――1章6節 足りないという証
翌日の昼下がり、真弦はカフェ「サイレントブリュー」へ足を運んだ。
都市の喧騒が嘘のように遠ざかるこの店は、彼にとって数少ない逃げ場だった。
「いらっしゃい、真弦君。いつもの席でいいかな」
カウンターの奥から、マスターのケイが声をかける。冷静で、皮肉めいたユーモアを忘れない男だ。そのくせ、客の心の機微を見逃さない。
「うん。いつものを」
窓際の席につくと、やがてケイがコーヒーを運んできた。カップを置きながら、彼はふと真弦の顔を覗き込む。
「何か、悩んでるね」
「……分かりますか」
「客商売を長くやってると、顔より先に、コーヒーの減り方で分かるようになる。君は今日、まだ一口も飲んでない」
真弦は苦笑して、カップに口をつけた。
「最近、この都市のことばかり考えてて。完璧なはずなのに、どうも落ち着かないんです」
ケイは、カウンターに肘をついて少し笑った。
「完璧すぎる場所には、居心地の悪さがつきものさ。とくに、感情を持った人間にはね」
「感情を持った、人間……」
「機械は“足りない”なんて思わない。足りないと感じるのは、何かを覚えてる証拠だよ」
その言葉に、真弦は手を止めた。完璧に淹れられたコーヒー。なのに、その完璧さが、どこか余所余所しく感じられる。
「……俺、覚えてるのかな。何を失くしたのかも、思い出せないのに」
「忘れたものほど、体のほうが覚えてるものさ」
ケイは、空いたカップを下げながら、いたずらっぽく目を細めた。
「この店が君の居場所である限り、いつでも歓迎するよ。――でも、もし君が探してる答えを見つけたら」
「見つけたら?」
「そのときは、ぜひ僕にも教えてくれ。客の謎が解けるのは、マスターの密かな楽しみでね」
その口ぶりには、どこか含みがあった。けれど真弦は、それ以上は問わなかった。
窓の外では、光と風が公園の木々を揺らしている。その景色さえ、彼にはどこか、薄い膜の向こう側のように感じられた。




