紅茶の魔女
レイナード様から生葉を抽出してから三日後。
ティーハウスの前に、一台の黒い馬車が静かに停まった。
馭者が帽子を取り、恭しく一礼する。
「イザベル様。レイナード様がお迎えに上がるよう仰せつかっております」
「ありがとうございます」
私は店の扉に鍵をかけ、鈍い黄金色の小さな茶缶を胸に抱えた。
この中には、グレイフォードの夜明け、世界に一つしかない、一人のためだけのお茶が眠っている。
馭者が一歩近づき、茶缶へ手を差し伸べた。
「お預かりいたしましょうか」
私は小さく首を横に振る。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
このお茶だけは、自分の手で届けたかった。
茶葉を摘み、萎凋させ揉み込み発酵させ、乾燥させるまで、片時も手を離さず見守ってきた。
最後まで、この手で。
馭者はそれ以上は勧めず、穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました」
馬車の扉が開かれる。
私は茶缶を抱えたまま足を掛けようとして裾を踏みそうになる。
「あ……」
差し出された手に気付いた。
「どうぞ」
馭者の手だった。
「ありがとうございます」
その手を借りて馬車へ乗り込む。
柔らかな座席へ腰を下ろすと、茶缶を膝の上へそっと置いた。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと走り始める。
窓の外では、春の日差しが街並みをやさしく照らしていた。
揺れに合わせて茶缶が滑らないよう、私は両腕でそっと抱き寄せる。
香りはまだ閉じ込められたまま。
けれど、この缶の中には確かに、レイナード様の心の欠片が眠っている。
あとは、飲んでもらうだけ。
その一杯が、彼の止まった時間をもう一度動かしてくれることを願いながら、私は静かに茶缶へ視線を落とした。
馬車がゆっくりと速度を落とし、グレイフォード邸の正門をくぐる。
砂利を踏む音がやがて止まり、馭者が扉を開いた。
「到着いたしました」
差し込む春の陽光に目を細めながら外へ目を向けると、玄関前には一人の青年が立っていた。
レイナード様だった。
今日は騎士団の制服ではなく、濃紺の上着に淡い灰色のベストという私服姿だ。
肩の力が抜けたその装いはやはり新鮮で、思わず目を奪われる。
私に気づくと、彼は静かに階段を下りてきた。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
馬車を降りようとすると、彼が自然に右手を差し出す。
「失礼します」
私は茶缶を左腕に持ち直し、その手に自分の右手を重ねた。
温かい。
以前よりも、その温もりを素直に受け取れる自分がいた。
地面へ降り立つと、レイナード様の視線が茶缶へ向く。
「ずっと手に持ってきたのか」
「はい」
思わず笑みがこぼれる。
「最後まで自分で運びたかったんです」
彼は小さく目を細めた。
「あなたらしいな」
短い一言だった。
けれど、それだけで十分だった。
この人は分かってくれている。
お茶を淹れる者にとって、その最後のひと運びまでが仕事なのだと。
「さあ、中へ」
彼は私の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩き出す。
私は茶缶を胸に抱いたまま、その隣を歩いた。
重厚な扉が開かれる。
屋敷の中へ一歩足を踏み入れると、磨き上げられた床に春の光が長く伸びていた。
今日、この屋敷で『グレイフォードの夜明け』が淹れられる。
応接室へ案内されると、窓辺から午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。
低いテーブルにはすでに白磁のティーセットが整えられている。湯を保温するための小さなランプにはすでに火が灯されていた。
「ようこそイザベル様」
穏やかな声に顔は自然とほころぶ。エレノア様がソファーに座り、嬉しそうに微笑んでいた。
エレノア様は立ち上がり、優雅に一礼した。
「遠いところ来ていただき、ありがとうございます」
「とんでもない。お招きいただきありがとうございます」
私も一礼を返す。
以前会った時よりも、彼女の表情はずっと明るい。羽ばたきの灯火のおかげかもしれない。
エレノア様が私の腕に抱えられた茶缶へ目を向けた。
「完成されたのですね」
「はい」
そっと頷き、テーブルの上にそっと缶を置いた。
エレノア様が身を乗り出すようにして見つめた。
「これが、お兄様のお茶……」
その声は期待に満ちていた。
「では」
鈍い黄金色のに指をかける。
かすかな金属音と共にふたが開き、閉じ込められていた香りがふわりと部屋に広がった。
静かな森を思わせる、澄んだ香り、朝露を含んだ風のような爽やかさ。その奥に、穏やかなぬくもりを宿した甘い余韻が静かに寄り添っている。
「……まあ」
エレノア様が思わず息をのんだ。
レイナード様もまた、何も言わずその香りを堪能しているようだった。
茶さじで茶葉を一掬いすると、深い赤褐色の葉の中に金色の葉脈が午後の光を受けて静かに輝いていた。
「グレイフォードの夜明け、です」
そう名前を告げて、温めたポットへ茶葉を落とす。
さらりと小さな乾いた音がした。
湯を細く注ぐと、白い湯気がゆっくりと立ち昇った。
「少々お待ちください」
蓋を閉じる。
部屋を満たす静けさの中、三人は誰も口を開かなかった。
ただ、ポットの中で静かに目覚め、その身を開いていくグレイフォードの夜明けをそれぞれの想いで待っていた。
砂時計の砂が静かに落ちきる。
私はポットのふたを開けた。立ち昇る湯気は先ほどよりも深く幾重にも重なって、部屋いっぱいに広がっていく。
ふたを閉め、カップへゆっくりと注ぐ。
琥珀とも、紅玉とも違う、夕焼けを一滴と化したような、深く透き通った赤。
最後の一滴が落ちて液面が揺れる。私はカップをレイナード様の前へ差し出した。
「どうぞ。お飲みください」
レイナード様はしばらくカップを見つめていた。自分自身から生まれた葉が、こうして一杯の紅茶になっている。
不思議な気持ちのはずだ。あの時の私はその不思議さを堪能する前に飲み干してしまっていたから、想像することしかできない。
やがて彼はカップを持ち上げた。鼻先へ運び、一度だけ静かに香りを吸い込む。
緊張したような張り詰めた面持ちがわずかにほころぶ。
そしてゆっくりと口をつけた。
部屋は静まり返っていた。
カップがソーサーに戻される小さな音だけが、響く。
「どうでしょうか」
思わず尋ねると、レイナード様はすぐには答えなかった。
目を閉じたまま、小さく息を吐く。
「不思議だ。温かい」
静かな声でそれだけ言うと、もう一口、紅茶を口に含んだ。
私は何も言わず、その様子を見守った。隣ではエレノア様も兄の横顔をじっと見つめている。
「お兄様」
その声は震えていた。レイナード様がゆっくりと顔を向ける。
エレノア様は答えなかった。ただ、大きく目を見開いて胸を押さえていた。
やがてその瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「私、今、楽なんです」
大きく、でも静かにエレノア様は深呼吸した。
「苦しくない」
夏の海のような瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちて止まらない。
どうやら彼らは解放されたようだった。
私は良かった、と呟いて微笑んだ。
部屋には静かな沈黙が流れていた。誰も急いで口を開こうとはしない。窓の外から小鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。
エレノア様は目元をぬぐうと、少し照れたように笑った。
「こんなに息が楽なのは、何年ぶりでしょう」
その言葉に、レイナード様は静かに目を伏せた。
「すまなかった」
エレノア様は驚いたように兄を見つめる。
「お兄様?」
「本当はずっと、私が、お前を苦しめていたのだな」
エレノアは首を横に振る。
「私はそばにいながら、お兄様の苦しみについぞ気づくことができませんでした。お兄様は私のためにあんなに奔走してくれていたというのに、私は自分のことばかり見ていました」
一度言葉を切り、微笑んだ。
「だから謝らないでください。私を救ってくれたのも、お兄様じゃないですか」
レイナード様は何も答えなかった。
ただ、その表情はどこか安堵したように穏やかだった。
私はティーポットに目をやった。
「新しいブレンドを考えてきたんです」
二人がこちらを見る。
「今度はただの美味しいお茶、いかがですか」
レイナード様がふっと笑った。
「そうだな」
その笑みはどこか年相応の青年らしかった。
「お兄様がそんな風に笑われるなんて」
「珍しいか」
「ええ、何年ぶりでしょうか」
兄妹は顔を見合わせ、小さく笑いあった。その穏やかな光景を見つめながら、私は胸の奥でそっと息をついた。
エレノア様はティーカップを両手で包みながら、穏やかにほほ笑んだ。
「少し庭を歩いてこようかしら」
レイナード様が顔を上げる。
「一人で大丈夫か」
「はい」
エレノア様は嬉しそうに頷いた。
「今、とても歩きたい気分なんです」
その一言に、レイナード様も嬉しそうに頷く。
「あまり冷える前に戻ってくるんだぞ」
「お兄様ったら、お母様じゃないんだから」
立ち上がったエレノア様は私の前で足を止めた。
「イザベル様」
「はい」
「本当にありがとうございました」
その言葉にはこれまでの感謝がすべて込められていた。
私は静かに頭を左右に振った。
「とんでもない。私は紅茶の魔女です。私は、私の仕事をしたまでですよ」
エレノア様は少しだけ目を潤ませ、それでも晴れやかな笑顔で一礼すると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
応接室には私とレイナード様だけが残った。
窓の外から、若葉が風に揺れる音が聞こえる。テーブルの上ではまだ名前のない新作ブレンドが淡く湯気を立てていた。
レイナード様はカップを見つめたまま、ポツリと呟いた。
「終わったな」
「はい」
「ずっと、この日のことを考えていた」
彼はゆっくりと息を吐く。
「だが、いざ終わってみると、不思議なものだ」
「不思議、ですか」
「ああ」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「悪くない感覚だ」
帰り際、玄関まで見送ってくださったのは、レイナード様とエレノア様だった。
「本日は、本当にありがとうございました」
エレノア様が深々と頭を下げる。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
私は微笑み返した。
レイナード様は御者へ目を向ける。
「店まで頼む」
「かしこまりました」
私は馬車へ乗り込む。
今度は膝の上に抱える茶缶はない。
そのことに気づいて、小さく笑みがこぼれた。あのお茶は、もう役目を果たした。
私の仕事も終わったのだ。
馬車は静かに屋敷を後にする。
窓の外には、やわらかな春の景色が流れていく。畑では農夫が鍬を振るい、小川のほとりでは子どもたちが駆け回っていた。
どこにでもある、穏やかな一日。
その何気ない景色が、今日は少しだけ違って見える。
私は両手を膝の上で重ね、そっと息を吐いた。
長かった。本当に、長かった。
初めて彼が店を訪れた日のこと、オーラクレストの葉をあるだけ譲った日のこと、彼が忘れて行った帳面。
どれも昨日のことのように思い出せる。気づけば、自然と口元が緩んでいた。
馬車が見慣れた石畳へ入る。やがて、小さな木の看板が見えてきた。
『イザベルの忘却ティーハウス』
馬車がティーハウスの前で止まった頃には、街路の光石灯にはもう明かりが灯っていた。
石畳は夜露をまとい、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
馭者が扉を開けた。
「到着いたしました」
「ありがとうございました」
地面へ降り立ち、見慣れた店を見上げる。
木の扉も、窓ガラスも、庭のハーブも数日ぶりだというのに、どこか懐かしい。
私は扉に手を掛けた。カランコロン、と澄んだベルの音が鳴る。
誰もいない店は暗く、静かだった。木と茶葉の香りだけが残っている。
ランプに明かりを灯すと、柔らかな橙色の光が、棚に並ぶ茶缶やティーカップを一つずつ照らしていく。
「……ただいま」
誰もいないはずなのに、自然とその言葉がこぼれた。
数日間、営業を休んでいた店なのに、温かな空気が満ちているように感じる。それはまるで、このティーハウスがずっと私の帰りを待っていてくれたようだった。
カウンターへ手を添える。何度も磨き上げた木の感触は、手に馴染んで心地よい。
「終わったんだ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
レイナード様の執着は、お茶になった。
エレノア様の苦しみも消えた。
あの兄妹は、きっとこれから新しい時間を歩いていく。
私はゆっくりと店内を見渡した。
棚に並ぶ茶缶も、窓辺の鉢植えも、磨き上げられたティーカップも、どれも変わらない。
変わったのは、私だけなのかもしれない。
初めてレーテの雫を飲んだあの日から、私の力で誰かを救えると、信じて続けてきた。
そして今日、その答えを一つ受け取った。
自然と胸が温かくなる。
「お母さん」
視線は、壁に飾られた古い写真へ向いた。優しく笑う母は、何も答えない。
けれど、その笑顔はどこか誇らしげにも見えた。
「……できたよ」
それだけ告げると、胸の奥で張り詰めていた糸が緩んだ。
私はそっと窓を開けた。春の夜の柔らかな風が店内を吹き抜け、紅茶の香りを運んでいく。
明日は、営業を再開しよう。また、誰かがこの扉を開ける。
嬉しいことがあった人、悲しいことがあった人、胸に言葉にならない想いを抱えた人。
私はその人のために、お茶を淹れる。
それが、紅茶の魔女である私の仕事だから。
私は表へ出て、『臨時休業』と書いた白樹紙を破り取った。
『本日休業』と下から出てくる。
その文字を見つめ、くすりと笑った。
「明日は、『営業中』にしなくちゃ」
夜の闇に小さな笑い声が溶けていった。
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