レーテの雫
翌日、ソワソワしつつ昼休憩を過ごしていた。
この店には紅茶と焼き菓子しかないから、お昼時は意外と暇なのだ。
レーテの雫を抽出した翌日、つまり中日は閉店時間を早めて通常営業している。
簡単な昼食を終えたあと、ふと窓の外を眺めた。
エルダリッジ山脈の稜線は今日も青く霞んでいる。その斜面のどこかには、名の知れた茶園がある。
春摘みで賞を取る農園もあれば、王都の高級茶商へ直接茶葉を卸す農園もある。紅茶を扱う者なら誰もが知る名前ばかりだった。
私はふと口元を緩めた。
もし。本当に、もしも。領都で自分の紅茶が評判になったら。
「……なくはないのよね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
小さな店だ。
立地も良いとは言えないだろう。領都からは馬車で半日ほどかかる。でも最近ではわざわざ領都から訪れる人もいた。
もしその中に茶商がいたら。
もし農園主の耳に店の名前が届いたら。
もし……。
そこまで考えて、私は慌てて首を振った。
「気が早いわ」
そう言いながらも、頬は少し緩んでいる。
例えば、『今年の春摘みを優先的に回します』と、そんな手紙が届いたら。
例えば、『うちの茶葉を扱ってみませんか』と、誘われたら。
例えば、まだ市場に出回っていない新芽を、一番に試飲させてもらえたら。
考えるだけで胸が弾む。
私はカウンターの奥に並ぶ真っ黒な茶缶にへ目を向けた。そこには金色で『エルダリッジティー』と書かれている。
今ある茶葉だって十分に良い。それは分かっている。
けれど紅茶を好きになればなるほど、もっと良い茶葉を知りたくなる。もっと美味しく淹れたくなる。もっと誰かに飲んでほしくなる。
そういうものだった。
私は立ち上がり、棚から黒い茶缶を下ろした。
蓋を開けると、ふわりと立ち上る香り。
乾いた茶葉の爽やかで甘い匂いに目を細める。
「いつか」
ぽつりと漏らした。
領都の茶商たちが名前を知るような店になったら。
名園の農園主から直接茶葉を仕入れられるようになったら。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
誰も見ていないのを良いことに、私は茶缶を抱えたまま小さく身を揺らした。
本当に少しの間だけ、目を閉じて夢見る少女のように左右に揺れる。
次の瞬間には咳払いをして何事もなかった顔に戻る。
だが胸の奥では、まだ期待が跳ねていた。
夕方、地下室に降りると、冷たい空気の中に、どこか切なくも甘い香りがじわじわと満ちていた。
萎凋棚の中で、昨日はピンと張っていた葉が、水分を失ってくったりと柔らかくなっている。手で触れると、朝採れた時のピンと張った硬さが失われ、耳たぶのように柔らかくなっていた。
第二の工程、一番の力仕事である揉捻へと移る。
これは、葉を手のひらでゴリゴリと揉み込むことで、葉の組織を意図的に壊し、お茶の旨味や香りを外に滲み出させる作業だ。
「よし、ここが踏ん張りどころ」
袖をまくり上げ、十枚の葉を手のひらで包み込む。そして、作業台へ押し付けるようにして、円を描きながらじっくりと圧をかけて揉んでいく。
ゴリ、ゴリ、とオーク材の台がかすかに軋む。
ただの植物の葉ではない。これはミセスジョンソンが五年もの間、胸の奥で温め、腐らせ、苦しみ続けた記憶の結晶だ。揉み込んでいくうちに、私の手のひらには、まるで彼女が流した涙そのもののような、じっとりとした濃い緑色の汁が滲み出てきた。それと同時に、青臭かった香りが、熟した果実のような、濃厚で妖艶な甘さへと変化していく。
手がだるくなり、じんわりと汗ばんでくる。よそから見れば、魔女の怪しげな儀式というよりは、ただの熱心な職人の姿そのものだろう。けれどこの手仕事の摩擦こそが、固執した感情を解きほぐすため、絶対に必要なのだ。
葉がしっかりとよじれ、茶色く変色し始めたところで、ようやく私の魔法の番。
第三の工程、発酵だ。
揉み終えた葉を小さな陶器の皿に並べ、私はその上に両手をかざしておまじないを唱える。
「……おいしくなれ。彼女の苦しみを、優しい思い出に変えて」
胸の奥から、温かな魔力をじわじわと引き出し、お皿の周りの温度と湿度を保温の魔法でぴったり一定に保つ。
本来なら、その日の気温や湿度に振り回される神経質な工程だが、ここだけは紅茶の魔女の特権だ。最適な環境を与えられた茶葉は、自らの酵素でみるみるうちに酸化発酵を進めていく。緑色だった葉が、じわじわと美しい赤褐色へと染まり、香りが一気に紅茶のそれへと昇華した。
そして最後、第四の工程、乾燥。
発酵が最高の状態に達した瞬間、私は乾燥魔法を一点に集中させ、茶葉に熱を加えた。水分を一気に蒸発させ、発酵の進行を止めるとともに、その風味と魔法の効果を茶葉の内側へと完全に閉じ込めるのだ。
パチ、パチパチ。
かすかな小気味よい音がして、地下室に極上のハーブと焦がしたハチミツを混ぜたような、甘く芳醇な香りが爆発するように広がった。
魔法を止め、お皿の上を見る。
そこには、さっきまでの生葉の面影はなく、硬く小さくよじれた、漆黒に近い深い焦茶色の茶葉が静かに横たわっていた。
「……できた。世界にひとつだけのレーテの雫」
時計を見れば、まだ夜の帳が下りたばかり。
完成した茶葉を新品の小さなコロンとした真鍮の缶に詰めた。
私の魔法で抽出する感情の芯は、世界のどこにもないただ一つの葉や花だ。それでもいつも、踏む工程は同じだった。通常、ハーブであれば発酵させず少し萎れたらそのまま乾燥に移ることが多い。
しかしこれは魔法なのだ。丁寧に時間をかけて向き合うことでその効果は強く大きくなるはずだ。そのためにすべての手順を飛ばさず拵えている。
レーテの雫。
それはこの茶葉であると同時に、私の魔法の名前でもある。師匠のつけてくれた、唯一無二の名前。
私は作業台を片付け始めた。
きっとミセスジョンソンは明日を待ちわびているだろう。今からでも呼べば飛んでくるに違ない。
しかし、これまでの五年間もの苦しみと決別するには、一日くらい、静かに心を整えるための空白があったほうが良い。体の傷と同じで、心の傷もまた癒すには心の体力が必要だ。
破格の金額をいただく、人生を賭けたお仕事だもの。そのくらいの気遣いと、おもてなしの時間は必要なはず。
私は今晩、缶の中でじっくりと馴染んでいくであろう茶葉を見つめ、愛おしく思った。明日やってくるミセスジョンソンのために、完璧なティーハウスを用意しようとスコーンの仕込みを始めることにした。
そして、約束の日になった。
外の喧騒を遮断した『本日貸し切り』のティーハウスに、ミセスジョンソンが再びやってきた。
その顔を見た瞬間、私は小さく胸を撫で下ろした。二日前、あのソファーで絶望に暮れていた姿が嘘のように、彼女の纏う空気はどこか静かで、穏やかなものに変わっていたからだ。
「いらっしゃいませ、ミセスジョンソン。体調はいかがですか?」
私がカウンター越しに声をかけると、ミセスジョンソンは少し気恥ずかしそうに、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「不思議な二日間だったわ、イザベルさん。あなたにあの感情を抽出してもらった日はね、胸の奥にぽっかりと大きな穴が開いてしまったようになって、酷く不安で仕方がなかったの。……でもね、翌日になると、その穴が不思議と少しずつ体に馴染んでいくのが分かったわ。冷たい風が通り抜けるような空虚さじゃなくて、ただ、そこにあるべき静けさが戻ってきたような、そんな感覚だったのよ」
「それは良かったです。心に馴染むための空白の時間は、とても大切ですからね」
自分の気遣いがきちんとミセスジョンソンの心を救うクッションになっていたことに、内心で安堵した。
私は自分にこの魔法を使ったことが一度だけある。とても悲しいことがあった日のことだ。
その時はいくつかの工程をすっ飛ばし、すぐに乾燥させて飲んだけれど、心の回復が遅かったように思った。
「さあ、あちらへどうぞ。あなたのためだけのお茶を最高の状態で淹れます」
ミセスジョンソンをあの半個室のソファーへと案内した。ソファの前に置かれた小さなテーブルには真鍮の小さなコロンとした茶缶が置かれている。
「これがミセスジョンソンから抽出した、哀傷の芯です」
そっと茶缶を開けると、華やかな香りが漂う。
「まあ……こんな良い香りなの?」
驚くのも無理はない。苦しみといえばどうしてもドロドロとしたものを想像するだろう。
「良い香りだと感じるのは、うまくあなたの苦しみを昇華できている証なのですよ」
微笑みながら優しく言った。
「それでは、淹れてまいりますね」
恭しく一礼をし、カウンター裏の作業台に戻ってレーテの雫をポットに踊らせた。
半個室の小さな机に、丁寧に温めた純白の陶器のティーポットとカップ、そして昨日のうちに焼き上げておいた、ほんのり甘いクロテッドクリームを添えたプレーンスコーンの皿を並べた。
カップに注がれたお茶の水色は、深い夜の終わりと朝焼けの始まりを思わせる、どこまでも透明で艶やかな深紅。
ミセスジョンソンがそっとカップを持ち上げ、顔を近づけた瞬間、部屋の中に息を呑むような芳醇な香りが広がった。
それは、ミセスジョンソンが最愛の娘と過ごした日々の輝きそのもの。まるで春の陽だまりに咲き誇る、瑞々しくも濃厚な青々とした花々の香り。そこに、私の手でじっくり揉み込み、発酵させたことで生まれた深く包み込むような甘い香りが重なり、優しく鼻腔をくすぐる。
「なんて……愛おしい香りかしら」
ミセスジョンソンの目から、一筋の涙が静かに溢れ落ちた。けれど、それは先週までの苦痛の涙ではなく、温かな解放の涙だった。
ふうふうと息を吹きかけ、彼女はそのレーテの雫を、ゆっくりと口に含んだ。
喉を通り過ぎた瞬間、きっと私の魔法のすべてが弾け、ミセスジョンソンの心に開いていた穴へと流れ込んでいくだろう。
お茶を飲み干し、添えられたスコーンを一口齧ると、ミセスジョンソンは本当に穏やかな聖母のような顔つきになって息を吐いた。
「……ああ、じわじわと、あのぽっかり空いた穴が優しく温められていくわ。心が、とっても落ち着くの。あんなに私を狂わせていた激しい悲しみも後悔も、今はもう、ずっと遠い昔の、優しい思い出の引き出しに仕舞われたような……そんな心地よさだわ」
「よかったです。これでもう、朝起きるたびに胸が締め付けられることはありませんよ」
ミセスジョンソンが何度も繰り返し、ありがとう、と言った。最後の一滴までお茶を愛おしそうに飲み干す姿を見つめながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるような、大きな達成感を覚えていた。
またひとり、私の魔法で、人を幸せにすることができた。
お店の片付けをしながら、私は夕暮れの光が差し込むアンバー色のカウンターを見つめ、心の中で強く意気込んだ。
祖母と母にこの光景を見てほしかった。
二人は魔法を心に近づけてはいけない、人間を人形にしてしまうと悲しい顔で言っていたけれど、そんなことはない。私の魔法は、危なくなんてない。
こうして幽霊だけじゃなく生きている人を魔法で幸せにできると、私がこの街で、このティーハウスで証明して見せる。
その決意を神様が後押ししてくれたのか、忙しない日々が始まった。
ミセスジョンソンを癒した翌々日から、『イザベルの忘却ティーハウス』のドアベルは、鳴り止む暇もないほどに響き渡ることになる。
あのミセスジョンソンが町の上流階級のご婦人たちの間に、胸のつかえを綺麗に流してくれる、奇跡のお茶を淹れる魔女がいる、と熱烈な口コミを広げてくれたのだ。
「イザベルさん、私にもあのお茶を……!」
「お高いのも、時間がかかるのも構いません。どうか、私の話を聞いてちょうだい」
あまりにも殺到するので、ひとまず一ヶ月分、中三日で予約を受けることにした。
予約台帳は救いを求める人々の名前で、一瞬にして埋まっていった。
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