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救いを求める人々2

 翌朝、私は表に出て、またドアプレートを『貸し切り』に変えた。

 前日に何があろうと、仕事は仕事だ。

 街中にはまだ冬の残り香らしい冷たさが残っている。しかし時折吹く風がどこか遠い場所から運ばれてきた湿った土の匂いを連れてきていた。その微かな香りが鼻をかすめ、私は春の到来を予感して空を見上げた。

 

 ティーハウスのドアベルが、まるで重い金槌が床に置かれたような、ゴツゴツと無骨で寂しげな音を立てて鳴り響いた。

 ソファーで長年の硬いタコがいくつもできた大きな手をじっと見つめていたのは、この街の建築を半世紀以上も支え続けてきた、引退間際の老職人だった。

 無駄のない頑健な身体つきからは、実直に生きてきた男の歴史が滲み出ている。しかし、その深く刻まれた眉間の皺の奥にある瞳は、まるで嵐の後の灰のように、生気を失って酷く濁っていた。

 

「私の仕事は、重い石を切り、木を削り、泥にまみれるだけの古いものだ」

 

 ミスターグレイプスはポツリと語り出した。

 

 「最近の若い奴らは、新しい技術を使って、私の何倍も早く綺麗な建物を造ってしまう。それを見ているとね、私が人生のすべてを捧げてきた長い月日が、まるで無意味なガラクタのように思えて、胸が引き裂かれそうになるんだ。最後の道具を置く勇気が、どうしても出ない。」

 

 擦り切れた作業着の胸元を大きな手でむしるように掴み、地響きのような震える声で嘆いている。

 

 「……始めましょう」


 私はミスターグレイプスの前に立った。

 彼は覚悟を決めたように目を閉じ、大きな両手は膝の上で固く握られていた。

 その手を見て、私は少しだけ息を呑んだ。

 節くれ立った指、何度も裂けては治った傷跡、厚く硬くなった掌。

 そのどれもが、長年積み上げてきた人生そのものだった。

 私は胸元へ手をかざし、静かに魔力を流し込む。

 ミスターグレイプスの胸の奥から、灰色の光がゆっくりと滲み出した。

 ミセスジョンソンの哀傷とも、ミセスパストンの恋慕とも違う。

 それは冬の工房に差し込む薄曇りの光のような色だった。

 光は重く、鈍く、なかなか胸の奥から離れようとしない。まるでずっとそこに根を張っていたかのように。

 

 私は少しだけ魔力を強めた。

 すると老職人の身体がびくりと震える。

 彼はただ、声も上げずにただじっと耐えている。

 やがて私の掌の上で光が凝縮され、淡い灰色の光が形を持ち始めた。

 現れたの樹皮のような茶色くぶ厚い葉。

 乾いた木くずや油を吸った革手袋が溶け合ったような、不思議な香りだった。

 

「……これは」

 

 老職人が呆然と呟く。

 私はガラスの器に十数枚の分厚い葉を移した。

 

「あなたの疑念です」

 

 そう告げると、ミスターグレイプスはゆっくりと胸元へ手を当てた。

 そして、しばらく言葉を失った。

 

「おかしいな」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「まだ不安はある。若い連中が優秀なのも変わらない。私の仕事が古いことも変わらない」

 

 そこで言葉が止まり、彼の目が少しだけ見開かれた。

 

「……なのに胸が、こんなに軽い」

 

 まるで長年担い続けた石材をようやく地面へ降ろした男のように、老職人は震える息を吐き出した。

 そして心の底から疲れ切った人間のような顔で、深く深くソファーへ身体を預けたのだった。


 

 約束の翌々日。

 再び店を訪れた老職人は、二日前のような魂が抜けたような姿は微塵もなく、まるでこれから大仕事を始めるかのような、どっしりとした威厳のある佇まいで椅子に腰掛けた。

 

「いらっしゃいませ。体調はいかがですか?」

「私が建てた街の家々を眺めたとき、胸の奥がじわりと熱くなったんだ」

 

 効果はしっかりとあったようだ。

 

「では、あなただけの一杯をどうぞ」

 

 半個室のテーブルに、温めた純白のカップを並べる。

 注がれたお茶の水色は、深い琥珀色の中に鈍色の輝きが溶け込んだ、重厚で美しい色をしている。

 職人の古い工房の暖炉を思わせる、どこまでも深く、ビターでありながらも不思議と心を限界まで鼓舞するスモーキーなアロマが室内に満ちた。

 大きな手で、カップを口元へ運ぶ。

 

「あぁ……この渋み、この深さ。まるで私の人生そのもののようだ……」

 

 男は愛おしそうに目を細め、そのお茶をゆっくりと口に含んだ。

 お茶を飲み干した彼は自分の生きてきた道を完全に肯定できたような、誇らしげな老職人の笑みを浮かべた。

 

「新しい技術の方が優れているかもしれん。だが、あいつらが今立っている土台を積み上げたのもまた、私たちなんだな」

 「ええ。あなたが造ったこの街の土台があるからこそ、次の世代が未来を築けるんですよ」

 

 

 朝の広場へと続く通りでは、店主たちが鎧戸を上げる音が響いる。ついこの間までなら、凍結した蝶番が軋むような悲鳴を上げていたが、今朝は金属同士の擦れ合う乾いた音が、少しだけ滑らかに聞こえた。隣の家の軒先に吊るされたアイアンの風見鶏も、凍りついた軸がわずかに緩んだのか、今までとは違う軽い音を立てて、北風の方角を向こうとして迷っていた。

 今日も、私はドアプレートを貸し切りに変える。

 ソファーに腰掛けていたのは、仕立ての良い鉄紺色のマントを羽織った、一人の若き騎士だった。レイナード団長が率いる第一騎士団に所属しているらしい。まだ十代後半とおぼしきその顔立ちは端正だが、唇は青白く乾き、その瞳は異様なほど鋭く張り詰めていた。

 

「来週、領主様の直属として北の国境近くに配属されるんだ。名誉なことだと誰もが羨むが……」

 

 彼はそこで言い淀んでしまった。

 

「どうぞ気持ちが落ち着いてから、続けてください。今、興奮を鎮める作用のあるハーブティーをお持ちしますね」

 

 そう言ってキッチンに向かおうとすると、悲鳴のような鋭い声が飛んできた。

 

「違うんだ!」


 驚いて振り返る。

 

 「大声を出してすまない。でも、違うんだ、興奮しているんじゃない。……夜、目を閉じると、敵の奇襲を想像してしまって、一睡もできなくなる。剣を握る手は震え、食事の味もしない。しかし団長や仲間の期待を裏切りたくはない」

 

 ガチガチと奥歯を鳴らし、拳を血がにじむほど強く握りしめる彼。その若すぎる背中にのしかかる重圧の気配は、痛々しいほどに鋭く尖っていた。私は踵を返して、彼の前にそっと立った。

 

「よくぞ、ここまで一人で耐えて、お話ししてくださいましたね……ひとつだけ確認します」

 

 彼は張り詰めた表情のまま顔を上げる。

 

「私は恐怖そのものを消すことはおすすめしません」

 

 その言葉に、彼の眉がぴくりと動いた。

 

「恐怖は命を守るための感情ですから」

「では、どうすれば……」

 

 掠れた声で呻く。私は静かに答えた。

 

「恐怖に絡みついている余計な部分だけを取り除きます」

 

 彼はしばらく考え込んで、やがて小さく頷く。

 

「頼みます」

 

 私が胸元へ手をかざし魔力をゆっくり流し込むと、彼の胸からは不思議な色をした光が現れた。

 冬の夜明け前の空のような青銀色だ。

 だがその光は今にも切れそうなほど張り詰めて細かく震え続けている。

 光は煙のようには流れなかった。無数の細い糸となって絡まり合いながら私の指先へ集まってくる。

 その一本一本に感情が宿っていた。

 失敗するかもしれない。仲間を死なせるかもしれない。団長を失望させるかもしれない。任務を台無しにするかもしれない。

 まだ何も起きていない未来への不安。

 

 私は慎重にその部分だけを選り分けていく。

 光が凝縮を始め、輪郭を持ち始める。私の掌の上に現れたのは、十数本の細く鋭い銀色の草本だった。

 短期間で育った芯にしては量が多い。

 霧の濃い夜、真っ暗な夜の海のような湿った香りがする。

 

「……取れました」

 

 私は草本をガラスの器へ移した。

 

「これがあなたを苦しめていた不安です」

 

 騎士は胸元へ手を当てて、しばらく何度も呼吸を繰り返した。

 

「変だ」

 

 彼は呟く。

 

「辺境の警備が危険なことは分かっている。死ぬのは怖い」

 

 彼は一瞬瞳を揺らしたが、すぐに目を瞬かせた。

 

「……でも今なら眠れそうだ」

 

 その声には深い驚きが滲んでいた。

 私は思わず微笑む。

 

「それで十分ですよ」

 

 騎士は静かに頷いた。

 肩から力が抜けている。先ほどまで鎧のように固まっていた身体が嘘のようだった。

 それでも彼の瞳から警戒心は消えていない。覚悟も責任感も残っている。

 ただ、それらを押し潰していた余計な棘だけが抜け落ちていた。

 私はガラスの器の中で揺れる銀の剣を見下ろした。

 若き騎士を刺し続けていた未来への不安は、今や静かに眠っていた。


 そして、約束の翌々日。

 再び店を訪れた若き騎士は、二日前とは見違えるほど、その佇まいから刺々しさが消えていた。

 

「いらっしゃいませ。体調はいかがですか?」

「数ヶ月ぶりに一度も目を覚まさずに、朝まで深く眠ることができたんです」

「では、あなただけの一杯をどうぞ」

 

 半個室のテーブルに、温めた純白のカップを並べる。注がれたお茶の水色は、目にも鮮やかな黄金色。香ばしい香りと共に高原の風を思わせる、どこまでも優しく、心を包み込むような香りがふわりと満ちた。

 

「あぁ……なんて落ち着く香りだ……」

 

 青年は固く結んでいた口元をふっと緩め、そのお茶をゆっくりと口に含んだ。

 お茶を飲み干し、香ばしいスコーンを一口齧ると、彼は本当に肩の荷がすべて下りたような、清々しい笑顔を浮かべた。

 

「……不思議ですね。あんなに私を狂わせていた恐怖や重圧が、今はもう、はるか遠い霧の向こうの出来事のように……ただ静かに、客観的な事実として受け止められる。これなら、私は戦場で、騎士としての正しい判断を下せます。団長や仲間の背中を、自信を持って守れます」

「ええ。今のあなたなら、どんな過酷な任務も、きっと気負わずに乗り越えられますよ」

 

 凛とした、本来の騎士らしい真っ直ぐな瞳を取り戻した彼を見送りながら、私は胸の奥で、また一つ確かな達成感を噛み締めていた。

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