第六話 不動の理
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称・事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
「立て。吹雪が止むまでだ」
岩戸巌鉄が残した言葉は、それだけだった。
社の裏手にある、遮るもののない断崖。蓮は一人、膝まで積もった雪の中に立たされていた。
最初は、ただの我慢比べだと思っていた。だが、数分と経たないうちに、自然が牙を剥き始める。体温は容赦なく奪われ、指先の感覚は早々に消えた。吹きつける雪礫が、剥き出しの頬を刃物のように削る。
「……四海、九天……」
蓮は、教えられた通りの構えをとった。重心を低く、大地と繋がる意識。だが、吹雪に煽られるたび、雪という流動体に囚われた足が、砂の城のように崩れていく。一時間、あるいは二時間か。寒さは痛みへと変わり、やがてその痛みは無感覚へと沈んでいった。思考が混濁する。脳裏に浮かぶのは、九条凱の冷徹な瞳だ。
(あいつの拳は、これよりも鋭かった……。あいつの踏み込みは、この吹雪よりも、迷いがなかった……)
悔しさと恐怖が、冷え切った心臓を微かに震わせ、その震えが、身体の均衡を狂わせた。支えきれなくなった蓮の膝が、雪の中に沈みかけたその時。
「無駄な力が入っている」
背後から、岩戸の声がした。いつからそこにいたのか、気配すら感じさせなかった。
「お前は、吹雪と戦おうとしている。己の『力』で、この山をねじ伏せようとしている。それはタチカキではない。」
岩戸は蓮の隣に並び、音もなく「四海九天」の構えをとった。驚くべきことに、岩戸の周りだけ、雪の降り方が違って見えた。風が彼を避けていくのではない。風が、彼という「岩」を自然な流れとして受け入れているのだ。
「分霊とは何か。自分を神の一部だと信じることだと言ったな。ならば、この吹雪も、この雪山も、お前と同じ神の一部だ。自分自身と戦って、勝てるはずがなかろう」
岩戸の言葉が、氷のように冷え切った蓮の意識に、一点の熱を灯した。
(自分自身と、戦わない……?)
蓮は、強張っていた肩の力を抜いた。寒さを拒絶するのではなく、冷たい風が肌を撫でる感覚をそのまま受け入れた。大地を「掴む」のではなく、大地の一部として「置かれる」感覚。
すると、不思議なことが起きた。感覚が消えていたはずの足裏が、雪の層を突き抜け、その下の凍土の硬さを捉えたのだ。猛烈な突風が、蓮の正面から叩きつける。いつもならよろめくはずの衝撃。だが、蓮の身体は、しなやかにそれを受け流し、中心軸だけが揺るぎなくそこに残った。
「……」
視界が開けた。白一色の世界が、一つの巨大な「理」の体現に見えた。雪が積もるのは、重力に従っているから。風が吹くのは、気圧が巡っているから。自分がここに立っているのは――この自然の巡りの中に、生かされているから。
蓮の身体から、余計な震えが消えた。数時間後、吹雪が止み、雲の隙間から冷たい月光が差し込んだ。そこには、雪だるまのように真っ白になりながらも、微塵も揺らがずに立つ一人の若者の姿があった。
岩戸巌鉄は、それを見て、初めて微かに口角を上げた。
「……ようやく、スタートラインだ。若僧」
蓮は、ゆっくりと目を開けた。凍傷寸前の身体は悲鳴を上げていたが、その瞳には、かつてない静謐な光が宿っていた。それは、「闘争の術」の奥底に眠る、「タチカキ」の入り口に触れた者の眼差しだった。




