私の位置
翌日、祖母が無事に退院を果たしたことで、かがみは朝からどこか安堵して見えた。鳰は引き受けた頼み事の糸口すらまだ掴めてはいなかったものの、かがみの表情を見て同じように安心した。
「おばあちゃん、無事に退院できてよかったね」
「うん。ほんとに大したことなかったみたい。なんか私ひとりだけで勝手に慌てちゃって、鳰にも色々と心配かけちゃってごめん」
そう言って微笑むかがみの姿に、鳰は咄嗟に両手で自分の頬を包み込むようにして頬づえをついた。気を緩めると、嬉しさのあまり口元がにやけてしまいそうだったからだ。
「……ねえ、かがみ。今日の放課後、お家行ってもいい?」
「うん、別に構わないけど……何かあったの?」
「かがみからお願いされたこと。一度、おばあちゃんの顔を直接見てみたくて」
かがみは両親と祖母と同居している。鳰も何度かかがみの家に遊びに行き、挨拶を交わしたことはあった。だが今日は、あの『欠けた雪の結晶』のブローチの存在を頭に置いた上で、もう一度かがみの祖母を見てみたかったからだ。
放課後になると鳰はかがみと一緒に駐輪場へ向かい、それぞれ自転車を漕いでかがみの自宅へと向かった。
かがみの家は学校からほど近い場所にあり、鳰はあれこれと口実を作っては普段から足繁く通っていた。かがみの祖母は活発な人で、鳰が訪れる時は決まって庭木の手入れや草抜きに勤しんでいた。
「今日は流石に、お家の中にいるんだね」
「うん。病院から帰ってきてすぐ『庭木に雪が積もったままだ』って文句言って飛び出そうとしたんだけどね。お母さんに止められて、足が治るまではおとなしくしてるって」
玄関のドアを開け、かがみが先に中へ入る。鳰は「お邪魔しまーす」と控えめで愛想の良い声で挨拶をすると、手際よく靴を揃えて脱いだ。
リビングではかがみの祖母がこたつに入り、湯気の立つカップから紅茶を飲んでいた。甘く香ばしい紅茶の香りが、ふわりと鳰の鼻腔を満たす。
「いらっしゃい、鳰ちゃん。いつもかがみと仲良くしてくれてありがとね」
「こんにちは、お邪魔します。おばあちゃん、足のお怪我は大丈夫ですか?すごく心配したんですよ」
「大丈夫、大丈夫。大げさに病院に担ぎ込まれただけやから。鳰ちゃんも気遣ってくれておおきに」
かがみの祖母の様子は至って普段通りだった。鳰は丁寧な挨拶と気遣いの言葉を掛けつつも、どこか拍子抜けしたような感覚を覚えていた。
かがみに促されて二階の彼女の部屋へと階段を上りながら、そっと囁く。
「……おばあちゃん、すごく元気そうだね」
「うん。私も本当に安心した」
――この気丈なおばあちゃんが、あの『欠けた雪の結晶』のブローチに、一体どんな過去や意味を刻み込んでいるんだろう。
鳰は表面上はいつもの朗らかな表情を保ったまま、先ほどのまでの会話を頭の中でもう一度なぞった。
「おばあちゃんから紅茶分けてもらってくるね」
かがみがそう言い残して部屋を出ていくと、室内には鳰ひとりが残された。
足音が階段を下りていくのを確認すると、鳰は吸い寄せられるようにかがみのベッドへと倒れ込んだ。シーツに顔を埋め、深々と息を吸い込む。
――すごく落ち着く匂い。
あとで知られたら間違いなくかがみに叱られるだろう。けれど、こうしていると彼女の存在をいつもよりもずっと近くに感じられるような気がした。
仰向けになり、天井を見た鳰の視線が、ふとドアの脇にある棚へと向いた。そこに飾られていたのは、幼い頃のかがみと今より少し若い祖母が並んで笑っている写真立てだった。
『雪の結晶には『再生』とか『新しく生まれ変わる』みたいな意味を持たせてる話もあるんやって』
ふと、昨日の話を思い出す。
雪の結晶は、一度溶けてしまえば二度と元の形には戻らない。
――それでも、「新しく生まれ変わる」。
たとえ、欠けていたとしても。
……もしも。「不完全であること」に、意味があるとしたら?
鳰の中で、散らばっていたいくつもの疑問が少しずつひとつの形を取り始めていた。
「……で?鳰の本当の目的はこれだったわけ?」
二人分の紅茶と洒落た茶菓子のトレイを持って部屋に戻ってきたかがみは、ドアの立ち位置で絶句していた。その瞳には呆れを通り越して深々とした軽蔑の色が浮かんでいる。
かがみのベッドの真ん中で正座をした鳰は、小さく身を縮こまらせて首を振った。
「違います……これは不可抗力というか、ちゃんとした理由があって……」
「どんな理由があったら、友達のベッドでゴロゴロ転がって匂いを嗅ぐことになるわけ?」
ジト目で詰め寄るかがみの追及をかわすように、鳰はバッと立ち上がって声を張り上げた。
「そ、そんなことより!おばあちゃんのブローチの謎、もう少しで何か大きな閃きが得られそうなの!」
「――っ、本当に!?」
さっきまでの呆れ顔が一変し、かがみの目の色が変わった。トレイを慌ただしく机に置くと、身を乗り出すようにして鳰に迫る。
「うん。それでね、かがみに確認したいことがあるの。おばあちゃんが昔、かがみにブローチを見せてくれた時から今までの間に……二人の間で、何かすごく印象に残る出来事ってなかった?例えば……誰か身近な人が亡くなった、とか」
もちろん、確証なんてどこにもなかった。
聞き方ひとつ間違えれば、かがみがずっと胸の奥に閉じ込めてきた古傷を無遠慮に抉ってしまう可能性だってある。
だが――鳰の胸の中には、言葉にならない感覚的な確信があった。
『再生』
『雪の結晶』
『欠けた一片』
それらが示すものが、ただの勝手な推察に過ぎなかったとしても。それでも、かがみの揺れる心に『納得のいく理由』を手渡してあげられるのなら、それで十分だった。
――永原鳰と十二里かがみの間の世界で、厳密な『真実』なんてものは必ずしも必要ない。二人の視界を遮るうす暗い霧を晴らせるだけの、美しい理由さえ成り立つのなら。
鳰は心の中で自嘲する。
私たちは決して万能でもなければ、誇れるほど賢明でもない。
だけど――ふたりがそれで納得して、明日もこうして一緒にいられるのなら、それ以上の答えなんて要らないのだから。




