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19/20

日常の再開

 数日ぶりに『イザベルの忘却ティーハウス』は通常営業を再開した。

 ドアプレートを営業中にひっくり返すと、待っていましたと言わんばかりに常連客が次々と訪れる。

 

「体調でも崩されたかと思いましたよ」

「新しい茶葉の仕込みをしていたんです」

 

 そう微笑めば、客は納得したように頷いた。

 もちろん、本当のことは話せない。あの数日は、私とグレイフォード家だけの秘密だ。

 いつものように湯を沸かし、茶葉を量り、香りを確かめる。

 カップを磨き、客と他愛ない話を交わし、お茶を淹れる。

 そんな変わらない一日が、今日はひどく愛おしかった。

 昼下がり、扉のベルが澄んだ音を鳴らす。

 顔を上げるまでもなく、その足音に覚えがあった。

 

「いらっしゃいませ」

「こんにちは、イザベル」

 

 レイナード様だった。

 今日は騎士団の制服ではなく、濃紺の上着に白いシャツという落ち着いた装いだった。

 

「いつもの席へどうぞ」

「ああ」

 

 まるで昨日も来ていたかのような自然さで、彼はカウンター席へ腰を下ろした。

 私は思わず小さく笑ってしまう。

 

「何か?」

「いえ」

 

 もう『レーテの雫』は必要ない。

 執着は薄れ、呪いも解けた。

 それなのに、この人はまた来ている。

 理由を尋ねるまでもない。

 

「本日のおすすめは?」

「もちろんございます」

 

 私は微笑みながら、茶葉の缶へ手を伸ばした。


 

 午後の光が少し傾き始めた頃、店内には穏やかな静けさが満ちていた。

 棚に並ぶ茶缶の金属が、ゆるやかな日差しを受けてかすかに光を返す。磨き上げた木のカウンターには、窓格子の影が細い線となって落ちていた。

 湯を沸かす音は、一定のリズムを刻みながら店の奥で小さく鳴っている。

 ポットの蓋を持ち上げると、まだ乾ききらない茶葉の香りがふわりと立ち上り、空気の中に静かに溶けていった。

 私は布巾でカップの縁を拭きながら、ふと入口の方へ視線をやる。

 カラン、とベルが鳴る前の一瞬、外の空気がわずかに変わるのが分かった。

 次の瞬間、扉が開く。

 春の光が、そのまま形を持って店内に入り込んできたようだった。

 

「いらっしゃいませ」

 

 反射的にそう声をかけながら顔を上げる。

 そこに立っていたのは、エレノア様だった。

 淡い色のドレスは、昼下がりの光を受けてごく薄く輝いている。布地の織り目が光を細かく分解し、歩くたびに柔らかく揺れていた。

 両腕には白い花弁の花が抱えられている。まだ朝露の名残を含んでいるのか、花弁の端がわずかに濡れたような艶を持っていた。

 店内に一歩踏み入れた瞬間、外の風が遅れて入り込み、ハーブ棚の葉をかすかに揺らす。

 

「こんにちは。イザベル様」

 

 声は落ち着いているのに、どこか弾むような軽さがあった。

 私は思わず手元の布巾を握り直す。

 

「エレノア様、お越しいただきありがとうございます」

 

 カップを並べた棚のガラス越しに、彼女の姿が反射する。

 その横顔は以前よりもずっと血色がよく、頬に自然な赤みが差していた。

 彼女が一歩進むたび、床板が小さく音を立てる。

 その音が妙に軽やかで、この店の空気の中に馴染んでいくのが分かった。

 

「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか?」

「ええ。兄は今日も騎士団です」

 

 どこかほっとしたような、それでいて少し悪戯っぽい笑顔だった。

 私は窓際の席へ案内し、季節の紅茶を用意する。

 

「今日は春摘みのエルダリッジティーをご用意できます」

「では、それをいただきます」

 

 湯を注ぐと、若葉を思わせる爽やかな香りが静かに立ち上った。

 

「本当に、いい香り……」

 

 エレノア様は目を細め、ゆっくりとカップを両手で包む。

 

「兄が毎週来る理由が分かる気がします。本人は隠しているつもりなのでしょうけれど」

 

 くすり、と笑われる。

 

「休日になると朝から妙に落ち着かないんです。時計を何度も見ては、本を開いて閉じて……昼前になると、何も言わずに家を出ていきます」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 

「騎士団長様にも、そんな一面がおありなんですね」

「ええ。昔の兄なら考えられません」

 

 その一言に、私は自然と手を止めた。

 エレノア様は紅茶を一口飲み、懐かしそうに微笑む。

 

「以前は、家にいてもずっと仕事のことばかり考えていました。休みの日でも机に向かって書類を読んで……。誰かが話しかけても上の空で……」

 

 静かな声だった。

 

「でも最近は違うんです」

 

 窓から差し込む午後の日差しが、カップの琥珀色をきらりと照らした。

 

「帰ってくると、お茶の話をするんですよ」

「お茶、ですか?」

「ええ。『今日は花の香りがした』『複雑だけど爽やかな香りだった』とか、『新しい茶葉はずいぶんフルーティーな香りだった』とか……」

 

 私は思わず目を丸くした。そんなことまで話してくださっていたのだろうか。

 

「兄は昔から味音痴ではありませんでしたけれど、香りの違いなんて口にする人ではありませんでした」

 

 エレノア様は少し照れたように笑う。

 

「だから私は思うんです」

 

 彼女はまっすぐ私を見つめた。

 

「兄は、お茶を飲みに来ているだけではないんでしょうね」

 

 その言葉に、胸が小さく跳ねる。

 私はティーポットへ視線を落とした。

 

「……どうでしょう」

 

 エレノア様小さく微笑むと、急に表情を険しくした。

 

「そうだ、聞いてください!」

 

 ころころと変わる表情が愛らしい。

 

「以前、イザベル様が兄に、私宛に可愛らしい茶缶に入った茶葉を持たせてくれたことがあったでしょう」

 

 湖畔のしじまとお渡しした安らぎの幻灯のことだろう。

 

「あれを兄が全部飲んでしまったのです!」

 

 私は眼を瞬いた。確かに、こんなに元気になっていらっしゃるなら慰めは今更不要かもしれない。それでも飲んでしまったというのは少々意外に感じた。余程気に入ったのだろうか。

 

「あれは羽ばたきの灯火の代わりになれば、と思ってお渡ししたのですが、不要と判断されたのかもしれません」

 

 そう言いながら思わず笑みがこぼれる。

 

「まあ、そうだったのですね。でも私のなのに酷いです」

 

 今度はしょんぼりした顔をする。

 

「今度お伺いするとき、お持ちしますよ」

 

 エレノア様はパッと顔を輝かせた。見開かれた瞳は凪いだ水面に日が差して無数の光の粒をキラキラと反射させているようだった。

 エレノア様はそれで気持ちが収まったようで、紅茶を飲みながら今度は店内を見回した。

 

「そういえば……」

 「はい?」

「兄が以前、食器店を何軒も回っていたことがあるんです。」

「レイナード様が?」

 

 想像できなくて思わず聞き返してしまう。

 

「ええ。『上品だけれど気取らない青いカップはないか』なんて、お店の方に真剣に相談していて」

 

 私は茶葉の缶を閉じる手を止めた。

 

「そういえば前に好みの色柄を聞かれました。てっきりエレノア様が選んでくださるものかと」

「そうなんです。その予定だったんです」

 

 エレノア様は少し肩をすくめる。

 

「なのに、『いや、私が責任持って探す』とだけ言って出て行きまして」

「まだ、お探しなんでしょうか?」

「どうなんでしょうね。でも今思えば、渡す勇気がないだけなのかもしれません」

「難しいリクエストだったかもしれないですね……」

「ふふ。本人はまだ何も気づいていないんです」

「え?」

「自分のことになると本当に鈍いんです」

 

 そう言って肩をすくめる姿は、どこにでもいる妹そのものだった。

 兄妹というのは、不思議なものだ。

 帰り際、エレノア様は持ってきた籠を私へ差し出した。

 

「庭で咲いたロミーナです。もしよろしければ、お店で飾ってください」

「ありがとうございます。大切にします」

 

 花を受け取ると、甘くやさしい香りがふわりと漂った。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私はふと入口へ目を向ける。

 次にあのベルが鳴るのは、いつだろう。

 そんなことを考えている自分に気づいて、小さく苦笑した。

 

「そうそう」

 

 エレノア様は思い出したように笑う。

 

「あのあと結局、カップは手に入れたそうですよ」

「そうなのですか」

「ええ。でも『まだ渡せない』と言って、大事に棚へしまっていました」

 

 エレノア様が帰ってから、店内は再び静けさを取り戻していた。

 扉のベルが鳴り止み、外の足音も遠ざかると、空気はまるで元の温度に戻ったかのように落ち着く。

 しかし、その静けさは先ほどまでとは少しだけ違っていた。

 受け取った花は同じ白でもそれぞれ表情が違って見えた。淡く爽やかな香りは店内に残る紅茶の香りともよく馴染んでいる。

 

「せっかくですもの」

 

 誰に言うでもなく呟き、二階の自室から花瓶を取ってきた。

 水に浸しながら茎を少しだけ斜めに切り揃える。父が昔、花も茶葉も、少し手を加えるだけで長持ちする、と笑っていたことを思い出し、ほのかに胸が温かくなった。

 一本ずつ向きを整えながら活けていくと、窓辺に置かれた花瓶の中で、まるで居場所を見つけたように落ち着いた。

 少し離れて眺める。

 午後の陽光がガラスを透かし、水面がきらりと揺れた。その光が広い壁に移り、揺らめいている。

 ティーハウスの景色にまた一つ彩りが増えた。店を訪れるお客様の目を楽しませてくれるだろう。

 私は花瓶の位置をほんの少しだけさらに窓側へ寄せ、満足して頷いた。

 

 

 窓から差し込む光が、昼の鋭さを失い始めている。

 棚に落ちる影はゆっくりと長く伸び、木目の隙間へと沈み込むように濃さを増していった。

 私はカップを拭く手を止め、一度だけ店内を見渡す。

 誰もいないはずの空間なのに、どこか満ちているような気配があった。

 さきほどまで残っていた会話の余韻が、まだ薄く壁際に漂っている。

 エレノア様の笑い声、あの何気ない一言が頭に引っかかって離れない。

 ——まだ渡せない。

 私は小さく息を吐き、拭き終えたカップを棚へ戻す。

 窓の外では、街路樹の葉が夕方の風に揺れていた。その動きはゆっくりで、まるで時間そのものが重くなっていくようだった。

 

 湯を沸かす音が途切れた瞬間、店の中から音が一つ減る。

 代わりに、外の世界の音が少しだけはっきりと聞こえ始めた。

 遠くを通る馬車の車輪が石畳を打つ規則的な響き。

 どこかの店の扉が閉まる音。

 それらが一つずつ薄れていくたびに、この場所だけが世界から切り離されていくような錯覚があった。

 私は無意識に入口へ目を向ける。

 まだベルは鳴っていない。

 それでも、なぜか次に鳴る音を待っている自分がいることに気づいて、少しだけ苦笑した。

 

「仕事中なのに」

 

 小さく呟いて、カップをもう一度拭き上げる。

 布が白磁をなぞる音だけが、静かな店内に残る。

 やがて、窓の外の光がひときわ傾いた。茜に近い色へと変わっていく。カウンターの影は長く伸び、床の端まで届いていた。そろそろ閉店の準備を始めてもいい時間だ。

 私は扉の取っ手へ手を伸ばす。その指先が、わずかに迷う。

 今日は来ないかもしれない。

 そう思った瞬間、店の静けさが一段深く沈んだ気がした。

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