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グレイフォード邸

 馬車がゆっくりと動き出した。車輪が石畳を転がる音が響く。

 窓の外を眺めながら、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 領都へ来た時は緊張でいっぱいだったのに、市場を巡っているうちに、ずいぶん落ち着いてしまった。

 

「……屋敷かぁ」

 

 ぽつりと呟く。

 市場で浮かれていた間は忘れていたが、これから行くのは騎士団長のお屋敷だ。しかも妹君に会い、お茶をふるまう。

 考えれば考えるほど緊張してくる。

 私は窓に映る自分を見た。髪は乱れていないだろうか。服は大丈夫だろうか。

 市場を歩き回ったせいで少し埃っぽくなっていないだろうか。

 不安になってスカートの裾を払った。

 

 やがて馬車は賑やかな市街地を抜けた。通りが広くなり、庭付きの邸宅が並び始めた。領都でも上流階級が暮らす区画なのだろう。さらに奥へと馬車は進む。

 しばらく経って、馬車が緩やかに速度を落とし始めた。窓の外を流れていた街並みが止まる。

 やがて車輪のきしみも収まり、馬車は完全に停止した。どうやら到着したらしい。

 ほどなくして外で足音がして、金具の触れ合う音が聞こえた。

 扉が開かれる。

 

「ウェルズ様、到着いたしました」

 

 差し込んだ夕日に目を細めながら息を飲んだ。

 想像していたよりずっと立派で、タウンハウスとは言っていたものの、小さな邸宅とよべるほどだった。

 もちろん男爵家の本邸ほどではないのだろう。

 それでもスプリングベイルでは見たこともない規模だ。

 二階建ての石造りの館には夕暮れの光を反射するたくさんの窓が付いている。そして、整えられた庭園。

 正面玄関には既に使用人たちが待機していた。

 その中に、見覚えのある姿があった。

 黒い外套を着た背の高い体躯。

 レイナード様だ。

 どうやら先に帰宅していたらしい。こちらに気付くと数歩前へ出る。

 

「着いたか」

 

 たった一言だけなのに、不思議とほっとした。

 

「お待たせしました」

「いや」

 

 レイナード様の視線が私の後ろへ向く。

 使用人達が荷物を降ろしていた。

 紙袋が三つ。一つはパンパンに詰まっている。

 レイナード様は目を瞬いて、黙っている。

 恥ずかしくなって、私は視線を逸らした。

 

「市場が面白くて」

「そうか」

 

 声こそ平坦だったが、口元が少しだけ緩んでいる気がする。

 気のせいだろうか。

 

「荷物は客室へ運ばせる」

「ありがとうございます」

「夕食まではまだ時間がある」

 

 レイナード様は館の方へ視線を向けた。

 

「まず妹に会ってもらいたい」

 

 私は表情を引き締めた。今日ここへ来た目的はそれだ。

 

「はい」

 

 私は頷いた。

 

「お役に立てるよう頑張ります」

 

 レイナード様はその言葉を聞くと、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「畏まる必要はない」

 

 静かな声だった。

 

「来てくれただけで十分助かっている」

 

 夕暮れの冷たい風が吹く。体は寒さを感じているのに胸の奥だけが少し温かくなった。

 私はその気持ちをごまかすように館へ向き直る。

 

「それでは」

「ああ」

 

 レイナード様が歩き出すと、使用人が扉を開いた。

 暖かな灯りが漏れ出す。

 

 

 屋敷の中は、外から見た印象よりもずっと落ち着いていた。

 磨き上げられた大理石の床。高い天井。壁には風景画や織物が飾られている。

 けれど、どこか生活の気配がある。

 豪奢なだけではなく、人が暮らしている家という柔らかな雰囲気が感じられた。

 玄関ホールへ入ると、年配の執事が恭しく一礼する。

 

「お帰りなさいませ、レイナード様」

「ああ」

「こちらのお嬢様が?」

「店主殿だ」

 

 レイナード様は私を振り返った。

 

「妹の件で協力してもらっている」

 

 執事の視線がこちらへ向く。

 穏やかだが、どこか探るような目。

 しかし次の瞬間には柔らかな笑みに変わった。

 

「ようこそお越しくださいました、『イザベルの忘却ティーハウス』店主様」

「は、はい。お世話になります」

 

 慌てて頭を下げる。

 執事は目尻に小さな皺を刻んだ。どこか安心したような顔だった。

 案内されるままに階段を上る。

 二階の廊下は静かだった。

 一階の使用人たちの声も届かない。

 歩きながらレイナード様が口を開く。

 

「エレノアは最近、体調が良い日と悪い日の差が激しい」

「……そうですか」

「今日は比較的落ち着いている」

 

 その声には安堵が混じっていた。きっと良くない日も多かったのだろう。

 私は少しだけ胸が締め付けられる。この人はずっと心配していたのだ。

 廊下の奥でレイナード様が立ち止まる。

 白い扉の前。

 他の客室より少し広そうだ。

 ノックの音が響く。

 

「エレノア」

 

 中から返事があった。若い女性の声だ。

 

「お兄様?」

「入るぞ」

 

 レイナード様が扉を開く。

 部屋の中は陽だまりのようだった。

 暖炉には火が入り、大きな窓から夕暮れの光が差し込んでいる。

 窓辺には鉢植えの可憐な花が飾られている。縫いかけの刺繍だろうか、文机には糸と布が置かれている。

 長く療養している人の部屋というより、誰かが大切に暮らしている空間のようだった。

 その中央のソファに、一人の女性が座っていた。

 年は私とそう変わらないだろうか。

 艶やかな黒い髪、そして髪色と同じ黒く長いまつげに縁どられた輝く青い瞳。

 レイナード様の瞳が静かな冬の湖畔だとすれば、彼女のきらめきはまるで夏の日差しを受けて輝く水面のようだった。

 間違いなくレイナード様の妹だ。

 顔色は少し青白く、笑顔もどこか疲れて見えた。

 

「まあ」

 

 彼女は私を見る。

 そして、ぱちぱちと長いまつげを合わせた。

 

「お兄様」

「なんだ」

「女性を連れてきたのですか?」


 部屋が静かになった。

 私とレイナード様は固まった。

 

「違う、仕事だ」

「ふふ」

 

 エレノア様が笑った。明らかに面白がっていて、私は居たたまれなくなる。

 どうして妹という存在はこうなのだろう。肉屋のミリーちゃんを思い出した。

 彼女達は兄をからかうことに全力を注ぐ生き物なのだろうか。

 

「紹介する」

 

 レイナード様が軽く咳払いした。

 

「スプリングベイルで『イザベルの忘却ティーハウス』を営む魔女殿だ」

「え?」

 

 エレノア様は困惑しているようだった。魔女だとは聞いていなかったのかもしれない。

 

「お兄ちゃん、お名前を知らないの?」

「うん……? 確かにそうだな……」

「信じられない」

 

 エレノア様は両手で口を隠しながら、目を見開いた。

 

「困ったことがなかったからな、つい。店主殿、失礼した」

「いえ、私が名乗っておくべきでした。気が利かず、すみません」

 

 ペコペコとお互いに頭を下げあう私たちを見て、エレノア様は小さく声を上げた。

「店主殿!? 信じられない。女性の扱いが雑すぎるわ! これだからお兄ちゃんは……」

 

 エレノア様はソファーからすっくと立ちあがった。

 

「自己紹介しましょ、三人で」

 

 なんだかその顎を上げて兄を睨みつける顔が可愛らしくて、つい微笑んでしまった。

 まずは名乗る機会を与えてくれたことに感謝する。

 

「ありがとうございます」

 

 私は二人に一礼した。

 

「イザベル・ウェルズと申します」

 

 エレノア様は優雅に微笑んだ。

 

「エレノア・グレイフォードです」

 

 そして、エレノア様に腕をつつかれながら、レイナード様が名乗る。

 

「レイナード・グレイフォード」

 

 詰め所でレイナード様を見てぎょっとした様子であいさつをしていた若い騎士を思い出す。

 この光景を見たら彼はなんと言うだろうか。

 笑いそうになるのを必死でこらえていると、エレノア様が身を乗り出すような勢いで言った。

 

「お兄様からお話はかねがね聞いております。いつ行っても紅茶が美味しい、と」

「エレノア」

「仕事帰りに寄ると落ち着く、と」

「エレノア」

「彼女のセンスは抜群だ、と」

「エレノア」

 

 今度は少し低い声だった。

 エレノア様は楽しそうにクスクスと笑っている。

 私は耳まで熱くなってしまい、レイナード様の方を見る勇気はなかった。

 しばらくしてエレノア様が落ち着くと、私は本来の目的を思い出した。

 

「今日はその……オーラクレストのことで伺いました」

 

 エレノア様の顔から笑顔が消えて、代わりに静かな期待が浮かんだ。

 きっとレイナード様から事情を聞いているのだろう。

 

「兄から聞きました」

 

 彼女はゆっくり頷いた。

 

「私のために調べてくださったそうですね」

 

 私は首を振る。

 

「まだ効果があるかは分かりません」

 

 変に期待させたくはなかった。

 

「でも、試してみる価値はあると思います」

 

 エレノア様はしばらく黙っていた。

 それから小さく微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 その笑顔は、とても綺麗だった。

 けれどどこか諦めにも似た色が混じっている。

 何度も希望を持って、何度も裏切られてきた人の笑顔だった。

 だからこそ、私は心の中でそっと祈った。このお茶が少しでも力になってくれますように、と。

 

「それでは早速ですが、オーラクレストについてご説明します」

 

 エレノア様は素直に頷き、ソファーに座った。レイナード様も隣の椅子へ腰を下ろした。

 私は発酵オーラクレストの効能や、祖母から聞いた加工法を説明していく。

 説明を終えると、エレノア様がそっと尋ねた。

 

「つまり、これまで通りお茶として飲めば良いのですね?」

「はい」

「では今から試せますか?」

「もちろんです。そのために来ました!」

 

 私は立ち上がった。

 

「キッチンをお借りしても?」

 

 するとレイナード様も立ち上がる。

 

「案内しよう」

 

 部屋を出て廊下に出ると、少し後ろからエレノア様もついてきていた。

 

「お兄様」

「なんだ」

「イザベル様のお店にはもうどのくらい通われているのですか?」

 

 レイナード様の足が一瞬止まりかけた。

 

「最近だ」

「へえ」

 

 エレノア様は全く信じていない顔をした。

 

「どれくらいの頻度で?」

「仕事の都合だ」

「それは頻度ではありません」

 

 私は前を向いたまま必死で聞こえないふりをしたが、耳はしっかり働いている。

 

「エレノア」

「はい」

「その話は終わりだ」

「そうですか」

 

 全然そうは思っていない返事だった。なんとも小気味良いラリーで、兄弟のいない私は少し羨ましく感じた。



 地下のキッチンは驚くほど広かった。

 磨き上げられた銅鍋が大小さまざまにいくつも並ぶ巨大な調理台。焼きたてのパンの香りが漂っている。

 数人の料理人が忙しく働いていたが、レイナード様の姿を見ると一斉に頭を下げる。

 

「少し場所を借りる」

 

 その一言だけで全員が快く場所を空けてくれた。

 私は恐縮しながらホーローのミルクパンを選ぶ。

 

「あら、ケトルではないのですか?」

 

 エレノア様が少し離れたところから不思議そうな声を上げた。

 

「そうなんです。発酵オーラクレストは煮出して飲むのが良いそうです」

 

 そう答えながらミルクパンに水と茶葉を入れ、火をつけた。

 温度も抽出時間も重要。

 失敗はしたくない。

 沸騰を待つ間、いつの間にか近づいていたエレノア様が覗き込んできた。

 

「イザベル様」

「はい」

「兄はお店でどんな様子なのですか?」

「どんなと申しますと……」

「職場ではいつも難しい顔ばかりしているので」

 

 エレノア様がくすりと笑う。

 

「ちゃんと笑ったりするのか気になりまして」

 

 私は思わずレイナード様を見る。本人は少し離れた場所で腕を組んでいた。しっかり聞こえる距離だ。

 

「それは……」

 

 どう答えよう。

 

「お茶を飲んでいる時は穏やかですよ」

 

 無難な答えを選ぶ。

 

「そうでしょうね」

 

 エレノア様が即答した。

 

「お兄様、お茶が好きですから」

「好きというより」

 

 私は少し考えて、正直に言った。

 

「お休みにいらしているように感じます」

 

 エレノア様の目が少し丸くなった。

 

「休みに?」

「はい」

「なーるほど」

 

 何か納得した顔をして、レイナード様を見やった。本人は軽くため息をついる。

 

「二人とも何を話している」

「秘密です」

 

 エレノア様が即答して、追い払うように右手を軽く振った。



 ぼこぼことお湯が沸騰する。吹きこぼれないよう火加減を調整して、時計を睨む。

 十分たったところで、火を止めた。花柄の上品なティーポットにそっとお茶を移す。

 発酵オーラクレスト特有の甘く深い香りが立ち上った。もっと嗅いでいたい気持ちもあったが、飲みやすさ、つまりまろやかさを引き出すために、蓋をした。蒸らし時間は五分ほどだが、キッチンから朝食室へ移動するのに、ちょうどそのくらいだろう。ポットに保温魔法をかけてメイドが用意した銀のトレイに乗せた。

 廊下を進み、階段を上る。玄関ホール左の飾り気のない扉を開けた。

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