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救いを求めない人

 月の代わりと共にスプリングベイルには春がやってきたようだ。

 窓から外を覗くと、エルダリッジ山脈の向こうに沈む陽光が、山肌を黄金色に縁取っている。

 閉店間際、誰もいない店内にカランコロンとドアベル響いた。

 振り返ると、そこにはレイナード様が立っていた。今日はどこか雰囲気が違う。彼は何かを言い淀むように視線をさまよわせ、ようやく私の目と合った。

 

「……今日はお茶を一杯もらいに来た」

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 

 彼は頷くと、カウンター席に座った。背もたれに背中を預けて、ため息をつく。

 その瞳は、相変わらず静かな水の色をしている。私は彼にお茶を淹れながら、ふと、数日前の彼の言葉を思い出した。

 ——自分にだけにしてくれ。

 迷惑だという意味だろうか。それとも……。

 私は努めて冷静に、湯気の立つティーカップとポットを彼の前に置いた。彼はカップよりも先に、じっと私の指先を見つめている。

 

「……前回お出ししたお茶の改良版です」

 

 私がそう言うと、彼はようやくカップに視線を移し、小さく片頬を上げた。その表情を見て、私は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。

 

「この間はすまなかった。せっかく出してもらったのに一口も飲まず……」

 

 話しながら、口角が下がっていく。

 

「いえ、お気になさらないでください。実はあの後飲んでみたら酸っぱすぎたんです。お飲みにならなくてよかった」

「酸っぱい……?」

 

 そう言って手元のティーカップをのぞき込む。酸味が苦手なのかもしれない。

 

「今回の物は調整してありますから、あまり酸味は感じられないかと」

 

 南国産の花びらを減らし、香りに活きる程度にしか入れていないので、余程舌が敏感でなければ大丈夫なはずだ。

 

「そうか、いやあまり酸いのは得意ではなくて……」

 

 そういってカップに口をつけた。

 一口飲んでうんうん、と頷く。

 

「確かに酸味は感じないな。爽やかでフルーティーだから、エレノアも好みそうだ」

 

 ほっと一安心する。仲の良い兄妹だから、お茶の好みも把握しているのでは、と思っていたが予想通りのようだ。

 ピンクのリボンを巻いた可愛らしい小鳥が描かれたラベル付きの真鍮の缶と、グレイフォード邸を訪問した際に渡せなかった、水色のリボンを巻いた凝った形の真鍮の缶をカウンターに置いた。

 時間が経ってしまったので、中の湖畔のしじまは新しいものに入れ替えている。

 

「これ、もしよければ受け取っていただけませんか。遅くなってしまったのですが、お屋敷に招待していただいたお礼です」

 

 レイナード様は驚いたように目を見開いた。

 

「気を使わせてしまったようで、悪いな。中は茶葉か?」

 私は提供したポットを手で示しながら言った。

「はい、茶葉です。おいしい夕食やきれいな客室に案内していただきましたから」

 

 あんな経験は二度とできないだろう。

 

 「気に入ってもらえたようでよかったよ。また招待させてくれ。エレノアが会いたがっているんだ」

 

 エレノア様はやはり心細いのだろうか。……それはそうだろう。先行きもわからず、屋敷で臥せっているだけでは退屈でもあろうし。

 

「そうでしたか……こちらのピンク色のリボンが付いた方は、このお茶なのです」

 

 レイナード様の前に置いたティーポットを手で示しながら、続ける。

 

「まだオーラクレストの入手の見込みもないですし、心細くていらっしゃるかと思いまして……おせっかいながら、お好きだとおっしゃっていた色のハーブティを作ってみたのです。『安らぎの幻灯』と名付けました」

 

 レイナード様はまた目を見開いた。そしてゆっくりと微笑みに表情を変えた。

 

「そうか……イザベル、あなたは本当に優しい女性だ。エレノアによく伝えておくよ」

 

 ストレートに褒められるとやはり少し、照れくさい。顔に出ないように、淡々と、でもメモを取りやすいようにゆっくりと淹れ方を続けた。

 レイナード様はふところからいつもの小さな帳面と万年筆を取り出し、さらさらとメモを取った。

 書き終えたころを見計らって、少し目を伏せ、水色のリボンの方は湖畔のしじまだ、と告げた。

 

「ああ、あの時作ってくれたお茶か。とてもおいしかったが、メニューには載せないのか?」

 

 ……何と答えたものだろうか。あなたをイメージしたものだから、他の人には飲ませたくない、と言うのが本心だが、それを伝えるとまた怒られてしまうかもしれない。

 でも、と弱気な自分を叱咤する。あなたにだけだと伝えてしまえば良いのではないか?

 別に戯言を言うな、と言われた訳ではない。ただ、誰にでも言うなというだけだ。

 多分、私の言葉の真意には気づいてなどいないだろう。だってあんなに優しく笑いかけるのだ。気付いていてそんな顔ができるなら、あんまりだ。

 

「この湖畔のしじまはレイナード様をイメージして作ったのです。だからほかの方にはお出ししません。こんなことを言うのは誓ってレイナード様にだけです」

 

 なんら問題のない発言のはずだった。

 それなのにレイナード様は耳まで顔を赤くしてあたふたと万年筆を懐にしまい、茶缶もポケットに入れ勢いよく立ち上がった。

 

「そうか、了解した。今日もお茶をありがとう。これで足りるかな。それではまた来る」

 

 早口でそうまくし立て、どう考えても多すぎる金貨をカウンターに置いて店を飛び出して行った。

 いただきすぎです、と叫ぶもむなしく、馬の走りだす音が聞こえる。

 前にもこんな風なことがあったなあ、と思いつつ、店の外に出た。馬に乗った人影は、夜の優しい闇に包まれてもう見えなかった。

 

 ドアプレートを閉店に返す。店じまいを始めよう。

 店に入って左手すぐの掃除用具入れを開ける。

 箒と本来は暖炉の灰を掬うためのシャベルを取り出した。これにホコリやチリを乗せて外に捨てるのだ。

 取っておいた出涸らしの茶葉を取りいこうとカウンターまで歩きながら今月のスケジュールについてさっと考えた。

 レーテの雫は二週間ほど休むことにした。とはいえ、その先の予約はしっかり入っている。茶葉の仕入れや休暇を空いた穴にはめていく。

 

 カウンターまで来て、一つの忘れ物に気がついた。

 帳面だ。レイナード様がいつもメモをするときに使っているもののように見える。

 席も確かにそこに座っていた。

 いつも彼がこの帳面にペンを走らせている姿が脳裏をよぎり、見てみたいという猛烈な好奇心に抗えなくなった。

 ちょっとだけ、そう思いながら帳面の中程を開く。

 何かが一面びっしりと荒い筆跡で書かれていた。所々濡れたようにぼやけているが、その線は均一で、万年筆で書かれていることがわかる。

 

 どうやらそれは地名と人名であるらしかった。

『アルピナ通り:被災家屋四十二戸。ミルレーン:完全水没。犠牲者:マーサ・スミス、トマス・ミラー、エミリー・ミラー……・ギルバート・スミス団長 アルピナ通り:被災家屋四十二戸。ミルレーン:完全水没……』

 何度も何度も同じ情報が書き殴られている。

 ドアを強く叩く音がした。

 思わず帳面を持ったまま、鍵を開け扉を開いた。

 

「……見たのか」

 

 扉の前に立っているレイナード様の顔は、幽霊よりも白かった。

 

「レイナード様、これは……」

 

 勝手に見たことへの謝罪よりも先に、問いただすような言葉が口をついて出た。

 私達は戸口に立ったまま、話し続けた。


 

 五年前の冬は、近年稀にみる大雪だった。春を迎え、温かな風が一気に山の雪を溶かした。穏やかで美しかった山の恵は一夜にして濁流に変わり、堤防を嚙みちぎった。

 当時、第一騎士団の副団長であったレイナード様は水の手が迫る詰め所で、冷徹な命令を下さなければならなかった。

 下流のすべての人々を救う時間は残されていなかった。これ以上の堤防の連鎖決壊を防ぎ、街の中心部と大部分の住民を救うため、アルピナ通りが位置する地区の放棄、および同地区をつなぐ水門の完全封鎖を命じた。

 

「副団長! 団長はまだアルピナ通りの奥です! 救助隊の信号弾もまだ上がっていません!」

「水門閉鎖をあと十分、いや、五分だけ待ってください!」

 

 部下の悲鳴のような報告を伯爵は跳ねのけた。

 

「レイナード」

 

 伯爵の重く冷たい声が響いた。

 

「門を閉めろ。猶予はない」

 

 ハイムロックの中枢は救われたが、それは同時にレオナード様が自らの手で、父親のように慕っていた団長と、その母親そして忠実な部下たちの命を見捨てた瞬間だった。

 その冷酷な迅速さのおかげで、街の犠牲者は奇跡的なまでに最小限に抑えられた。

 この功績により、彼は英雄として讃えられ、ギルバート隊長の跡を継ぎ、若くして騎士団長へと上り詰める。

 だが、彼の胸の内はあの夜から一歩も動いてはいなかった。

 職務の合間、誰もいない執務室でこの帳面を開き、あの日、見捨てた名前を書き連ねていく。

 魔法の万年筆はインクが切れない。いつまでも何度でも書き続けられた。こうして今日まで何度も何度も何度も書き続けてきたのだ。

 

 

 話し終わったレイナード様から、いつもの端正な騎士としての仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、過去の罪に怯える一人の傷ついた男が立っていた。

 彼の視線は、私が手に持っている帳面、万年筆の黒いインクで刻まれた、彼自身の凄惨な告白に向いていた。

 

「すまない。不快にさせたな……。私は、守れなかったんだ。私に幸せになる資格などない。誰かを愛することも、愛されることも……。だから、君の温かいお茶も、本当は私には勿体ないものなんだ」

 

 彼は自嘲気味に歪んだ笑みを浮かべ、帳面を回収しようと手を伸ばす。その指先が、かすかに震えていた。

 私は帳面をエプロンのポケットに突っ込み、差し出された彼の震える手を、両手でそっと包み込んだ。

 

「冷たいですね、レイナード様」

 

 驚いたように彼が目を見張る。

 紅茶の魔女である私の手は、いつもほんのりと温かい。保温の魔法は、こういうときのためにあったのかもしれない。

 

「自分を責めるためにペンを握るなんて、もうやめてください。この万年筆は……師匠が、誰かの想いを遺すために作ったものです。あなたを傷つけるために作られたんじゃない」

 

 私の指先から伝わる熱に、レイナード様の頑なだった瞳が、初めて熱い涙で潤んでいく。

 

「私は魔女ですから、あなたの苦しみを美味しいお茶に変えて、消し去ってみせます。……だから、もう一人で泣かないで」

 

 窓の外を流れるスプリングベイルのせせらぎだけが、私達の沈黙を優しく満たしていく。

 

「レイナード様、その苦しみを抽出させてください。その万年筆で、自分を責めるための懺悔を書き殴るなんて、もう見ていられません。その心を消してしまえば、あなたは自由になれるんです」

 

 そう言って、レーテの雫について簡単に説明した。レイナード様は私の話を暗い表情で聞いている。

 

「……いや、断る。私の罪は、私が生きている限り背負うべきものだ。これを消してしまったら、私は私でなくなってしまう。……君のお茶は温かくて心地良いが、私のこの傷まで奪わないでくれ」

 

 そう言うとポケットから半分ほど出ていた帳面を掴んで、濡れた瞳で私を見下ろした。

 

「情けない姿を見せてすまなかった。また来る」

 

 さようなら、と続けて、レイナード様は店の前につないだ馬のもとへ戻って行ってしまった。

 春とはいえ、夜はまだまだ寒い。すっかり体が冷えてしまって、私はぶるりと身を震わせた。


 翌日もその翌日もレイナード様は来なかった。

 勝手に帳面を読んでしまった謝罪と、辛い過去をうちあけてくれた感謝を述べたかったけれど、いざ手紙を書いてみると、陳腐な言葉にしかならなかった。

 

 レイナード様はどうして、苦しみを抜き去りたくないのだろうか。

 彼の胸の内が全くわからない。これまでたくさんの苦しみに寄り添ってきたつもりだけれど、抜き去りたくないなんて人は初めてだった。

 私自身、父を亡くしたその日に苦しみを抽出したというのに。

 ふと、母の言葉を思い出した。

 ——人の心に魔法を近づけてはいけない。

 母なら、分かるだろうか。彼の気持ちを。

 

「決めた、しばらく臨時休業!」

 

 白樹紙に臨時休業とデカデカと書いたものをドアプレートにくくり付けた。

 早速支度をする。工業の街までは乗合馬車に乗っても片道一日はかかる。万年筆、交換式帳面二冊、軽食、手土産のエルダリッジティーを一缶。サッチェルと籐の籠にそれぞれ放り込んで行く。

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