羽ばたきの灯火
大きな窓のある朝食室は、すでに暖炉に火が灯っていた。
調度品には繊細な彫刻が施されていて、深みのある赤褐色が上品な華やかさをさらに引き立てている。
メイドがティートロリーにトレイを置いた。いつの間にかカップは人数分載せられている。メイドはポットを持ち上げ、長く赤い尾の鳥が描かれたカップにお茶を注ごうとする。
「私、やります」
彼女の仕事の邪魔をするようで、気が引けたが、最後まで責任を持って淹れたかった。
レイナード様が頷くと、メイドはさっと一礼して体を引いた。
「ありがとうございます」
二人に礼を言う。改めてポットを持ち上げ、ストレーナーを使って赤い鳥の描かれたカップに注ぐと、果実にも花にも似ている優しい香りが漂った。
「綺麗……」
エレノア様が呟く。
部屋を見まわして、私に微笑みかけた。
「私、この色好きなの」
カップの中で揺れる赤褐色の液体は夕暮れの光を受けて宝石のように輝いている。
私は慎重にソーサーに載せたカップを差し出した。
「どうぞ」
エレノア様は両手で受け取る。少しだけ香りを楽しんでから一口飲んだ。
レイナード様は息を詰めてその様子を見つめている。私も同じだった。
少しの間を置いて、エレノア様が目を見開いた。
「……温かい」
小さな声だった。レイナード様が首を傾げる。
エレノア様は自分の胸に手を当てた。
「熱いとかじゃなくて」
困ったように笑いながら続けた。
「ずっと冷たかったところが、少しだけ温かい気がするんです」
私はそっと息を吐いた。
少なくとも、何か良さそうな変化は起きている。
「まあ、こういうものは少しずつか」
レイナード様は少しがっかりしたように呟いた。
「そうですね。もう少し様子を見ましょう。幸い、茶葉も一ヶ月分程度はありそうですし」
「そうだな。その間になんとかオーラクレストの生葉を手に入れなくては」
「春になれば雪が溶けて山にも入れるのですが……」
「いや、だめだ」
レイナード様は突然強い口調で、きっぱりと言った。
「雪解けの季節は危ない。山には行かないでくれ。あなたも、おばあさまも」
最後は懇願するような声音だった。
「……わかりました」
エレノア様が心配そうにレイナード様を見ている。昔何かあったのかもしれない。
エレノア様がふと口角を上げ、レイナード様と私を交互に見た。
「ねえ、お二人も飲んでみませんか」
そう言ってエレノア様がポットを持ち上げる。
ティーカップ三客は彼女の采配だったのかもしれない。
可能であれば飲んでみたかったが、提案に飛びつくのはなんとなくマナー違反のように感じた。
私が躊躇していると、レイナード様が代わりに口を開いた。
「まあ、確かにお茶だけを二杯は厳しいか。エレノア、淹れてくれるか?」
「はーい」
「良いのですか?」
エレノア様がカップに注ごうとする手を止めた。
「今日は試飲であるし、副作用を知る観点からも俺たちが飲んで問題ないのではないかな」
確かにそうかもしれない。呪いのない人間が飲んだとき、どのような反応が出るかも知りたい。
「おっしゃる通りですね。エレノア様、私が淹れます」
兄の言葉にうんうん、と頷いているエレノア様に申し出た。貴族の方にお茶を注いで貰うなんて。
「いえ、私が注ぎます」
「そんな、私の仕事ですから」
「……注がせではくださいませんか? お二人へ、お礼も兼ねて」
ポットを抱えながら、私と、レイナード様を交互に見やった。その青い水面には切実な光が灯っている。
お礼だなんて、こちらは対価もいただいているし、と思いかけて心の中で首を傾げる。
ここで私がポットを取り返すことは、優しさを踏み躙ることになるのでは?
相手が貴族だからと言う理由で、そんなことをしても良いのか?
逡巡の末、私はレイナード様をちらりと見上げた。
目が合う。引き剥がすべきだという理性とは裏腹に、目が離せない。その瞳の奥に映る自分を見つめるうちに、迷いそのものが、私の頭から霧散してしまった。
その静かな湖面の下には一体、どんな気持ちが眠っているのだろう。私のことはどう思っているのだろうか。
この時間はなんと呼べば良いのだろうか。
「お兄様、良いですか?」
エレノア様の声に、レイナード様ははっとして目を伏せた。私たちはどれほど視線を絡ませていたのだろうか。
途端に恥ずかしくなる。
「ああ、頼む」
レイナード様は存外落ち着いているようで、恥ずかしくなっている自分が少し惨めに感じられた。
エレノア様が優しい表情でカップにお茶を注いでいる。
繊細なタッチで描かれた小花柄のカップを私にそっと渡しながら言った。
「今度またいらっしゃるまでにイザベル様用のカップをご用意しておきますね」
「え!? いえ、そんな、とんでもない……」
お茶を持っていなければ、大きくのけぞっていたに違いない。でも驚きと同時に、また来て良いと言われているようで嬉しさも感じていた。
「……ええと」
こういう時、なんと返すのがマナーで、スマートなんだろうか。自分の教養のなさに情けなくなる。
「良いかもしれないな、今後もこのお茶のことで世話になるだろうし」
エレノア様からお茶を受け取りながら、レイナード様が言った。
気遣いに、甘えても良いのだろうか。
……彼らがマナー違反になるような言葉を引き出そうとはしないだろう。
「あの、ありがとうございます。とても、光栄です」
エレノア様はふふと微笑んだ。
「私も嬉しいですわ。お友達が欲しかったの」
お友達。この方はきっととても純粋な方なのだろう。身分差を易々と乗り越えようとできるほど。
しかし、下の人間がそれを、はい喜んで、と肯定するのは流石に躊躇われた。
「エレノア様、私のことは従者のようにお思いください」
言いながら、胸が痛くなる。どんなに親しみを持って接してもらっても、何度視線が絡み合おうとも、この高貴な二人とは立っているラインが違うのだ。
エレノア様が前途多難ですわねぇ、と呟いたように聞こえた。何かを考えるように右上を見つめ、そしておもむろに口を開いた。
「私、お夕食もイザベル様とご一緒したいです」
ご満悦、とでもいうような微笑みを浮かべている。
私は思わずレイナード様を見た。
だが、彼もこちらを見ていた。また一瞬だけ、視線がぶつかる。でも、今度先に逸らしたのは私だった。
「い、いえ、私は」
慌てて口を開く。
「お茶をお持ちしただけですし……」
「客人でしょう?」
エレノア様が首を傾げた。
「それともグレイフォード家では客人を食事にも招かないのですか?」
「そんなことはない」
レイナード様が即座に否定する。
「なら決まりですね」
エレノア様は満足そうに頷いた。まるで最初から答えが分かっていたかのように。
お茶は随分と独特な深みのある、すこし甘い味だった。人によっては苦手そうである。
エレノア様が言っていたような、特別体に染みる温かみは今のところ感じない。呪いのかかっていない者にとっては嗜好品レベルなのかもしれない。
「イザベル様、このお茶はなんという名前なのですか?」
そこで気が付いた。たしかに。
「実はまだ名前を付けいないんです。どうしようかな……」
「もしよろしければ」
おずおずといった風にエレノア様が挙手をした。
「『羽ばたきの灯火』はいかがでしょうか」
名前の意味を考えてみると切実なものが感じられて、頷くより他なかった。これはエレノア様を温め、自由にするためのお茶なのだから。
「素敵な名前ですね。そうしましょう」
私は持ってきていた『発酵オーラクレストの淹れ方』を書いた紙に『羽ばたきの灯火』と書き足した。
結局、私は押し切られる形で夕食に参加することになった。
そして気付けば応接室へ案内されている。
「夕食までしばらくございます」
使用人の女性が扉を開けた。
「どうぞごゆっくりお過ごしください」
「ありがとうございます」
私はそっとソファの端に腰掛けた。
騎士団長室のものと同じくらいにふかふかだった。
「……いくらぐらいするんだろう」
下世話な話だと思ったが、ティーハウスにもこんなソファがあれば良いな、と思ってしまう。
窓の外を見ると、夕暮れが深まっていた。
庭園には光石灯が灯り始めている。幻想的な光景だった。
スプリングベイルの町では見られない景色だ。
扉がノックされた。私は飛び上がりそうになる。何もやましいことはないのだけれど。
「は、はい!」
「失礼します」
入ってきたのは先ほどこの部屋へ案内してくれた使用人だった。
「夕食の準備が整いました」
もうそんな時間らしい。
「ご案内いたします」
廊下を歩くと暖かな灯りの漏れた部屋から食欲を誘う香りも漏れていた。
食堂はシンプルだけれど重厚な雰囲気の調度品ばかりだった。深緑の壁紙も相まって、部屋全体が厳めしい空気を醸し出している。少し、肩に力が入る。
丸いテーブルには三人分の食器が置かれていた。
「こちらです」
使用人が椅子を引く。
私が戸惑いながら腰掛けると、向かいのエレノア様が微笑んでいる。
心なしか顔色が少し明るくなっているようだ。
もう発酵オーラクレストが効いているのかもしれない。
反対側の扉が開いて、レイナード様が入ってきた。騎士団の制服ではなく、濃紺の私服姿だった。
私は思わず瞬きをする。なんだか妙に新鮮だった。仕事中の姿しか知らなかったからだろうか。
「待たせた」
レイナード様が席に着く。夕食が始まる。
最初の数分は意外なほど穏やかだった。
たわいない会話を弾ませながら、食事が進む。
冬野菜のスープに、焼きたてのパン。香草で香りづけした川魚。
どれも上品で美味しい。
さすが男爵家だな、と感心していると、エレノア様がナイフを置いた。
「そういえば」
嫌な予感がする。
「お兄様、ティーハウスでのこと、家でも時々お話しされるんですよ」
私は危うくフォークを落としそうになった。
「えっ」
「エレノア」
「だって本当でしょう?」
「大した話ではない」
「今日は新しい茶葉だった、とか。南方の果実を使ったものが美味かった、とか。最近は冬向けのブレンドを考えているらしい、とか。いつも持ち歩いている帳面に書いてるんですよ」
そんなに話していたことに、喜びと困惑を覚える。
レイナード様は深々とため息をついた。
「エレノア」
「はい」
「黙って食べろ」
「嫌です」
即答だった。
レイナード様の話題はからかわれているようで居心地が悪く、私はなんとか話題を変えようとした。
「エレノア様もお茶はお好きなんですか?」
「好きですよ」
助かった、そう思ったのは束の間だった。
「でも兄ほどではありません」
助かっていなかった。
「昔からなのです」
エレノア様は楽しそうに続けた。
「騎士学校へ入る前から、本ばかり読んで紅茶ばかり飲んでいました」
「それは初耳です」
私は思わず言った。
「静かな場所が好きなんです」
エレノア様は兄を見る。
「子供の頃も庭園の東屋に籠もっていました。本を読んで、紅茶を飲んで、昼寝していました」
大急ぎといった感じで昼寝を否定するレイナード様に、エレノア様は勝ち誇ったように笑う。
私もつい笑ってしまった。
するとレイナード様がこちらを見る。
「そんなに面白いか」
「少しだけ」
「少しではないだろう」
「少しです」
言いながら笑いが収まらない。なんだか新鮮だった。
騎士団長ではないレイナード様。兄としてのレイナード様。
こんな顔もするのだな、と思うと可愛らしく思えた。
食事が終盤に差しかかった頃には、すっかり場の空気も和んでいた。
最初は緊張していた私も、エレノア様のおかげでだいぶ肩の力が抜けている。
発酵オーラクレストの効果なのか、エレノア様の顔色も来た時より良い。
頬にほんのり赤みまで差していた。レイナード様もそれに気付いているのだろう。時折向ける視線がどこか柔らかかった。
夕食が終わる頃には、窓の外はすっかり闇に沈んでいた。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
食後のお茶を飲みながら帰りの馬車の時間を考えていた私に、レイナード様は静かに言った。
「今から戻るつもりか?」
「え?」
「スプリングベイルまで半日はかかる。冬の夜道だ。さすがに勧められない」
確かにその通りだった。
急いでいたから勢いで領都まで来てしまったけれど、帰りのことはあまり考えていなかった。
すると向かいに座る妹君が、ぱっと顔を明るくした。
「でしたら、ぜひ泊まっていってくださいませ」
「えっ」
「私を助けるために来てくださったのでしょう? そのまま帰してしまったら、今度は私がお兄様に叱られてしまいますわ」
「いや、それは」
「客室なら空いている」
レイナード様が当然のように続ける。
「使用人にも準備をさせよう」
あまりに自然な口調で言われて、断る隙を失ってしまった。
「でも、ご迷惑では……」
「迷惑?」
レイナード様が少しだけ眉を上げる。
その表情は本当に不思議そうで。
「むしろ礼を言うべき立場はこちらだ」
真っ直ぐな視線に、思わず言葉が詰まった。
エレノア様はそんな私たちを見ながら、くすりと笑う。
「決まりですわね」
案内された客室は、思わず足を止めてしまうほど立派だった。
柔らかな絨毯に、磨き上げられた家具。
壁には落ち着いた色合いの織物が掛けられ、暖炉には火まで入っている。
「こちらをお使いください」
使用人が一礼して去っていく。
扉が閉まる音を聞いてから、私はようやく大きく息を吐いた。
しばらく眺めていたが、ふと入り口近くのサイドテーブルに置かれた紙袋が目に入った。見覚えがない。中を覗くと、私が市場で買ったものだった。乾燥ピピン、ソルフルーレの乾燥果皮、南方産の花びら、エキゾチックな香辛料、試作用の紅茶葉。
見ているだけで楽しくて、自然と頬が緩む。紙袋を高級なものに変えてくれたのだろうか。
そこまで考えて、ふと我にかえる。
「はあぁ……」
領都に来た時はオーラクレストのことしか頭になかったのに。
まさかそのまま夕食をご馳走になり、屋敷に泊まることになるなんて思いもしなかった。
サッチェルを椅子の上に置く。
窓の外には領都の夜景が広がっていた。スプリングベイルよりずっと大きな街なのに、昼間とは打って変わって今は静かだ。
私はベッドの端に腰を下ろした。ふかふかだ。
緊張で背筋を伸ばしていた身体が、少しだけ力を抜く。
そういえば今日一日を振り返って、ふとあることに気付いた。
レイナード様は、私が来たことを一度も迷惑そうにしなかった。
約束もなく急に訪ねて行ったのに。
むしろ真剣に話を聞いてくれて、オーラクレストのこともすぐに試してみようと言ってくれた。
「……優しい人だな」
ぽつりと呟く。
エレノア様を見る時の柔らかな表情が思い出される。
そして、見つめ合った青い瞳。
——私への優しさも、少し含まれてはいないだろうか。
そこまで考えて、頭を左右に振った。
「早く寝よう……」
そう呟いてみても、なかなか寝付けそうにはなかった。
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