あなたの欲しいもの
「えっと……おばあちゃんの身近な人、だよね。おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなってるし……」
かがみは腕を組み、過去の記憶を一生懸命に手繰り寄せる。けれど、祖母が誰か大切な人を失ったというような出来事はどうしても思い当たらないようだった。
「あー……そっかぁ。けっこういい線いってると思ったんだけどなぁ」
鳰は性懲りもなくそのまま吸い寄せられるようにかがみのベッドへと倒れ込み、シーツに埋もれた。かがみは腕を組んだまま、まだ「うーん」と唸りを上げている。
考え事をする時に、無意識に眉間にしわを寄せるかがみの癖。鳰はそれを見るたび、胸の奥が温かくなり、微笑ましい気持ちに包まれるのだった。
「まあ、焦らず気長にいこうよ。かが――」
鳰が声をかけかけた、その瞬間。かがみが「あ」と小さく声を上げ、ハッとしたように目を見開いた。
「そういえば……私、小学校の低学年の頃に交通事故に遭って、ほんの少しの間だけ意識不明になったことがあるの」
鳰はベッドからゆっくりと起き上がると、かがみが運んできてくれたティーカップを手に取り、温かい紅茶を静かに一口含んだ。喉を通る心地よい熱のあとに、鼻の奥を爽やかな茶葉の香りが抜け、心地よい匂いに包まれる。
カップを置くと、鳰はかがみの前へと歩み寄った。いよいよ、自分なりに組み上げた『雪の結晶』が欠けた理由の披露だ。
「――かがみが小さい頃に交通事故に遭って、意識不明になっちゃった時。おばあちゃんは居ても立ってもいられないくらい物凄く不安だったんだと思うの。そして……愛しい孫娘の無事を心の底から祈った。大事にしていたブローチから一片を折って、そこに込められた『再生』の願いが叶うようにって。だから、かがみは願い通り目を覚まして、無事だった」
鳰はかがみの瞳をじっと見つめながら、言葉を繋ぐ。
「かがみがこれからも無事で、守られ続けますようにって……おばあちゃんは感謝と祈りを込めて、あえてその欠けたブローチをずっと大切に残してるんだよ」
自分の口が紡ぎ出した自説を語り終え、鳰は心の中で「我ながら完璧で、なんて綺麗な愛の物語だろう」と自画自賛した。かがみはきっと、祖母の深すぎる愛に胸を打たれ、心から納得してくれるはずだ。
「……鳰は、すごいね」
かがみは吐息をひとつ漏らすと、優しく目を細めた。
「たったこれだけの……私の勝手なお願いに、満点の答えを出してくれる」
「……もちろん、本当のところはどうなのか分からないよ?でも、そう思えたらかがみだって――」
「ありがとう、鳰」
短く届いた感謝の言葉。
それ以上追求を重ねることなく、かがみは自分のティーカップを手に取ると、ゆっくりと口元へ運んだ。
「……おいしいね、この紅茶」
「うん。すごく美味しい」
これでいいのだ、と鳰は胸の奥で静かに頷いた。
かがみは私の出した答えを、私たちの『真実』として受け取ってくれた。
鳰は再び温かいカップに唇を寄せ、甘い紅茶の余韻と、ふたりだけの世界の穏やかな静寂に身を委ねた。
その後、ふたりの間では他愛のない会話が続いた。クラスの仲良し四人組のひとりである勝部夏見がドハマりしている滋賀県のご当地キャラが、先日テレビでうっかり「中の人」が映されてしまった悲劇や、日本史の偏屈なおじさん教員が実はバツなしの独身だったことなど、本当にくだらない話ばかりだった。
「――かがみ、ちょっとええかい?」
トントンとドアが軽やかにノックされた。声の主はかがみの祖母だった。
「おばあちゃん!階段上ってきたら足に触るし危ないってば!」
かがみは慌てて立ち上がると、ドアを開けて祖母の身体を気遣った。
「ごめんなぁ。いま病院から電話があってな、おばあちゃん病院に大切な忘れ物をしてたみたいなんや。取りに行かなあかんのやけど……この足やと病院まで歩いて行かれへんのよ」
「……もう、分かってるって。私が代わりに走って取りに行ってくるから大丈夫だよ。……ごめん鳰、ちょっと部屋で待っててくれる?」
かがみの家から病院までは、自転車を走らせれば十分ほどの距離だった。一緒について行こうかとも考えたが、感染症対策などで今の病院は患者本人か身内しか受付を通してもらえない。鳰は素直に「いってらっしゃい」と頷き、部屋で待機することを選んだ。
「私がいない間、また勝手にベッドに潜り込んだりしないでよね。すぐ戻ってくるから」
釘を刺すように軽口を叩くと、かがみは颯爽と一階へ下り、自転車に乗って病院へと向かっていった。
――こうして家には、鳰と、かがみの祖母のふたりだけが残された。
「あははー……お茶、ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
かがみが出かけている間、鳰はリビングのテーブルでかがみの祖母と向かい合って椅子に腰掛けていた。
「そうやろ?銀座で外国の紅茶を取り扱ってる店ができたって聞いてな、飛んで買いに行ったんよ」
銀座と言っても、東京のそれではない。この街の駅前商店街のことだ。以前はシャッター街同然だったが、最近は個人店が増え、にわかに活気を取り戻しつつある場所だった。
「かがみったら、おばあちゃんが入院してる間、心配しすぎて見てるこっちがヒヤヒヤするくらいだったんですよ」
「あの子はちっちゃい頃から人の事ばっかり気をつかって、自分のことになるとからきしやからねぇ」
「へぇ~、そうなんですかぁ」
鳰は大人受けのいい、『かがみの頼もしく親しい友人』にふさわしい愛想笑いを完璧に貼り付け、会話を繋ぐ。
「あ、そういえばかがみ、おばあちゃんが大事にしてる宝物が壊れちゃってる理由まで探して、元気づけたいんだって言ってたんですよ」
「……あのブローチのことやろか。あの子、そんなことまで気に病んどったんか」
鳰はそこまで口にしてから、自然な素振りで言葉を濁した。さっき部屋で導き出された『欠けたブローチの真実』は、自分とかがみの間だけに留めておくべき秘密だと思ったからだ。
「――鳰ちゃん」
ふと、名前を呼ばれた。
視線を向けると、先ほどまでニコニコと微笑んでいたおばあちゃんの顔から、すっと表情が消えていた。
真顔で、鳰をじっと見つめている。
「あ、あはは……どうしたんですか、おばあちゃん?」
つくり笑いが強張り、鳰の背筋に冷や汗が伝う。
祖母は静かに、けれど逃げ場のないかのような声で問いかけてきた。
「あんたの『本当』は、かがみはちゃんと知っとるんよね?」
まるで心臓を冷たい針で直に突き刺されたような鋭い痛みが走った。
「も、もちろんですよ~!かがみは私の内面まで、ちゃんと全部わかった上で一緒にいてくれてるんです」
冬なのに背中を粘つくような嫌な汗が流れ落ちて止まらない。鳰は必死で顔の筋肉を収縮させ、愛想笑いを維持しようと足掻いた。
「それやったら、ええの」
祖母は静かに息を吐き、鳰を見つめた。
「正直な、あんたを見とったら……すごく心配なんよ。いつも周りのみんなに気に入られようとして、ずーっとお芝居を見せられてるみたいで」
一番触れられたくない核心を、容赦なく突き刺される。
もはや笑みを取り繕うことすら不可能だった。引きつった表情のまま、鳰の口からかすれた声が漏れ出る。
「……おばあちゃんに、私の何がわかるんですか」
「鳰ちゃん――」
「かがみは……!かがみだけは、こんな私でも、どんなに汚くて歪んでても一緒にいるって言ってくれたんです!だから私は……っ!」
必死に築き上げてきた『永原鳰』の仮面が崩れ落ちていく。どうしても感情の爆発を押し留めることができず、視界が歪んでいく。
泣き出しそうになる鳰の姿を見て、かがみの祖母はゆっくりと席を立ち、足を引きずりながら歩み寄ってきた。
そして――震える鳰の頭を、掌でゆっくりと優しく撫でた。
「わかるで。私もな、全く同じやったから」
「……えっ」
予想外の言葉に、鳰は驚いて顔を上げた。
見上げた祖母の瞳には、冷たさなど微塵もなく、ただ深い優しさと労りが温かく灯っていた。
「私もな、昔はあんたと同じように……いっつも周りの顔色ばっかり伺って、誰にでも良い顔して生きてきたんよ。けどな、そんな格好悪い自分を、そのまんま受け入れてくれる相手がおった」
祖母は遠い目をして、懐かしい誰かの影を追うように目元を緩ませた。
「その人は……私より先に逝ってしもうたけど、最期にあの雪の結晶をひとつ割ってくれたんよ。『欠けて不格好な姿こそが、あんたのありのままの姿なんや』って。そう教えてくれてな」
そう言うと、かがみの祖母は愛おしそうにそっと自分の胸元を撫でた。
――鳰の思考が、ピタリと止まった。
「じゃあ……あのブローチが欠けてたのは……」
美しいロジックで組み上げた答えが、必ずしも客観的な真実とは限らない。そんなこと、探偵を気取る前から百も承知していたはずだったのに。
「だからな、鳰ちゃん。あんたも無理してみんなにええ顔なんてせんと、ありのままでおったらええんよ。周りから何言われたって……あんたには、かがみがおるんやから」
温かな言葉が、鳰の心にじわじわと染み渡っていく。
上手く返事を返すことができなかった。鳰は今、自分が作ってきた『永原鳰』という仮面の演じ方すら、すっかり忘れてしまっていた。




