第九話 旅立ち
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称・事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません
里へと駆け下りる蓮の視界に、見慣れた神社の鳥居が飛び込んできた。外観は、以前と変わらない。杉の巨木に囲まれた静謐な佇まい。
だが、山宮で過酷な自然と一体化する修行を積んだ今の蓮には、その静寂がいつもと異なるものであることが直感で分かった。
「……凪、親父」
蓮は参道の石段を一気に駆け上がった。
拝殿の戸は固く閉ざされ、境内には人っ子一人いない。
しかし、微かに残る靴の跡と、嗅ぎ慣れない薬品の臭いが、ここで行われた暴力を物語っていた。
奥にある社務所へ向かうと、そこは無残に荒らされていた。神職としての父の机はひっくり返され、凪が大切にしていた神楽鈴が、床に寂しく転がっている。
「……っ!」
蓮は鈴を拾い上げ、握りしめた。鈴の冷たさが、山宮での雪の冷たさを思い出させ、岩戸の教えが、脳裏に響いた。蓮は深く呼吸をし、心を鎮めた。
閉じた目の裏に、里の地図が浮かぶ。
神社の裏手、かつては禁足地とされていた古井戸の跡地。そこは、緊急の避難場所になっていた。
「……あそこか、」
蓮は社務所を飛び出し、裏山の森へと身を投じた。
以前なら怯えていた暗い森も、今の蓮には、自分を隠し、守ってくれる味方に見えた。「天地人」の歩法で気配を消し、風のように木々の間をすり抜ける。
やがて、森が開け、古井戸の跡地が見えた。
そして、井戸の傍らに、ぐったりと項垂れる父の姿があった。
「……凪は、ここにはいない」
その言葉を聞いた蓮は、凍りつくような喪失感に襲われた。
ワンボックスカーの轍が、神社の境内の砂利を乱暴に削り取り、そのまま舗装道路へと消えている。
父は、重い瞼を開け、震える手で蓮の腕を掴んだ。
「……蓮、あいつらは……凪を『器』にしようとしている……。」
「器……?」
「奴らの拠点は、一つじゃない。各地の『古い社』を潰しながら、拠点を移動させている……」
父は激しく咳き込み、胸元から血に汚れた一枚の古い地図を取り出した。
そこには、日本各地に点在する「タチカキ」の源流となった神社の名が記されていた。
「これを持って……行け。凪を……救い出せるのは、お前だけだ……」
蓮は地図を握りしめた。
山で学んだ「理」が、今度は静かな決意となって腹の底に沈殿していく。
以前の彼なら、絶望に打ちひしがれ、座り込んでいただろう。だが、今の蓮は違う。
「……分かった、親父。必ず、凪を連れ戻す」
蓮は父を、信頼できる病院へと預けると、境内の鳥居をくぐった。
振り返ることはしなかった。
彼が踏み出した一歩は、もはや「逃亡」ではなく、「追跡」の一歩だった。




