第十話 潮流
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称・事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません
蓮が最初に向かったのは、地図に記された瀬戸内海の孤島、「海鳴島」だった。
かつて神代の社から分かれた「水の門流」が守る、「海鳴神社」そこには、激しい潮流を読み、その力を己の動きに変える「清流」の極意が眠っているという。
連絡船を降りた蓮を迎えたのは、潮の香りと、切り立った断崖にへばりつくように建つ古い鳥居だった。
観光客の姿はない。あるのは、荒れ狂う鳴門の渦潮の音と、岩を叩く波飛沫だけだ。
「……ここか」
蓮は「天地人」の歩法で、濡れた石段を音もなく登る。山宮の雪で鍛えた足腰は、海風に煽られても微動だにしない。
境内の奥へ進むと、波打ち際に突き出した舞台の上で、一人の尼僧が座っていた。
「神代の若き獅子よ。雪の匂いを纏って来ましたね」
尼僧は、振り返ることなく言った。
彼女の周囲だけ、空気の密度が違う。荒れ狂う海を眺めながら、その背中は清流のような静けさを思わせた。
「私は観月と申します。」
振り返り、見透かされるような視線を浴びた。
「凪を探しています。……ある集団が、彼女を連れ去りました」
蓮の言葉に、観月はゆっくりと立ち上がった。その動きには、予備動作がない。まるで、満ち潮が自然に岩を覆うような、不可視の速度。
「凪さんは、ここにはいません。ですが、彼女は常に『響き』を発しています。この海のどこかにも溶けています。……それを聞き取る力が、今のあなたにありますか?」
観月は、一振りの細い竹竿を蓮に投げ渡した。
「岩戸は、大地を味方にしました。ですが、……今の敵は、あなたそのものを壊そうとします。ならば、学ぶべきは『清流』の真髄――水です」
観月が課した最初の試練は、荒れ狂う潮流の中に身を投じ、沈むことなく「立ち続ける」ことだった。
雪山でもそうだったな、そんな気楽な思いは打ち消された。
雪山の「不動」で耐えようとすればするほど、奔流は蓮の関節をきしみ上げ、海の底へと引きずり込もうとする。
(……違う。耐えるんじゃない)
彼は力を抜き、自らの鼓動を、押し寄せる波の周期に同期させた。
水になる。
次の瞬間、蓮の身体は激流を「受け流す」のではなく、激流の「一部」となった。渦のエネルギーを自らの回転に加え、反発をゼロにする。
海面に浮かぶ蓮の周囲には、波紋すら立っていない。まるで、そこだけ海が静止しているかのような、異様な調和。
「……見事です」
観月が、崖の上から静かに告げた。
その時、蓮の耳に、微かな音を感じた。それは、空耳のようなものだったが、凪がかつて口ずさんでいた神楽歌の一部のようだった。
「……これなのか?」
凪の気配は、この島を通過し、さらに南の方向を示しているようだった。




