壊れたって
その後、病院から帰宅したかがみを見るやいなや、鳰は無言でその身体に強く抱きついた。かがみは目を丸くして驚いていたが、今の鳰にはかがみにどう思われようと構わなかった。ただただ、かがみの温もりを肌で確かめたかった。
かがみはひどく心配して「家まで送ろうか?」とまで提案してくれたが、鳰はそれを静かに断り、ひとり自転車を漕いで帰路に就いた。
自宅のカーポートに自転車を停め、鳰が玄関のドアノブに手を伸ばそうとした、その時ーー
「珍しいね、お姉。この時間に帰ってくるなんて」
背後から声をかけてきたのは、ひとつ下の妹、澪だった。どうやら彼女の通う塾からの帰宅時間とちょうど重なったらしい。
「あー……うん。友達の家に寄ってたから」
鳰は澪と特段仲が良いわけでもなければ、かと言って不仲と断じることもできない、どこか余計な踏み込みを避けるような微妙な距離感を保っていた。自分が選ばなかった地元中学校の制服に身を包む、自分と瓜二つの顔立ちをした妹を見るたび、鳰は胸の奥で小さな罪悪感を覚えてしまうのだった。
「お母さん、今日も仕事遅くなるって。適当に晩御飯作るから」
澪は素っ気なく言い放つと、鳰よりも先に玄関のドアを開けようとした。
その瞬間、鳰は自分でも意図しない衝動に突き動かされ、ドアノブにかかった妹の手を掴んでいた。
「……なに?」
腕を掴まれ、澪が不審そうに眉をひそめて振り返る。
「あ、あのさ。今日は……私も晩御飯作るの、手伝おうかな、なんて」
「……なにそれ」
突然の申し出に、澪は戸惑いとほんの少し呆れを含んだ眼差しを鳰に向けた。
夕飯を終え、食器の片付けを済ませた鳰は自室へと戻った。
椅子に深く沈み、背もたれに身体を預けたままゆっくりと回転する。部屋の天井が視界を巡っていく。
「……ねぇ、にぃ。私は『探偵』じゃなくて、『脚本家』だったね」
にぃと呼ぶ、幼い頃から抱えてきた自分自身の内面に向かって、ぽつりと呟いた。
なんだか、ひどく疲れてしまっていた。
かがみには望み通りの満点の答えをあげられた。けれど、かがみの祖母には仮面の下の素顔を見抜かれてしまった。
――自分らしさって、一体なんだろう。
誰からも嫌われないよう完璧に作ってきた『永原鳰』という自分は、私らしくないのだろうか。
もう、居ても立ってもいられないくらい、かがみの声が聴きたくなった。
今すぐ電話をかけてしまおうか。いや、だめだ。彼女だって祖母の入院からここ数日、疲れているはずなのだから。
誰にも吐き出せない心の中のモヤモヤにゆっくりと蝕まれていくような感覚を覚えながら、鳰は目を閉じ、静かに思った。
ーー私も欠けた雪の結晶みたいになれたらいいのに。
鳰のスマートフォンが、暗い室内でピロンと軽快な通知音を鳴らした。
「かがみだ!」
鳰は跳ね起きるようにして、机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。だが、画面に表示されたのは期待していた名前ではなく、何日か前に不躾で身の程知らずな告白を送ってきた『誰かさん』からの通知だった。
『何度も考え直したけど、やっぱりあなたのことが好きです。直接会ってあなたに気持ちを伝えさせてください』
――なんとも情けない男の子だな、と鳰は冷ややかな目を向けた。
こうして画面越しに保険をかけ、あらかじめ相手の反応を探っておかなければ直接自分の気持ちすら伝えられないのだろうか。
『お断りします』
鳰はためらいなく素っ気ない拒絶の短文を打ち込んで送信した。会ったことすらない相手からの一方的な好意に、うっすらとした嫌悪感を覚える。だが、相手からの返信は即座に返ってきた。
『毎日、あなたが本を勧めてくれた時間は僕にとって特別でした。だから、あなたの本心を知りたいんです』
「……ん?」
全く身に覚えのない甘酸っぱいエピソードで恋心を爆発させている相手に、いよいよ呆れと苛立ちの限界に達した。そもそも鳰にとって読書など、授業や宿題でもなければ絶対に自分から手を出さない苦痛でしかないのだ。
『いい加減にして。誰かと勘違いしてない?』
『えっ……僕は青地旭人ですよ! いつも図書当番をしているあなたと、また以前のように楽しく本の話をしたいんです』
画面の文字を読み上げた瞬間、鳰は静かに頭を抱えた。
翌日は雪が積もっていたことなど嘘かのように暖かい朝だった。通学路の片隅に少しだけ残っていた氷の塊も、昼前には跡形もなく消えて無くなってしまいそうだった。
「ねぇ鳰~!あのストーリー見たー?」
教室のドアを開けるやいなや、クラスメイトの小島さきが待ち構えていたように駆け寄ってきた。
「え~なにそれ? 見てない!」
さきはどうやらSNSに流れてきたショート動画の話題を共有したかったようだが、鳰は飾らず素直に「見ていない」と首を振った。以前の自分なら、笑顔の裏で無理をしてでも話を合わせていただろう。
――昨日、かがみの祖母からかけられた言葉が、胸の奥で響く。
「え~、鳰ももっと見ればいいのに! 結構面白くてさ、いい時間潰しになるよ?」
「あはは~、私そういうのちょっと疎くて。難しいのは苦手なんだよね」
実際、鳰はSNSがあまり得意ではなかった。かつて顔の見えない悪意やに嫌気が差した経験があったからこそ、友人との連絡ツール以外で積極的に使う気にはなれなかったのだ。もっとも、そうやって自衛していても、時折見ず知らずの人間からいきなり失礼なメッセージが飛んでくることもあるわけだが。
青地からのおかしな勘違いのメッセージを思い出し、鳰は思わず一人で「ふふっ」と吹き出してしまった。
「なになに?! 急にどうしたの鳰、なんか面白いことあった?」
さきが目を丸くして不思議がったが、鳰は「ううん、なんでもない」と誤魔化した。いくら勘違い男とはいえ、彼の恥ずかしい勘違いを他人の前で笑い者にするほど自分の性格は悪くないはずだというささやかな自負が鳰にはあった。
「――おはよう」
静かで、心地よい声が開いたドアから届いた。
教室の入り口に立っていたのはかがみだ。鳰はさきとの会話を適当に続け、吸い寄せられるようにかがみの方へと視線を向けた。




