グレイフォードの夜明け
いつまでそうしていただろうか。
腰に回した腕に、さらに力がこもる。
「く、苦しいです……」
「……ふ」
小さな笑い声が聞こえて、腕が緩んだ。
泣いていたはずなのに、どこか困ったような笑いだった。
「え?」
思わず見下ろす。
「すまない。あんなふうに誰かに叱られたのは、随分久しぶりだ」
ハッと我に返ると自分のしたことと現状の大胆さに驚いて、思わず両手を上げた。
「あの……! 悪気はなかったんです! ご、ごめんなさい! つい勢いで!」
レイナード様はゆっくりと私の腰から腕を離し、そし立ち上がった。
「いや、謝るのは私の方だ」
そう言って一歩下がった。
まだ彼の目は赤い。
「取り乱してしまった」
そう言って一つ咳払いをし、何か覚悟を決めたような表情になった。
「少し待っていてくれ」
そう言って立ち上がると、迷いなく扉へ向かう。
「ど、どちらへ?」
「休暇を取る」
「え?」
「団長が休暇を取るには少々手続きがいる」
扉に手を掛けたまま、こちらを振り返る。
今までに見たことのない、肩の力の抜けた笑顔だった。
「それから馬車を手配する。早速あなたの店へ行こう」
胸がいっぱいになって、言葉が出てこない。ただ頷くことしかできなかった。
レイナード様は静かに部屋を出て行った。
閉まった扉を見つめながら、私はようやく大きく息を吐く。
机の上の方位磁針に目を落とす。
針は迷うことなくレイナード様が出ていった扉を指していた。
レイナード様が部屋を出てほどなくして、廊下から慌ただしい足音が聞こえ始めた。
「団長、本日の会議は――」
「延期だ」
「え?」
「副団長に任せる」
「し、しかし」
「緊急の用件だ」
静かな声なのに、有無を言わせない。
こんなにも真面目な人が、今まさに休暇をもぎ取ろうとしている。
少し前の私なら想像もできなかった。
扉越しに聞こえるやり取りはしばらく続き、やがて静かになった。
十五分程経った頃だろうか、コンコン、と再び扉が鳴った。
「お待たせした」
先ほどより幾分すっきりした顔で、レイナード様が戻ってきた。
「本当に……休暇を?」
「ああ」
「取れたんですか?」
「正確には」
彼は少しだけ口元を緩める。
「取った」
思わず笑ってしまう。
レイナード様もつられて笑った。
さっきまで泣いていた人とは思えないほど穏やかな笑顔だった。
「では、行こうか」
「はい」
二人で並んで部屋を出る。
廊下ですれ違う騎士たちが、一様に目を丸くした。
「団長?」
「お出掛けですか?」
「……ああ」
短く答えるレイナード様の横顔は、少しだけ気まずそうだ。
それがおかしくて、笑いを堪える。
「笑っているな」
「いえ」
「笑っている」
「……少しだけ」
レイナード様は困ったように息を吐いた。
「あなたのせいだ」
「えっ」
「団長らしく振る舞う余裕がなくなった」
そんなことを真顔で言うものだから、また笑ってしまう。
「なんですか、それ」
「そのままの意味だ」
二人で門を出ると、馬車はすでに通りで待っていた。
「旦那様、お待たせいたしました。スプリングベイルまでの道中、軽食をご用意しております。」
馭者が恭しく扉を開ける。
「ありがとう」
レイナード様は短く答えた。
確かに朝から何も食べておらず、お腹が空いていた。ここからスプリングベイルまで約半日。とても助かる気遣いだった。
レイナード様は馬車の扉の前で足を止めた。
「お先にどうぞ」
「え、でも……」
「女性が先です」
微笑みながら言われ、私は小さく頷く。
ステップへ足を掛けると、腰の辺りにそっと手が添えられた。
驚いて振り返る。
「失礼」
それだけ言って、何事もなかったように私を客室へ導く。
心臓だけが、何事もなくは済まなかった。
馬車が石畳をゆっくり進む。
二人の間には拳一つ分ほどの隙間がある。さっきのことが思い出されて、あまり近付くのは恥ずかしかった。
しばらくどちらも口を開かなかい。けれど、沈黙が流れても不思議と苦しくない。
窓の外へ目を向けたまま、レイナード様が静かに息を吐く。
「少し、疲れたな」
「はい」
それ以上の言葉はいらなかった。
また二人とも静かに外を流れていく景色を眺める。
あ、と何かを思い出したようにレイナード様がこちらに向き直った。
「早速だが、お腹が空いているのでは?」
「そうなんです、実はもうぺこぺこで!」
レイナード様は優しく笑うと、前のベンチに置いてあった籠を広げた。
車輪が石畳を離れ、土の街道へ出ると、揺れは柔らかくなった。
蓋を開けると、焼きたての香りがふわりと広がった。
白く柔らかなパンに、燻製肉と淡い黄色の熟成チーズを挟んだものが二つ。香草を練り込んだ小さな肉団子、甘く煮たラディアの実、殻を剥いたゆで卵、それに琥珀色の焼き菓子が布で丁寧に包まれている。
「わあ……」
「口に合うといいが」
「こんな立派なお昼、ご馳走になってしまっていいんでしょうか……」
「私一人では食べきれない」
そう言って、レイナード様はサンドイッチを一つ手に取ると、私へ差し出した。
「ぜひ食べてくれ。あなたと一緒に出かけると言って用意させたんだ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
彼は照れたように口元を緩めた。
「……いや、その、事実だろう」
「ふふ」
「笑わないでくれ」
「ごめんなさい」
謝りながらも笑みは止まらなかった。
私はサンドイッチを受け取る。一口かじると、香ばしいパンの甘みに、燻製肉の塩気とチーズのまろやかさが重なった。噛むほどに、ほのかな香草の香りが広がる。
「美味しい……」
「それはよかった」
レイナード様もようやく一口頬張る。
二人で分けながら同じものを食べている。それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
気づけば肩が触れ合う距離になっていた。
それでもお互い、離れようとはしなかった。気恥ずかしさはもうどこかへ行ってしまっていた。
軽食を食べ終えて、また沈黙が訪れた。
「私は」
レイナード様が前を見ながら言った。
「人に弱音を吐くのは、あれが初めてだ」
「……そうですか」
「だから」
少し照れたように笑う。
「どうすればいいのか分からない」
私は小さく笑った。
「私もです」
「あなたも?」
「大切な人を支えるのは、初めてなので」
「そうか」
レイナード様は照れているみたいだった。
「はい」
つられて私もなんだか照れてしまう。
何度目かの沈黙がまたやってきた。
レイナード様は失礼、眠くなってしまった、と言ったきり、馬車の揺れに身を任せて眠ってしまっていた。
寝顔をそっと覗き見ると、とても穏やかなものだった。
手持ち無沙汰になった私は、ブレンドレシピの整理や考案に勤しむこととした。
気がつくと、日はもうすっかり沈んでいた。そろそろ到着する頃だろうか。
レイナード様はまだ眠っているようだった。また、そっと顔を覗き込む。
パチっと片目だけが開いた。
「覗き見とは趣味が悪い」
片頬は上がっているので、怒ってはいなさそうだった。なんとなく、このやり取りに昔の父を思い出して、思わずふふ、と笑いがこぼれた。
「なんだ、笑うようなことか?」
「よく寝ている父の顔を覗き込むと、同じようにしてくれたのを思い出したんです」
「お父上が……そうか。どんな方なのだ?」
「十年前に亡くなったんですが、とても優しい人でした。でも街の煤が体に合わなかったみたいです」
「そうか……まだ小さかっただろうに」
「そうですね、父の葬儀の時、初めて魔法が発現したんです。レーテの雫を初めて使ったのは私自身になんですよ」
そう言って穏やかに微笑むと、レイナード様はそうか、とだけ呟いた。
「レイナード様のお父様はどんな方なんですか?」
「父はフェアモント領の領政館を束ねている。昔から我がグレイフォード男爵家はフェアモント伯爵家に仕えている身分でな。私は次男だし、剣術に覚えがあったものだから騎士団に入ったのだ」
「お兄様がいらっしゃるんですか。どんな方ですか?」
「なんだ、兄に興味があるのか。喜ぶだろうな」
「え?」
「昔から女性によく好かれる」
そう言って複雑な顔をしたものだから、慌てる。
「私、兄弟姉妹がいないので! 気になります」
ああ、と納得したように呟くと兄について教えてくれた。
「そうだな、しっかりした人だと思う。エレノアが呪いのせいで婚約破棄された時も、私のいるタウンハウスで療養するよう提案したのは、兄だったし、優しい人だ」
父がうるさかったから、と小さく付け加えた。
「兄弟仲良し、素敵ですね。私もエレノア様のような可愛らしい妹に振り回されてみたかったな」
レイナード様はギョッとしたように目を見開いた。
「あいつは怖いぞ」
「可愛らしいじゃないですか」
たわいもない話で、移動時間が埋まっていく。気づけばもう、せせらぎに包まれていた。
ティーハウスの半個室で、レイナード様は背筋を真っ直ぐに伸ばしたままソファーに腰掛けていた。
私は彼の胸元へそっと手をかざした。
「では始めます」
静かに魔力を集中させる。
すると、レイナード様の胸の奥から、淡い水色の光がゆっくりと滲み出してきた。
世界のどこよりも美しい湖からこぼれ落ちた、透き通る一雫ような色。
光は糸のように細く長く伸び、私の指先へと吸い寄せられていく。
少しずつ少しずつ、すべて取り去ってしまわぬよう、溢れて滴った雫だけを集めていく。
光は次第に凝縮され、私の掌の上でゆっくりと形を結び始める。
現れたのは涙の形をした金色に輝く薄く柔らかな葉だった。
数枚の葉はまるでベルベットのように柔らかで、ひんやりとしていた。しかし、そのまま数秒触れていると、今度は自分の体温がじんわりと反射して、まるで誰か触れているかのような優しい温もりに変わっていく。
近づけば硬質で雑味のない、胸の奥が洗われるような冴え渡った香りが突き抜ける。
「……これが」
レイナード様は息をのんだ。
私は葉をそっとガラスの器へ移した。
「これが、あなたの執着の欠片です」
たった数枚の葉だけだったけれど、この世界の何よりも重く感じられた。
五年間。 誰にも預けられず、誰にも触れさせず、一人で抱え続けた想いが、ここにある。
レイナード様は静かに目を閉じた。
「……不思議だ」
胸へ手を当て、小さく息を吐く。
「何かを失ったという感覚ではない」
ゆっくりと目を開く。
「長いこと鎧を着込んでいたのを、ようやく脱いだような……そんな気分だ」
その表情は穏やかだった。
頬に差す血色も、心なしか良く見える。
「もちろん、全部ではありません」
私は器から目を離さず答えた。
「溢れてしまった分を、お預かりしただけです」
「ああ。それで十分だ」
レイナード様は静かに頷いた。
「ありがとう」
その一言は短かった。
けれど、今まで何度聞いた礼よりも深く胸へ染み込んだ。
私は器を両手で抱えたまま、小さく頭を下げる。
「二日後、お届けに参ります」
「楽しみにしている」
その笑顔を残し、レイナード様は店を後にした。
扉の閉まる音を聞いても、私はしばらく動けなかった。
ようやく大きく息を吐く。
「……絶対に失敗できない」
誰に言うでもなく呟くと、器を胸元へ抱き寄せた。
地下室へ続く階段を、一段一段慎重に下りていく。
ほんの少しでも手元が狂えば、この葉は傷ついてしまう気がした。
いつもなら鼻歌でも歌いながら降りる階段が、今日はまるで神殿へ続く参道のように厳かだった。
地下室の扉を閉め、鍵を掛ける。
静かな石造りの部屋には、茶葉だけが知る甘い香りが満ちていた。
私はガラスの器を作業台へ置き、そっと葉へ触れる。
「ここからは、私の仕事です」
もちろん返事はない。それでも、葉は小さく光を返した気がした。
一晩かけて丁寧に萎凋させる。
眠る前にも地下室へ降り、夜中に一度目を覚ましては様子を見に行き、夜明け前にももう一度。
気になって、眠ってなどいられなかった。
翌朝には葉はちょうどいい柔らかさまで水分を失っていた。
私は慎重に揉み込み、石造りの部屋でゆっくりと発酵を待つ。時間とともに葉は深く、美しい赤褐色へと姿を変えていく。それは終わりの色ではなかった。
長い夜を越え、ようやく朝日を迎えようとする空の色によく似ていた。
夕刻、乾燥の魔法を施し、最後に羽ばたきの灯火を合わせると、澄んだ香りがふわりと立ち上った。
私は完成した茶葉を真鍮の茶缶へ移し、しばらく黙って見つめる。名前を考えよう。
救済ではない。
再生でもない。
彼はまだ歩き始めたばかりだ。
失ったものは戻らない。
悲しみだって消えない。
それでも、夜は、永遠には続かない。どんなに長い夜にも、朝は必ず訪れる。
「——『グレイフォードの夜明け』」
その名を口にすると、不思議なくらいしっくりと胸へ収まった。
あとは、この一杯を彼自身に未来へ進むために飲んでもらうだけだ。
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