欲しいもの
ヴァルトシュタイン商会からの出資が正式に決まり、エレノアは蒸留所建設のための段取りを行うことになっていった。
蒸留酒の製造に適した場所の選定に関しては、既にグランブル領内でのノウハウがある。
おかげで数日もしないうちに蒸留所建設の候補地を選定することができ、現在はウイスキー製造のための準備を急ピッチで進めている最中だった。
倉庫建設のための資材の搬入や蒸留器を造るための銅職人の勧誘など、やらなければいけないことは多い。
「エレノア様、少々働き過ぎなのでは……」
「いえ、これでも正直伯爵領に居た頃と比べればずいぶんと楽ですから」
大量の業務を並行して行っている様子にクラウスは心配しているが、睡眠を削って掠れた瞳で帳簿を見つめる必要がないというだけで、エレノアからすれば天国であった。
「それもこれも蒸留酒事業成功のためですからね」
「ふふっ、そのバイタリティは僕も見習わなければ」
二人で笑みを交わす。
エレノアとクラウスは共に事業を行う共同経営者であり、以前と比べるとずいぶんと仲を深めることができたように思える。
「それでは面接も終わりましたし、今日はこの辺りで……」
クラウスの言葉を遮るように、遠くから声が聞こえてくる。
その声を聞いたエレノアは、まさかと思い勢いよく後ろを振り返った。
ドアを開けてこちらにやってきたのは……妹のリリアーナだった。
「お姉様、やっと見つけたわ!」
「リリアーナ……急にどうしたの?」
「大変なのよ、実は伯爵領に借金があって……」
「ええ、知ってるわ」
「それでお姉様に……え?」
「あなたに嫡子の立場を引き継ぐ時に、何度も説明したでしょう」
エレノアは彼女にきちんと伯爵家の借金や現状についての説明もしている。
もっとも、リリアーナはこれから入ってくることになる税収や今あるお金にしか気が向いていなかったため、ほとんど聞いていなかった様子だが。
「今月末までに一万枚の金貨を払わなくちゃいけないの!」
「そうでしょうね」
「なんでそんなに無関心なのよ!」
「だって私、もうグランブルの人間じゃないもの」
家督は譲り、公証人の前で家名と相続権の放棄も行っている。
エレノアはもはやグランブル伯爵家とはなんの関係もない一般人でしかない。
彼女の言葉を聞いたリリアーナが、顔を真っ赤にしながら地団駄を踏んだ。
「借金なんて欲しくなかったわ! 私はただ伯爵になって贅沢な暮らしがしたかっただけなのに!」
「説明はしたし、契約書にサインをしたのもあなたじゃない」
「ぐっ……ずるい! お姉様だけ全てを捨てて自由になるなんてずるい!」
……エレノアは言葉が出なかった。
昔から欲しいものは全部自分のものにならないと気が済まない子だった。
親に甘やかされて育った彼女のことを羨ましいと思うこともあったが、こうして見ていると厳しく育てられて良かったなとしみじみと思う。
「だって、欲しいものは全部あげたでしょう? 譲り受けたんだから、義務と責任も一緒に引き受けなくっちゃ。伯爵になるというのはそういうことよ、リリア」
「うっ……お姉様、なんでそんなにひどいことばかり言うのよ……」
「エレノア様は至極当然のことを言っているだけだと思いますが……」
リリアーナの視線が、エレノアの隣にいるクラウスに移る。
クラウスは十人が十人振り返るほどの美男子だ。
彼を見たリリアーナの目がキラリと光る。
「あの、あなたは……」
「私はクラウス・ヴァルトシュタインと申します」
「ヴァルトシュタインって……ヴァルトシュタイン商会の!? どうしてそんなお方がお姉様と……」
屈指の大商会であるヴァルトシュタイン商会のことは、当然リリアーナも知っている。
そんな人物が既に家を捨てたエレノアと一緒にいるのか、まったく理解できていないという顔だ。
「クラウス様に出資をしてもらって、一緒に蒸留酒事業を立ち上げている最中なの」
「蒸留酒って……あの安酒の!?」
「安酒……ですか?」
「ああいや、違くて!」
その目を見たことがないほどに鋭く細めたクラウスの言葉に、リリアーナはたじろいだ。
彼女はエレノアが造ろうとしているお酒になど、まったく興味を持ったことはなかった。
今までまったくの無関心だったそれが、あのヴァルトシュタイン商会が興味を持つほどの代物だったと知ると、途端に欲しくなってくる。
「お姉様、その蒸留酒事業……私にちょうだい!」
姉は妹に欲しいものを渡して当然。
かわいい私はそれをもらえて当たり前。
そんな態度が透けて見えるリリアーナを見て、エレノアは薄く笑った。
やっぱりこうなったか……と。
「リリア、私は以前あなたに聞いたことがあるわよね?」
「何を……あっ」
彼女の頭の中に、まだエレノアが家に出る前のやりとりがよぎった。
『リリアは、私が造るお酒の事業も欲しいと思う?』
『いらないわよ、そんなもの!』
自分はたしかに以前、蒸留酒事業をそんなものと一蹴してしまっていた。
リリアーナはわなわなと身体を震わせる。
たしかにあの時はそう言った。
だがまさか、ヴァルトシュタイン商会が出資をするほどに将来性があるものだとは気付いていなかったからだ。
他の商会が返済を待ってくれていたのも、ひょっとしてこの『庶民の酒』が理由なのだろうか。
だとしたら私は、なんてことを……。
そんな風に顔を青ざめさせるリリアーナを見ながら、エレノアは口を引き結び、続けた。
「リリア、私はあなたが欲しいと言ったものを全てあげたわ。婚約者も、家督も、領地だって……だからこれ以上、私のものを欲しがろうとしないでちょうだい」
「――っ!!」
リリアは青ざめていた顔を真っ赤にさせながら、唇を噛みしめる。
彼女はエレノアを睨み、その隣にいるクラウスを見つめ……そしてふんっと鼻から息を吐き出しながら帰っていく。
「お姉様なんて……もう知らない!」
こうしてリリアーナは何も得ることができぬまま、伯爵領へと戻っていくのであった。
♢♢♢
月末を迎え、伯爵家に来客がやってきた。
顔を真っ青にしたリリアーナにできるのは、荷運び人が入ってくるのを見つめることだけだ。
「よし、それでは事前に言っていた運び出せ。まずはこっちの割れやすい壺から……」
借金を返すことができなかった伯爵邸から、担保に入れていた財産がどんどんと運び込まれていく。
名陶から絵画、そして宝石に至るまで……リリアーナが欲しいと思っていたものが、どんどんと家の中から運び出されていく。
「待ちなさい! これは私のものよ!」
リリアーナが特にお気に入りだった、伯爵家伝来の真珠のネックレス。
運び人の手を止めようとしたリリアーナだったが、商人の目は冷たかった。
「これも担保に入っておりますので」
リリアーナは何もすることができず、その場にずるずると倒れ込む。
あっという間に梱包は終わり、商人達が去っていく。
伯爵家の中はずいぶんと殺風景になってしまった。
何もなくなった屋敷の中を見渡す。
自分が嫡子になることを喜んでいた父は既に塞ぎ込み、部屋から出なくなってしまっていた。
あれほど仲睦まじかったはずのアルフレッドはここ最近は屋敷にも来ず、ふらふらと出歩いてばかりいた。
欲しいものを全て求めたその結果が、このがらんどうの伯爵邸だった。
「お姉様……」
リリアーナは姉のことを呼んだ。
けれど当然ながら、それに答える声はない。
広い広い屋敷の中に、リリアーナの呟きだけが、むなしく響き渡るのであった……。
♢♢♢
一方王都では、エレノアは宝飾店へとやってきていた。
彼女の指先には、サファイアの指輪が嵌められている。
これまで、爪の垢に光を点すような節制生活を続けてきたエレノアは、自分のためにお金を使ったことは一度もなかった。
けれど、もうそんな生活を続ける必要はないのだ。
大貴族に卸されることになったウイスキーの売却益。
そのお金を使い彼女は、生まれて初めて自分のために何かを買うことにしたのだ。
「大変お似合いですよ、エレノア様」
くるりと後ろを振り返れば、そこにはクラウスの姿がある。
にこりと笑ってくれる彼に、エレノアは笑みを返す。
無論、全てが順風満帆にとはいかないだろう。
やらなければいけないことも多いし、事業を軌道に乗せるまでには時間もかかるはずだ。
けれどエレノアに不安はなかった。
自分が造る蒸留酒を、王国一のお酒にしてみせる。
そんな未来を見つめる彼女の瞳は、キラキラと輝いている。
「エレノア様、もしよければ一緒にお食事でもいかがですか?」
「食事、ですか?」
「ええ、私達の未来の成功を祈って」
「……ふふ、それでしたら、ぜひご一緒させていただきます」
クラウスにエスコートされながら、彼女はゆっくりと馬車へと乗り込む。
エレノアはずっと走り続けてきた。
婚約者の浮気に耐え、質素倹約な生活を続けながら休む間もなく家のために働き続けてきたのだ。
けれど彼女はもう、これ以上何かを奪われることはない。
そしてここから手に入れたものは全て、他の誰でもない、自分のものになるのだ。
指先でキラリと光るサファイアは、彼女にとって自由の象徴だった。
これからは、自分の好きなように生きていく。
エレノアの新しい人生は、ここから始まるのだ――。




