意味があれば
翌朝、残っていた雪は少し溶け始め、鳰はいつものように自転車を漕いで登校した。
冬の風を頬に感じてペダルを踏みながら、頭の中を占めていたのは昨夜のかがみのメッセージだった。あのかがみが自分に頼みたいこととは一体何なのだろう。思考を巡らせるだけで、寒さも忘れるほど胸がそわそわと高鳴っていた。
「おはよう、かがみ」
教室に入ると、少し疲れたかがみがすでに席に着いていた。
「おはよう、鳰。ごめんね、昨日は急にバタバタしちゃって……心配かけたでしょう」
「ううん、おばあちゃんが大したことなくて本当に良かったよ」
鳰が自分の席にカバンを置きながら微笑むと、かがみはゆっくりと息を吐き出し、意を決したように切り出した。
「それでね、昨日の『雪の結晶』のことなんだけど……」
かがみがおもむろに制服の胸ポケットへ手を伸ばし、取り出したもの。
それは――繊細な銀色に輝く、雪の結晶を模した小さなブローチだった。
「綺麗なブローチだね」
「昨日、病院へ持っていく着替えを準備しにおばあちゃんの部屋に入った時に見つけたの。多分……すごく大切なものなんだと思う」
かがみの小さな掌に乗せられたブローチは、雪の結晶の形状を忠実に模した、幾何学的で美しく繊細な銀細工だった。だがその美しさの中で、結晶の一片だけが欠けていた。
「……壊れちゃってるの?」
鳰の問いかけに、かがみの表情がすっと曇る。
「おばあちゃん、昔私にこれを一度だけ見せてくれたことがあった。その時は……絶対に欠けてなかったんだ」
そこまで聞いて、鳰はかがみの意図を察した。
「つまりかがみは、私にこのブローチが欠けちゃった理由を見つけてほしいんだ」
「……うん。入院したおばあちゃんを少しでも元気づけられないかって思ったら、それしか思い浮かばなくて」
申し訳なさそうにするかがみを見て、鳰は心の中で少しだけ呆れてしまった。
孫が祖母を励ますためなら、お見舞いの花を買っていくとか、美味しいお菓子を差し入れるとか、もっと手軽で真っ当な方法がいくらでもあるはずだ。それに、かがみの祖母は気丈な人だ。「心配いらない」と本人が言っているのだから、そこまで深刻に考え込まなくてもいいんじゃないか。
――けれど
他ならぬかがみが、自分のために頼んできてくれたのだ。
「……ふふっ、了解。任せてよ」
鳰は微笑んだ。
かがみは今日も祖母のお見舞いへ向かうため、放課後になると同時に大急ぎで学校を後にした。
鳰は図書室へ向かい、カウンター近くの席で雪の結晶の図鑑を食い入るように眺めていた。
ふと視線を上げると、貸出履歴を使ったひどく遠回りな手段で、届きそうにもない好意を伝えようとしている健気な青地の姿があった。彼は今日も書棚の前で散々悩んだ末、結局何も借りずに肩を落として去っていく。
その青地とすれ違うようにして図書室へ入ってきたのは、鳰の小学校の同級生であり、この春高校で再会を果たした白井耀太だった。
「うわ、珍しいこともあるもんやな。鳰が読書なんて」
「うっさいな。そっちこそ、読書って柄じゃないでしょ」
鳰は容赦なく毒づく。白井は鳰がみんなに好かれるお行儀の良い『永原鳰』を演じなくていい数少ない人物のひとりだった。
「知らんかった?俺、一応図書委員やねん。まあ当番の日やなかったらわざわざ来んけどさ」
鳰は白井と二、三言ほど言葉を交わすと、すぐに手元の図鑑へ意識を戻した。すると白井は躊躇なく、鳰の肩越しにひょいと首を伸ばしてきた。
「……ひっ!? ちょっと、近いっての!」
突然至近距離に迫った気配に飛び上がり、鳰は身をひく。
「雪の結晶ねぇ。意外とロマンチストやん、鳰」
「別に違いますー。私は頼まれ事を解決したいだけ。……あ、そうだ。ねえ、『雪の結晶』って言われて何かイメージするものある?」
鳰は気を取り直すと、目の前の白井を利用して何か糸口が掴めないかと観察の目を向けた。
「イメージって言われてもなぁ。幾何学的で綺麗とか、全く同じ形は存在しないとか、そういう話くらいしか知らんけど」
「じゃあ質問を変える。――『欠けた雪の結晶』に、何か特別な意味があるとしたら何だと思う?」
かがみの祖母のブローチは、美しい六片のうち、ちょうど一片だけが自然な輪郭を損なうように綺麗に欠けていた。
もしかしたら、ただ単に床へ落として壊れてしまっただけなのかもしれない。けれど、たとえただの壊れただけだったとしても――そこに何かしら納得のいく「意味」を見出すことができれば、不安に揺れるかがみの心はきっと晴れると思った。
「……なんか今日難しいことばっか聞くね。また十二里ちゃん絡み?」
「ご明察だね。ほら、わかったならさっさと考えて答えて」
鳰が促したその時、受付カウンターの奥から「白井くーん」と図書委員の女子生徒が彼の名前を呼んだ。
白井は「はーい」と軽く手を挙げると、鳰に向き直った。
「当番終わったら話の続き聞いてあげるわ。また後で」
今日はかがみと一緒に帰る予定もない。鳰は「わかった」と短く頷くと、広げていた図鑑をパタンと閉じた。
白井の当番が終わるまでの間、学校の帰り道にあるフードコートで時間を潰しながら待つことにした。
フードコートの喧噪の中で、鳰はひとり思考を巡らせていた。
あのブローチは一体、誰から贈られたものなのだろう。そして、なぜ一片が欠けてしまったのか――
かがみの祖母があれほど大切にしていた品なのだ。それにもかかわらず、どこかの段階で結晶の一角が失われ、そのまま残されている。
せめて、誰とのどんな思い出の品なのかだけでもわかればいいのに、と鳰は息を吐いた。
「ごめんごめん、お待たせ」
白井が鳰の姿を見つけ、小走りで駆け寄ってきた。
鳰は日頃、校内では白井と極力接触しないようにしていた。不本意極まりないのだが、白井は女子生徒の間でそれなりに人気があるらしい。そんな彼が「小学校が同じだった」という理由で自分と馴れ馴れしくしていれば、鳰が学校で築き上げてきた『人畜無害で人当たりのいい永原鳰』という仮面が、くだらない嫉妬や邪推で汚されかねないからだ。
「当番の間にちょっと調べてみたで。雪の結晶そのものにそこまで決まった意味があるわけやないみたいやけど……」
「ただ、雪って一回溶けたら同じ形には戻らんやろ。せやから『再生』とか『新しく生まれ変わる』みたいな意味を持たせてる話もあるんやって。ヨーロッパでは願いを叶えるお守りとして大切にされたらしい」
「……意外。ちゃんと調べてくれたんだ」
「隣におった同じ学年の当番の女子に聞いてみたら、めちゃくちゃ詳しく教えてくれたねん」
白井と一緒に当番を務めていたその女子生徒は、昨日鳰とかがみが「青地のメッセージの相手」だと推察した人物だった。どうやら彼女は筋金入りの読書家らしく、白井は頭に入りきらないほど大量の「雪の結晶にまつわるエピソード」を教え込まれてきたらしい。
「……かがみのおばあちゃんが大事にしてるブローチが、雪の結晶の形をしてるの。でも一片が壊れててね。それを直さないまま残してる理由を見つけて、おばあちゃんを元気づけたいんだって」
鳰が事の経緯を説明すると、白井は可笑しそうに肩をすくめた。
「なんやそれ。十二里ちゃんって、やっぱりちょっと変わった子やな」
「……かがみのこと悪く言わないで。ムカつくから」
「悪口ちゃうって。そういうまっすぐなところが、あの子の魅力やと思う」
「……褒めもしないで。それもムカつく」




