救いを求める人々1
ミセスジョンソンの劇的な変化がもたらした熱狂的な口コミは、すぐに街の最も深い、そして最も気高い場所へと届いた。
早朝、私は表に出て、ドアプレートを貸し切りに変えた。
空はまだ冬特有のペールグレーだったが、朝の光にわずかに混じる青みが空の高さが変わったと告げているようだった。
ティーハウスの半個室で、ミセスパストンは背筋を真っ直ぐに伸ばしたままソファーに腰掛けていた。
漆黒のドレスは一分の隙もなく整えられ、銀糸の混じる髪も美しく結い上げられている。
けれど、その膝の上に置かれた両手だけは違った。
細い指先が、小鳥の羽ばたきのようにかすかに震えている。
「夫は良い人だったのよ」
彼女は静かに語り始めた。
「誠実で、優しくて。子供たちにも恵まれたわ。私は幸福だった。本当に」
一度言葉を切り、遠くを見るように目を細める。
「それなのにね。年を取るほど、あの人を思い出すの」
その声には、若い娘のようなかすかな熱が混じっていた。
「駅のホームで、最後に振り返った横顔を。私を呼ぶ声を。別れ際、あと一歩だけ踏み出していたら変わったかもしれない人生を」
ミセスパストンは小さく笑った。
けれどその笑みは、自分自身を責めるような寂しいものだった。
「五十年も経ったのに。なんて愚かな女なのかしらね」
「いいえ」
私は静かに首を振る。
「五十年も消えなかったのなら、それは愚かさではなく、本物だったのでしょう」
その言葉に、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
やがて、張り詰めていたものが少し緩んだように微笑む。
「……ありがとう」
私は彼女の胸元へそっと手をかざした。
「では始めます」
静かに魔力を集中させる。
すると、ミセスパストンの胸の奥から、淡い金色の光がゆっくりと滲み出してきた。
ミセスジョンソンの時のような重苦しい色ではない。
夕暮れの駅舎を照らす西日のような、遠い記憶の中だけで輝き続ける黄金色の光だった。
光は糸のように細く長く伸び、私の指先へと吸い寄せられていく。
光は次第に凝縮され、私の掌の上でゆっくりと形を結び始める。
現れたのは可憐な薄紅の小さな花びらだった。
十数枚の花弁はまるでガラスのように薄く繊細で、今にも壊れてしまいそうだった。
近づけば、懐かしい香りがした。春の夜風、雨上がりの石畳、古い駅舎の木材。
そして、誰かを愛した記憶そのもののような、甘く切ない香り。
「……まあ」
ミセスパストンが息を呑む。
私は花弁をそっとガラスの器へ移した。
「これが、あなたの未練の欠片です」
彼女は眼を見開いて、胸元に手を当てた。
「不思議……ね。まだ覚えているわ。顔も、声も、あの日の景色も何もかも」
目を閉じて、静かに涙を流した。
「でも、あんなに胸を締め付けていた痛みがないの」
その涙は後悔の涙ではなかった。長い旅路の終わりに荷物を下ろした旅人のような、穏やかな涙だった。
「ええ」
私はゆっくりと頷いた。
「思い出は残ります。けれど、それに縛られる苦しみだけが消えるのです」
ガラスの器の中で、薄紅色の花弁が静かに揺れた。
まるで五十年越しの恋が、ようやく安らかな眠りについたかのように。
そして、約束の翌々日。
再び店を訪れた貴婦人は、二日前よりもずっと表情が柔らかく、どこか少女のような軽やかさを纏っていた。
「いらっしゃいませ。体調はいかがですか?」
「ええ……。抽出してもらったその日は、まるで体の一部をもぎ取られたようで、寂しくて仕方がなかったの。でも、昨日一日を過ごすうちに、その心の穴が、じわじわと温かい皮膚のように体に馴染んでいくのが分かったわ」
「素晴らしいです。では、あなただけの一杯を」
半個室のテーブルに、純白の陶器を並べる。
カップに注がれたお茶の水色は、まるでミセスパストンの愛した青春の夕暮れ時をそのまま切り取ったような、鮮やかで深い茜色。
彼女がカップを口元へ運ぶと、雨上がりの庭園を思わせる、甘酸っぱくもどこかノスタルジックな香りが室内にふわりと満ちた。
「まぁ……なんて、優しくて、ちょっぴり切ない香りかしら」
彼女は愛おしそうに目を細め、そのお茶をゆっくりと口に含んだ。
お茶を飲み干し、ビターなスコーンを一口齧ると、貴婦人は憑き物が落ちたように穏やかな笑みを浮かべた。
「とっても落ち着くわ。あんなに私を苦しめていた未練が、今はもう、セピア色に変わった遠い思い出の写真のように……。ただ静かに、私の胸のアルバムに収まったような心地よさだわ。これでようやく、夫の元へ微笑んで旅立てるわね」
「よかったです。これからは、いつでも温かい思い出として振り返ることができますよ」
ミセスパストンを見送った後、ドアプレートを閉店に変えた。
どっと疲れが押し寄せる。二階に上がる元気もなく、店内のソファに座り込んだ。
悪くはない座り心地だが、ふかふかではない。でもふかふかではないからこそ、体が安定して力が抜ける。
ここに来る人は体が疲れている人も多い。無理にふかふかにする必要はないのかもしれない。
グレイフォード兄妹はどうしているだろうか。
レーテの雫を提供し始めてからというもの、とても疲れがたまっていて、手紙を書くこともできていなかった。
祖母にだけ、灯火の羽ばたきのお礼と、春になっても雪解けが終わるまで山には入らないでほしい旨の手紙を出し、そこで力尽きてしまった。
今晩にでも書いてみようか。
どうせ書くなら湖畔のしじまも一緒に送ろうかしら。しかし、そうするとまたエレノア様にからかわれてしまうかもしれない。
エレノア様はあれから体調が少しでも良くなったのだろうか。
よくなっていれば良いと思いつつ、もうそろそろ灯火の羽ばたきはそこが見えているだろうから、心細く思っているかもしれない。
——私、この色好きなの。
ルビーナの実を乾燥させたハーブティはあのカップに描かれた鳥の尾羽の色に少し似ている。それに何を合わせようか。ハイムロックの市場で買った南国の赤い花びらと合わせるのはどうだろうか。きっとフルーティーで、あ、ドライピピンを足すともっと飲みやすくなりそうだ。
重い腰を上げて、カウンター裏の作業台に向かう。お湯を沸かし、材料の入った缶を並べる。
お湯が沸いた。ティーポットとカップを温めて、お湯を捨てたらハーブと花びら、果皮、果実をとりあえずの分量で淹れていく。
お湯をポットに注いだ時だった。
店の戸を叩く音がする。
カーテンを開けて窓からこっそりのぞくと背の高い人物が立っているようだった。
急用だろうか。
「はい、どちら様でしょうか?」
誰何に答える低い声を聴いてハッとして、慌てて戸を開けた。
「夜分にすまない」
恐縮した様子のレイナード様が立っていた。
「エレノア様に、何か!?」
何か重篤な副作用などが出たのだろうか。
「あ、いやすまない。急用ではなかったのだが……今夜はやめておいた方がよかったかな」
ひとまずほっとした。
「いえ、大丈夫です。上がってください」
「すまない。最近はどうも貸し切りのことが多いようで、なかなか仕事との折り合いがつけられなくて……」
確かにそうだ。お客さんは途切れることなく来店する。しかし、街の外から来た人が多く、バザールでの常連さんや顔見知り、この街の人はめっきり減ってしまった気がする。
もう少しレーテの雫の提供頻度を落とした方が良いかもしれない。
そんなことを思いながら、ソファー席に案内した。
「あの、ちょうど今エレノア様のことを考えていて……新しいフレーバーを作ってみたので、良ければ一緒に試飲していただけませんか? エレノア様がお好きか知りたくて」
レイナード様は静かにほほ笑んだ。
「もちろん、ぜひいただこう」
「ありがとうございます」
真鍮のトレーにカップとポットを乗せて、ソファー席に持っていく。
カップにお茶を注ぐと、華やかで甘い香りが広がる。あ、と思ったがもう出してしまったものを下げるわけにはいかなかった。レイナード様に、この香りは甘すぎたかもしれない。味は大丈夫だと思うけれど。
「すみません、香りがお好きでないかもしれないですね」
「いや、そんなことはない。それにエレノアは好きだと思う」
少しだけ安堵した。
「それで、今日はどうなさったんでしょうか?」
本題を切り出した。
閉店後の戸を急ぎでもないのに叩くなんて、紳士的なレイナード様らしくない。
本当は何かあったのかもしれない。
「いや、実は本当に大した用ではないんだ。だが、その、イザベルと話したくてな」
——イザベルと話したくてな。
その言葉が何度も頭の中にこだまする。
私と、話したい。
心が浮き足立つのを感じる。でも、いやまさか、と甘い期待を打ち捨てる。もしかして、オーラクレストの入手経路を押さえたのかもしれない。もしくは、と考え始めたところで、レイナード様が心細そうにこちらを見ているのに気が付いた。
ああ、期待してしまう。
「そう、なんですね。光栄です。私もお話ししたいと思っていました」
緊張してしまって、もごもごとした言葉になってしまった。それでもレイナード様のパッと輝いたように見えた。
「不躾な話だが、エレノアに頼まれてな……イザベルはどんな色や柄のティーカップが好みかな」
エレノア様の気遣いが嬉しくて、私は嘘をつかずに思ったことをそのまま口にした。
「そうですね……柄のこだわりはないです。でも、色は青色が好きです」
答えてから、ふと彼の顔を見た。彼は少し驚いたように瞬きをした。
「……理由はあるのか?」
その声は純粋な響きを帯びていて、少し切なくなる。
「理由ですか? そうですね……。なんだか、見ているだけで心が落ち着く色だからです。あなたの瞳の色と同じでしょう?」
二人の間に沈黙が流れる。
湖面を見つめると、いつも通りどこまでも深く透き通っている。
そう、吸い込まれそうな、こんな青色。
私は心の中で、小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
視線が絡み合ったまま、時間が止まったように感じた。彼が私の言葉をどう受け取ったのかは分からない。ただ、彼の表情が一瞬だけ揺らいだ気がした。
レイナード様は、これが恋の告白だとは気づいていないようだった。けれど、その瞳にはどこか形容しがたい感情が渦巻いている。彼は少しだけ苦しげに眉を寄せ、私の言葉に重なるように低い声で言った。
「……あなたは誰に対してもそんな風に、人に見惚れるような言葉を吐くのか?」
「いいえ、そんなことは――」
「頼むから、そういうことを言うのは……自分にだけにしてくれ」
彼はそう言い捨てると、足早に店を去っていった。残された私は、彼が何を求めてそんなことを言ったのかさえ理解できず、ただ、胸がちくりと痛むのを感じていた。
「お茶の感想聞きそびれちゃった」
テーブルには冷めかけたティーカップが二つ、ポツンと残っていた。
飲んでみると、酸味が強すぎたようで耳の後ろが痛くなった。
「調整しないとな」
そう呟いて、ソファーに腰を下ろした。
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