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忘れませんか

 数日後、ある日の夕暮れ時のこと。

 賑やかだったお昼のピークが過ぎ、他のお客様たちが一人、また一人と店を後にしていった。気がつけば、店内に残されたのはカウンターの端の席で、冷めかけたカップを見つめたまま身動きひとつしない、一人の女性だけだった。

 彼女はこの店の常連客の中でも、最近特にひどく疲れた顔をしていた。その瞳の奥には、濁った煤のような、重苦しい澱みがたまっているのが見て取れた。

 私は手元のリネンを置くと、足音を立てずに彼女の隣へと歩み寄り、声を潜めてそっと話しかけた。

 

「ミセスジョンソン。……『レーテの雫』はいかがですか」

「え……?」

 

 ミセスジョンソンは弾かれたように顔を上げ、胡乱な、警戒の入り混じった目で私を見つめた。

 私はいつもの営業用の笑みを消し、静かに、けれど真っ直ぐに彼女の目を見つめて、自分の魔法の本当の姿を伝えた。

 

「私は人間の嫌な感情、例えば誰かへの激しい嫉妬や捨てきれない執着心。あるいは、どうしても消えない辛い、悲しいといった想い。そういった苦しさをご本人から綺麗に取り出して、解消することができるんです」

 

 彼女はまだ信じられないといった風に、眉をひそめて私を疑っている。そんなおとぎ話のようなことがあってたまるか、と目が語っていた。

 

「ミセスジョンソン、ここが少し前までどんな場所だったか、覚えていますか?」

「……幽霊屋敷、でしょう? 街の誰もが知っているわ」

「そうです。人間の強すぎる負の感情がその場に残ると、それは幽霊という怪異になるのです。私は自分の魔法を使って、この屋敷にいた幽霊から、彼女を縛り付けていた強すぎる負の感情だけを抽出しました。すると彼女は綺麗に成仏して消え、今やここはご覧の通り『イザベルの〝忘却〟ティーハウス』になりました」

 

 私は一歩、彼女に近づく。

 

「あなたも、その胸を焦がしている強すぎる負の感情を私に抽出させて、お茶にして飲んで、綺麗さっぱり忘れてしまいませんか?」

 

 私の静かな、けれど確信に満ちたセールスに、ミセスジョンソンがごくりと唾を呑む音が聞こえた。彼女の心は、明らかにこちらの言葉に食いついている。

 

「……でも、お高いんでしょう?」

 

 消え入りそうな声で、しかし切実な響きを帯びて、ミセスジョンソンが尋ねてきた。

 私は大真面目な顔で、深く神妙に頷いてみせる。

 

「そうですね……。施術を行う日はお店を完全に貸し切りにしますし、あなただけの、世界に一つだけの専用の紅茶を作りますから。お高いですし、時間もかかります。今ここで抽出したものを二日かけて発酵、乾燥させ、翌々日、あちらの半個室でゆっくりと召し上がっていただきます」

 

 そう言いながら、私はカウンターの奥にある、深い深い夜色の厚手のカーテンをそっと引き、彼女を中へと案内した。

 部屋の中央には、体をすっぽりと預けられる、背もたれの深い革張りの一人掛けソファーが佇んでいる。

 

「いかがでしょうか、ミセスジョンソン」

 

 薄暗い半個室の静寂の中で、ミセスジョンソンはしばらく自分の手をじっと見つめていたが、やがて深く、重い引き金を引くように小さく息を吐き出した。

 

「……やってみようかしら」

「ありがとうございます。賢明なご決断です」

「それで……お代は、一体いくら見ておけば良いの?」

 

 覚悟を決めたミセスジョンソンの問いに、このくらいです、と言いながら、手元の帳面に万年筆で迷いなく金額を記載した。煙のような香りが漂う。

 平民なら数年分の生活費に匹敵するような、文字通りの破格の金額を目にした瞬間、ミセスジョンソンはヒッと息を呑んで目を剥いた。

 普通の人間ならここで我に返り、詐欺だと叫んで飛び出すかもしれない。それならそれで良い。その人の苦しみはその程度。きっとまだ耐えられるはずなのだ。弱みに漬け込んでいるように見えるかもしれないが、これはリスクヘッジなのだ。本当の苦しみだけ、消し去るための。

 けれど、彼女の抱える苦しみは、すでにその大金すら秤にかけられるほど、限界に達していたのだろう。

 ミセスジョンソンはしばらくの間、激しく揺れる瞳で帳面と私の顔を何度も往復させ、じっと考え込んでいた。やがて、その震える指先で自分の胸元をぎゅっと握りしめると、覚悟を決めた顔でぽつりと切り出した。

 

「……日取りだけど、来週の、人が一番来ない曜日にしてちょうだい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で、新しい魔女の仕事の幕が上がるのを告げる、小さなラッパの音が確かに響いたのだった。

 

 

 約束の当日、ティーハウスの扉には『本日貸し切り』のプレートが掲げられ、厚手のカーテンが外の喧騒を完全に遮断していた。

 半個室の、背もたれの深い革張りソファーに腰掛けたミセスジョンソンの顔は、先週よりもさらに青白く、やつれて見えた。

 

「娘が逝ってからもう五年になるのに、朝目覚めるたびに、あの日の病室の匂いや、冷たくなっていく小さな手を思い出して胸が引き裂かれそうになるの」

 

 そう言うとミセスジョンソンはハンカチを目に押し当てた。

 

 「私がもっと早くあの医者に診せていれば、私が代わりに死んでいればって、毎日、毎日そればかり。この苦しみから解放されるなら、全財産を失ったって構わないわ」

 

 絞り出すようなミセスジョンソンの告白を、私はただ静かに聴いていた。

 彼女が抱えていたのは、誰にも言えない、若くして亡くした最愛のひとり娘への、狂おしいほどの執着と後悔だった。

 

「よくお話ししてくださいましたね。……では、始めましょう」

 

 私はミセスジョンソンの前にそっと立ち、目を閉じてすうっと息を吸い込んだ。胸の奥の魔力を静かに指先へと集中させていく。

 ミセスジョンソンの胸元、ちょうど心臓があるあたりにそっと手をかざす。

 淹れたての紅茶から立ち上る湯気のような、淡い光の粒子が彼女の胸から溢れ出し、私の指先に集まっていく。ミセスジョンソンの身体が、張り詰めていた糸が切れたようにふっと弛緩していくのが分かった。

 やがて、その光が実を結ぶように、私の手のひらの上でサァ……と何かが擦れる音がした。

 光の粒子は、驚くほどみずみずしい深緑の葉へと姿を変えていく。

 朝露を弾くほどに瑞々しく、けれどどこか重苦しい、ミセスジョンソンの悲痛な執着が物質化した、世界にひとつだけのフレーバー。

 

「……取れました。これが、あなたの苦しみの欠片です」

 

 私が手をかざし終えると、手のひらにぽつんと残ったのは、涙のように濡れた十枚ほどの生葉だった。

 ミセスジョンソンは自分の胸元に手を当て、信じられないというように目を見張った。万年雪が溶け出したかのように、その表情から酷い強張りが消え去っている。

 

「不思議ね……。まだ娘のことは覚えているのに、あの、心臓を抉られるような息苦しさが、綺麗になくなっているわ」

「ええ。今は、感情の芯だけを抜いた状態ですから。これから二日かけて、この葉を私の地下室でじっくりと発酵、乾燥させて、あなた専用のお茶に仕上げます。そうして完成したお茶をすべて飲み干した時、その記憶はあなたにとって、静かな過去の出来事に変わりますよ」

 

 私は手のひらの上の、どこか仄甘く、そして胸が痛くなるほど青苦い香りのする十枚の生葉を愛おしそうに見つめた。

 これが、私の魔法の本当の姿。

 

「では、翌々日の同じ時間に、またここへお越しください。最高の一杯を淹れて、お待ちしておりますね」

 

 ミセスジョンソンは今度こそ、心からの安堵が混じった穏やかな笑みを浮かべて頷いた。私は彼女を見送ったあと、ガラスの器に移した瑞々しい深緑の葉を大切に抱え、発酵を待つ茶葉が眠る、ひんやりとした石造りの地下室へと階段を下りていった。

 ここからは、時間と手仕事の領域。紅茶の魔女としての、本当の仕込みの始まりだ。

 

「私にできる魔法は、精々、保温と抽出、そして乾燥。だから……それ以外の工程は、全部この手でやらなくちゃいけないのよね」

 

 ぽつりと呟き、作業台に生葉を並べる。

 おいしい紅茶を作るための工程は、大きく分けて四つ。萎凋、揉捻、発酵、乾燥。魔法が使えるからといって、最初から最後までパッとお茶が出来上がるわけではない。

 まずは第一の工程、萎凋。

 摘みたての生葉は水分が多くて硬く、そのままでは揉むと破れてしまう。そのため、まずは葉を休ませて水分を適度に飛ばし、しなやかにする必要がある。

 作業台に広げたミセスジョンソンの〝悲痛な執着〟の葉は、やはり驚くほど水分を含んでいて、触るとひんやりと冷たい。私はそれを傷つけないよう、優しく指先で撫でるようにして手製の萎凋棚に並べていく。

 これは麻布を上下木の四方枠で挟んだものだ。下からも空気が通るように、下の枠にはニ辺、足がついている。

 

 広げた生葉は一晩かけて麻布の上で緩やかにその角を落としていくのだ。

 地下室の扉を閉め、階段を登る。

 残りの時間はお店で出す用のハーブやフルーツの乾燥に取り掛かることとした。

 通常の茶葉だと二十時間もあれば充分だが、レーテの雫はもう少し、時間がかかる。

 これは文字通り雫なのだ。

 普通の葉や花弁よりも水分がたくさん含まれている。その感情で涙した分だけ、水分が含まれるのではないか、と師匠は言っていた。

 明日は丸一日、こうしてここで茶葉を眠らせる。その身に宿る効能と本来の香りを呼び覚ますための大切な休息なのだ。

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