工業の街
翌朝、私は始発の乗合馬車に乗り込んだ。
春の湿気を含んだ風が窓から吹き込み、見慣れたスプリングベイルの街が少しずつ遠ざかっていく。
揺れる車内で何度もレイナード様の言葉と濡れた瞳を思い返していた。
日が暮れる頃、煙突の並ぶ工業の街が見えてきた。
祖母と母の住む中心部へ、馬車は進んで行く。澱んだ空気が懐かしさを掻き立てる。
停車場に着くと、ちょうど仕事帰りだろう、煤だらけの人々がゾロゾロと街の出口へ向かっていた。皆、外の村に帰っていくのだ。
停車場から歩いて十五分程の一角にある小さな家。ここが私の実家だ。
緊張もそこそこに、思い切って鉄製のドアノッカーを三度打ちつけた。
「はーい」
中からくぐもった声が聞こえる。おばあちゃんだ。
「はい、どなた」
そう言いながらドアを開けた祖母は、私の顔を見るなり目を見開いた。
「おやおや、ベルじゃないか!」
「おばあちゃん、久しぶり」
私たちは両手を広げて抱き合った。祖母は少し細くなったように感じる。
「よく帰ってきたねー、嬉しいよ」
「元気そうでよかった、今日泊まっても良いかな。話があるんだ、お母さんにも」
そう言うと祖母は体を離し、私を見上げて優しい表情で頷いた。
「ここはお前のうちでもあるんだから、いつでも好きな時に帰ってきて、いつまででもいたら良いんだよ。さ、入りな。パメラももうすぐ帰ってくるよ」
家の中はいつもながら、薬草をすりつぶした青臭い香りと、干した薬草の芳醇な香りが、ないまぜになって漂っていた。
薬草の話を描きながら、奥へと進む。一段上がったところに、木彫りの衝立が置いてある。ダイニングはその奥にあった。
促されて、いつもの定位置に座る。
祖母は台所に向かった。夕食を用意している途中だったようだ。何か手伝うよ、と言いながら台所に入ると、追い返されてしまった。
仕方なく、また定位置に座った。教わった薬草のことを交換式帳面に書こうと、サッチェルから万年筆と帳面を取り出した。
その時、ただいまー、と言う声が聞こえた。慌ててサッチェルに二つともしまい、衝立を少し動かして顔を覗かせた。
お母さんだ。
衝立からひょいと出てきた私の顔を見て、母は小さく、ギャーと悲鳴をあげた。
これが小さい頃からのお出迎えだった。
「いつ帰ってきたの?」
衝立をずらしながら、母が聞いた。
「今さっき」
「そう。ずいぶん急ね」
「うん。どうしても会って話したいことがあってね」
「そう。まあ、いつでも帰ってきたらいいよ」
祖母と同じことを言う。なんだかその優しさで、張り詰めていたものが溶けてしまいそうで、ありがと、呟くように言った。
おかえり、と言いながら祖母が夕食の配膳を始めた。
今晩の献立はシチューと薬草を混ぜたパンだ。
久しぶりに食べる実家のご飯というものは、こんなにも沁みるのかと、思わずおかわりをしてしまった。
祖母も母もニコニコしながら私の食べる様子を見ていた。もう子どもじゃないんだから、見ていても可愛らしくもなんともないだろうに。
お腹がいっぱいになったところで、二人に持参したエルダリッジティーを振る舞う。
都会の味がする、と母は気に入ったようだった。
お茶を囲んでなんとなく空気が落ち着いたところで、話を切り出した。
「実はさ……レーテの雫を今の街でも提供しているんだけど……」
祖母も母も苦い顔をする。二人はこの魔法、嫌いだもんなと思いつつ、ひとまず触れずに話を進める。今日までのレイナード様とエレノア様の話。
「レイナード様は苦しいのに抽出はしたくない、『この傷まで奪わないでくれ』といって苦しんだままなの……」
二人は静かに私を見つめている。
「二人にはどうしてかわかる? 私にはさっぱりで……」
そう言うと、二人は顔を合わせた。祖母は頷いている。母が口を開いた。
「苦しみこそが、葛藤こそが人を人たらしめるんだよ」
そう言って、長い昔話を始めた。
「私は若い頃、アシュトン領の別の街で、ある腕利きの高名な宝石商と共に働いていたんだ。
私の魔法は石の価値を鑑定するだけだと伝えていたね? でも本当はそれだけじゃなく、人間の強い感情を、美しい宝石に閉じ込める、という魔法が本当の姿なの。
最初はあんたと同じ、善意でその魔法を使っていたわ。
その宝石商に『愛する妻を亡くして、絶望している貴族がいる。彼の悲しみを少しでも和らげるために、その悲しみをアメジストに閉じ込めて、綺麗な思い出に変えてあげてほしい』と頼まれて、私は魔法を使った。
貴族は救われ、宝石商も大儲けし、みんなが幸せになった。
でもね、人間とは欲深かなもので、宝石商は味を占めてしまった。
人間の激情、つまり激しい恋心や燃えるような嫉妬、誰かへの強い執着だね。それらが込められた宝石は、他人の感情をコレクションしたい、という悪趣味な大貴族たちの間で通常の何十倍もの高値で取引されるようになっていったのさ。
宝石商は、私を騙して、様々な人間の心を宝石として抽出させ続けた。
強い執着や愛憎を綺麗に抜き取られた人間たちは、一見すると楽になったようだった。でもやがて何も望まない、誰も愛せない、まるで魂の抜けた人形のようになってしまった。
さらに、その宝石商自身も、私の魔法で作った他人の美しい感情の宝石に魅了され、自らも狂気に取り憑かれて破滅してしまった。
自分が良かれと思ってやったことが、人間の心を壊し、欲望の化物を生み出してしまったことに私は激しい恐怖と罪悪感を覚えた。
人間の負の感情は、一見毒のように見えても、人間らしく生きるためのヒビのようなもの。魔法という安易な力でそこを綺麗に埋めてしまったら、人間そのものが崩壊してしまう。
だからこそ私は、自分の力を封印し、宝石鑑定などのただの石を見る仕事だけに徹するようになった。私はもう、あの魔法を絶対に使わない。たとえ目の前に泣いている人がいても」
話し終えた母はくたびれた顔をしていた。
確かに、心に触れる魔法は危険かもしれない。でも私は救われた人々をこの目で見てきた。
それに抽出した茶葉は本人の私の前で飲ませている。母の宝石のように転売の恐れもない。
だから、母のように過剰に恐れようとは思えなかった。
それでも、レイナード様の気持ちには少し触れられたのかもしれない。
「話してくれてありがとう。お母さんが人の心に魔法を近付けるな、といった理由はわかったよ」
まだ否定も肯定もしたくなくて、無難な感謝を述べた。
「まあ、あんたは頑固だから腹の中では舌を出しているのだろうけど。これまでのお客さんと、あんたの頭を悩ますその人、何が違うかよく考えてみな」
母には私の頭の中などお見通しのようだった。
「さて、私は洗い物でもしてこようかね」
母は立ち上がって台所に向かった。私も手伝おうと後を追うと、また台所から追い返された。
定位置に座りなおす。祖母はしばらくにこにこと私を見ていた。
「考えはまとまりそうかい?」
「全然」
「そうかい」
笑いながら答えると、祖母もつられたのか笑い出した。
そしてふと、何かに気づいたように目を細める。
「ところで、わざわざこの話をするために帰ってくるとはよほど大切な人なんだね」
「そうかな? お客さんだよ」
おばあちゃんは微笑んで、そうかい、と言った。
「長旅で疲れただろう、先に風呂を使いな」
おばあちゃんにそう言われて、私は久しぶりに実家の木桶風呂に入った。
薬草を煮出した湯の香りが立ち昇る。湯気の中に、ゆっくりと身体を沈めた。
じわり、と四肢の先から熱が染み込んできて、今日一日中張っていた肩の凝りがふやけていくようだ。
湯気の中で目を閉じると、レイナード様の言葉がまた浮かんできた。
——この傷まで奪わないでくれ。
手を少し動かすだけで、水面が波立つのを感じた。濡れた瞳が蘇り、小さくため息が漏れた。無意識に髪を触る。
「……うん、お母さんの言うとおり、まずは違いを考えてみよう」
熱いお湯がこわばった思考をほぐしてくれたのか、さっきまであんなに重苦しかった悩みが、少しだけ軽くなった気がする。
ふう、と深く息を吐き出し、お湯をすくって顔を洗った。パチパチと鳴る肌の熱さが、どこか心地いい。
のぼせる前に出ようと、木桶から立ち上がる。
水音が静まり返った浴室に響き、さっきまでのぐるぐるした思考は、湯気に溶けて輪郭だけを残していた。
今は答えが出なくてもいい。
明日の私が考える。
その日はそのまま寝てしまった。久しぶりの私の部屋は物置になっていたせいで少し埃っぽかったが、それにさえも安堵を掻き立てられて、とてもよく眠れた。
翌朝、ダイニングに降りてみると誰もいなかった。
祖母は作業場にいるようだが、母はもう出勤したようだ。
机の上に小さな箱と手紙が置いてある。
帳面のことを思い出して、勝手に中を見るのは躊躇われた。裏返すと表書きには悩める娘へ、と書いてあった。
安堵しながら封筒から中身を取り出した。羽ペンで綴られた手紙を読む。
その箱の中の方位磁針は呪われた人を指す、と書かれている。
こうも書かれていた。
『本当に呪われているのは妹なのかい?』
ハッとした。そうだ、最初からアプローチを間違えていたのかもしれない。
持ってきていた交換式帳面から紙を一枚取り出す。
『お母さんへ。ありがとう。行ってきます』
殴り書きのような一文だけ残して席を立った。
作業場にいた祖母に泊めてもらったお礼、急いで帰ることにした旨を伝える。
すると祖母は、ふふ、と笑った。
「レーテの雫の量が少ないなら、発酵オーラクレストと混ぜれば良いんだよ。弱らせてからならイチコロさ」
味見用にとっていたという一杯分の茶葉の入った小さな茶缶を渡してくれた。
感謝をして、ハグをする。
「もっと頻繁に会いに来るから」
「いいんだよ、迷った時、苦しい時に帰っておいで。ここはあんたのそういう場所だよ」
「おばあちゃん……」
「さ、行きなさい、早く馬車に乗らないと」
後ろ髪を引かれる思い出体を離し、手を振りながら停車場まで走り出した。
胸の中で、濡れた瞳がもう一度浮かぶ。
待っていてください、レイナード様。今度こそ、あなたを助ける方法がわかった気がする。
停車場へ駆け込むと、ちょうどハイムロック行きの直通便の御者が出発の鐘を鳴らそうとしていた。
翌日の昼過ぎ、ようやく領都ハイムロックの城壁が見えてきた。
停車場から騎士団の詰め所まで、走る。
春だと言うのに大汗をかきながら、息を切らし、門の脇に立つ衛兵二人にまくしたてるように申し出た。
「スプリングベイルの紅茶の魔女、イザベル・ウェルズと申します。レイナード様に急ぎ、お伝えしたいことがあって参りました。約束はありません」
衛兵二人は前とは違う人たちだったと言うのに、道を開けてくれた。
「団長より、あなたはお通して良いと命じられております。今日も詰め所にいらっしゃいますので、どうぞ、ご案内いたします」
「あ、ありがとうございます」
まだ息を切らしながら礼を言い、一人の衛兵について、門を通る。
騎士団長室の斜め向かいにある応接室に通された。
「こちらでお待ちください」
一礼して、衛兵は去っていった。
大きく深呼吸をして、呼吸を整える。
スカートの裾を払い、額の汗を拭いて髪を整える。
そこでふと手を止めた。
別にお茶を飲みに来たわけではないのに。何を気にしているのだろう。首を振る。
サッチェルからお母さんがくれた木箱を取り出し、蓋を開けて机に置いた。
針は斜め左、ドアの向こうを向いていた。
コンコンとノックが鳴り、ドアが開く。
「やあ」
少し気まずそうな顔をしたレイナード様が現れた。慌てて立ち上がり、一礼する。
レイナード様が部屋に入り、ソファーまで歩く。針が、合わせるように動く。
促されて席についたが、私は呆然としていた。
どうしてもっと早く思いつかなかったのだろうか。
出所不明の呪い。それはそうだ。誰もこんなこと想像し得ない。
「急ぎだと聞いたが、今日はどうしたんだ?」
レイナード様の声音は優しい。いつもならときめくのに、今は優しいから、辛い。
「あの、これ……」
言葉がうまく出てこなかった。この人を傷つけないように伝える方法が思いつかない。
私はおずおずと方位磁針を差し出した。
「ん? これは狂っているな。北はあなたの方なんだ」
そう言ってニコリと笑った。
「これ、北を指すんじゃないんです。……その、呪われている人を、指すんです」
レイナード様は目を見開き、次に眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだった。
沈黙が私たちの間に長いこと居座っていた。
「つまり、私が呪われていると」
重い空気を破ったのはレイナード様からだった。
「そう、なります」
「そうか」
短く言ったっきり、また押し黙ってしまった。
「まあ」
彼は片頬を上げて再び口を開いた。遠い目をしている。
「呪われるいわれはある」
「いえ、あの、呪いをかけているのはご自身ではありませんか?」
私は帳面を思い出しながら言った。あれほどの強い感情は、呪いになり得る。
「私が、私に? なぜ?」
「私にはわかりません。ずっと考えていました。でも、どうしてそこまでご自分を責めるのか、私にはわからないんです。でも……」
レイナード様は五年もの間、どんな気持ちで綴り続けていたのだろう。そう思うと涙がこぼれてしまった。
軽くハンカチで拭って続ける。
「でも私はあなたのことを、もっと知りたいです。そして、おこがましいけど、救いたい……これ以上、あなたが苦しむのはもう耐えられない!」
レイナード様は眉間に皺を寄せたままだった。
うんともすんとも言わない。何かを逡巡しているように、俯いていた。長い沈黙がまた訪れた。
方位磁針を見つめては私を見つめ、また方位磁針を見つめて俯いていた。膝に乗せられた手が、両方ともきつく握られている。
私は堪らず立ち上がって言った。
「キャパシティを超えているんです!」
思わず声が大きくなった。レイナード様が目を見開く。
「どうしてまだ一人で背負おうとするんですか!」
胸の奥から言葉が溢れて止まらなかった。
「傷を忘れたくないなら忘れなくていいです! 苦しみを全部消したくないなら、それでもいい!」
机を叩きそうになるのを堪える。
「でも、現に呪いになっているじゃないですか! エレノア様はどうなるんですか!」
エレノア様の、あの期待を何度も裏切られてきたであろう寂しい笑顔が蘇る。
「……認めてください」
声が小さくなる。
「もう一人では抱えきれないって」
俯いていた顔を上げる。
「私に、あなたの心をください」
レイナード様が息を呑んだ。
「全部じゃなくていいんです」
一歩近づく。
「半分でいい」
震える声で続ける。
「私に、あなたを支えさせてください」
レイナード様は何か言おうとしたようだったけれど、それは言葉にならなかった。
きつく結ばれた唇が震える。
やがて長い睫毛の隙間から、一筋だけ涙が零れ落ちた。
「頼む」
小さく、震える、それでも強い意志を感じる声だった。
私は何も言わず、彼の頬に触れた。
窓から差し込む春の日差しだけが、静かな部屋を照らしていた。張り詰めた私たちの影を床に落とすその光は、この部屋の静けさをいっそう際立たせている。静寂の中で、彼の呼吸の音だけが聞こえた。
驚くほど冷え切った肌に、自分の手の体温が吸い込まれていく。彼の手が、私の手首を掴む。けれど、振り払うような力は微塵もなかった。すがりつくようなその指先は、かすかに震えている。
「……少しだけ、力を抜いてください」
囁きながら、私は彼の頭を抱き込み、自分の胸へと引き寄せた。
私の体温に触れた瞬間、彼の身体からすとんと力が抜ける。凍りついていた何かが融けるように、頑なだった肩の強張りが消えていく。私の胸に顔を埋めた彼の、熱く、速い呼吸が直に伝わってきて、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。苦しんでいる彼の境界線が、全部私の中に流れ込んでくるようだった。
彼は私の腰に腕を回し、強く、強く抱きしめた。骨が軋むほどの強い力。まるで、今ここで手を離したら、どこか遠い暗闇に自分が消えてしまうとでも恐れるかのように。一度だけ、私の服を握る指先に力が入った。衣服が擦れる微かな音さえ、この静まり返った部屋ではあまりに大きく響いていた。
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