ナオさん!」
真弦は反射的に駆け出し、左手で彼女の腕を掴んだ。右手で温室の柱にしがみつく。だが裂け目はさらに広がり、暴風が二人を引き裂こうとする。
「お願い、離さないで……!」
「離すもんか!」
歯を食いしばる。けれど足元が滑り、ナオの体がふわりと浮き上がった――その時。
肩のレムスフィアが、ふいに前へ躍り出た。
裂け目に向かって、淡い光を放ち始める。まるで、真弦の意思に応えるように。
「トワ……?」
「私ではありません。これは――真弦さま、あなたの力です」
その声を裏づけるように、右手に温かな感触が重なった。
明日香が、彼の手を握っていた。
「裂け目が閉じるように――強く、願って!」
二人の想いが共鳴する。空気が震え、波動が真弦の全身を駆け巡った。
その瞬間。
真弦の視界の隅で、《影》が揺らめいた。
裂け目の奥に、ぼんやりと黒いシルエットが浮かぶ。人の形。けれど輪郭は曖昧で、不安定に揺れている。
(あれは……人? いや……子ども?)
奇妙な既視感が走る。どこかで、確かに知っている――。
だが記憶に触れようとした瞬間、影は霧のように消えた。
同時に、レムスフィアが緋く光った。
いつもの青白い光ではない。燃えるような赤。まるで、真弦の奥底で何かが目覚めたかのように。
「頼む……閉じてくれ!」
叫びが、波動となって広がる。
裂け目の吸引力が、みるみる弱まっていく。宙に浮いていた草花が、ゆっくりと地に降りた。やがて裂け目は収縮し――音もなく、消え去った。
庭園に、静寂が戻る。
腕の中で、ナオが力を抜いて崩れ落ちた。真弦はとっさに抱きとめる。彼女は震えながら、子どものように泣きじゃくっていた。
「すごいね。君の想い、想像以上だ」
横で、明日香が静かに言った。驚きでも、不安でもない。確信に満ちた声だった。
「想い……? どうして、俺にこんなことが……」
「たぶん、君自身がまだ気づいてないだけ。でも、これから少しずつ分かってくる」
「……何か、知ってるのか」
彼女は、ただ柔らかく微笑んだ。
「焦らなくていい。答えは、自然と見えてくるから」
その目の奥には、共感とは違う何かがあった。深い理解と――期待のような光。
ふと、彼女は思い出したように言った。
「そういえば、名乗ってなかったね。私は明日香。君は?」
真弦は、わずかな間を置いて答えた。
「……邇木 真弦だ」
「真弦。……いい名前だね」
明日香は、その名を確かめるように、小さく繰り返した。
裂け目の消えた空は、再び青く澄み渡っている。
それでも真弦の胸には、解けない謎が、静かに、重く残っていた。




