イザベルの忘却ティーハウス
カランコロン、とベルが鳴った。
目の前に夕日に包まれて黄金色の輪郭をまとったレイナード様が現れた。
「やあ。まだやっているかな」
「もちろんです!」
声が弾んだのを自分でも感じた。恥ずかしくなり、お好きな席へどうぞ、とだけ言って、いそいそとカウンター裏に回った。
レイナード様はソファー席に座った。
いつものように今日のおすすめを注文する。
世間話を交えながら、いつものようにのんびりと時間が進んでいく。
でも、心のもやがじれったくて、つい話してしまった。
「そういえば今日はエレノア様がお見えになりました」
「エレノアが?」
珍しく声が裏返る。
「はい。」
「……何か、話していたか?」
「え?」
「いや、その……」
彼は咳払いを一つした。
「妹は少し、おしゃべりなところがあるので」
私は思わず笑ってしまった。確かに、弾むように次々と話が飛び出てくる方だ。
「ええ。レイナード様のお話をたくさんしてくださいましたよ」
彼の持っていたティーカップが、かすかに止まる。
「……どこまで?」
「どこまで、とは?」
「い、いや」
珍しく視線が泳いでいる。
「最近よく笑うようになったとか」
レイナード様は黙っている。
「紅茶の香りについて詳しく話してくれるようになったとか」
レイナード様は静かに額へ手を当てた。
「……エレノア」
小さく呟く。その姿がなんだかおかしくて、私は思わず吹き出した。
「あと、女性への贈り物を探していたとか」
虚空を見つめたまま、動かない。
「レイナード様?」
固まっていたレイナード様の口が動き出す。
「……それ以上は」
「はい?」
「忘れていただけると助かる。」
ものすごく真面目な顔で、耳だけが真っ赤になっていた。
その姿を見ると、なんとなく胸のすく思いがした。
それからというもの、レイナード様は頻繁にティーハウスへ足を運ぶようになった。
週に一度だったのが、やがて休日のたびに。
忙しかったのであろう週は顔を見せないこともあったが、その翌週には何事もなかったようにベルを鳴らして現れる。
「やあ」
「いらっしゃいませ」
そんな短い挨拶も、いつしか当たり前になっていた。
相談事はない。
ただ、お茶を飲み、穏やかな時間を過ごして帰っていく。
今日は春摘みの茶葉について話した。
別の日には、新しく焼き始めた菓子の感想を聞いた。
雨の日には、窓を叩く雨音を聞きながら、二人とも本を開いたまま一時間近くほとんど口を利かなかったこともある。
それでも、不思議と気まずさはなかった。静かな時間すら心地よかった。
時折、エレノア様も顔を見せてくださった。
以前の青白さはすっかり消え、いつも季節の花を抱えて来店される姿は、年相応の令嬢そのものだった。
「兄がいつもお世話になっています。」
そう微笑まれるたび、私は思わずレイナード様を見る。
「……何かな」
「いえ」
ある日は、騎士団で起きた些細な出来事を。
ある日は、街で見かけた珍しい品物を。
またある日は、次に植える茶樹の話を。
どれも急ぎではない。今日話さなければ困ることでもない。
けれど、レイナード様はその話をするためだけに、この店へやって来る。
私は湯を注ぎながら、ふと気づく。
この人はもう、美味しい紅茶を求めて来ているのではない。
私と過ごす時間を飲みに来ているのだと。
そう思うたび、胸の奥がくすぐったくなって、私は見つからないように小さく笑うのだった。
朝一番、窓を開けると、やわらかな風が店いっぱいに流れ込んだ。
春もすっかり深まり、店先の花々も色鮮やかに咲き始めている。
「よし」
エプロンの紐を結び直し、ドアプレートを『営業中』へ裏返した。
ほどなくして、ベルが軽やかに鳴る。
「おはよう、イザベルさん」
「おはようございます」
常連客が席に着き、今日も穏やかな一日が始まった。
午前中は近所の奥様方が談笑しながら紅茶を楽しみ、昼には商人たちが休憩に立ち寄る。
「今日は少し渋めのお茶を」
「ではこちらはいかがでしょう」
茶葉を量り、湯を注ぎ、香りを確かめる。
立ち上る湯気を見ているだけで、自然と心が落ち着いていく。
午後になると、旅人が珍しい茶葉を土産に買っていき、小さな女の子が焼き菓子を頬張って嬉しそうに笑った。
いつもと変わらない。だからこそ、幸せだった。
グレイフォードの夜明けを淹れた日から、私の日常は何も変わっていない。
いや、一つだけ変わったことがある。
時折、ふと入口へ目を向けてしまうようになった。
ベルが鳴るたび、ほんの少しだけ期待してしまう。
今日も来るだろうか、と。
そんな自分に気付いて、苦笑する。
「いけない、仕事中なのに」
閉店時間が近づき、最後の客を見送る。
店内を片付け、椅子を整え、カップを洗い終える頃には、窓の外は茜色から群青へと変わり始めていた。
今日は来なかったな。
そんなことを考えながら、入口の札へ手を伸ばす。
その時だった。
カランコロン、とベルが鳴る。
「申し訳ありません。本日は——」
閉店です、と続けようとして顔を上げる。
「……レイナード様」
扉の前に立っていたのは、見慣れた青年だった。
いつもの騎士服ではない。
深い藍色の上着をまとい、どこか緊張した面持ちでこちらを見ている。
「まだ間に合っただろうか」
「ええ、もちろん」
私は思わず笑みを浮かべる。
「どうぞ」
彼はカウンター席へ腰を下ろした。
いつもの席。
いつもの時間ではないけれど、いつもの場所だった。
私は一杯分だけ湯を沸かす。
「今日は何になさいますか?」
「君に任せる」
「またですか」
思わず笑うと、レイナード様も小さく笑った。
湯気とともに、穏やかな香りが店内へ広がる。
カップを置くと、彼は一口ゆっくりと口に運んだ。
「湖畔のしじまだな。やはり美味しい」
「ありがとうございます」
少しの沈黙が流れた。
私はカウンター越しに彼を見つめる。
「……そういえば」
「うん?」
「もう、用は済んだはずでは?」
冗談めかして笑う。
「呪いも解けましたし、もうこのティーハウスへ通う理由はありませんよね」
軽く否定してほしくて、笑って言ったつもりだった。
なのに、レイナード様は、切なそうに目を伏せた。
その表情に、胸が小さく痛む。
「……レイナード様?」
彼は静かに息を吸う。
そして、ゆっくり立ち上がると、カウンター裏の私の前まで歩み寄った。
何かを決意したように。もう迷わないと決めたように。
彼は私の前で、片膝をついた。
どこか捨てられた仔犬のような瞳で私を見上げている。
「レイナード様、どうしたのですか? そんなところで跪かないで、立って……」
私が手を差し伸べると、彼はその手を両手で恭しく包み込んだ。
けれど、立ち上がろうとはしない。それどころか、私の手の甲にそっと額を押し当てた。
「……あの日、私を暗闇から救い出してくれたのは、あなたでした」
彼の低い声が、静かな店内に響く。
「あの時、私にあなたは言ってくださいましたね。『私が支えるから』……と」
「ええ、覚えています。だから、あなたの穏やかな顔を見られて、私は本当に嬉しいです」
「いいえ、まだ折れそうなんです」
レイナード様は、ふっと顔を上げた。
「……え?」
「今でも、あなたの前だと私は酷く弱くなる。情けないことに、あなたの言葉一つで一日中浮き足立ってしまう……今この瞬間も、心臓が破裂しそうだ」
彼は私の手を自分の胸へと導いた。トクトクと服越しでもわかるほど、激しく、速く、彼の鼓動が掌に伝わってくる。
「ずるいのは百も承知です。ですが、あなたが『支える』と言ってくださったのだから、私は一生、あなたに甘えることに決めました」
レイナード様は私の手を握る力を、少しだけ強める。それは逃がさないという意思表示であり、同時に、縋るような懇願でもあった。
「私を救った責任を取ってください。あなたのいない未来など、私には歩めない。生涯を共にする伴侶として、私の隣で、私を支え続けてくれませんか」
そう言って彼は静かに目を伏せた。
私の返事を待つように。
私は堪えきれずに笑ってしまう。
「責任転嫁がひどいです」
「否定はしません」
彼も少しだけ笑った。
その瞬間、ようやく彼の肩から力が抜けたように見えた。
「ですが、私は本気です」
そして彼は私の手にそっと口づけた。
「ずるいです。そんな風に真っ直ぐ言われたら、私は受け止めるしかありません」
なんだかとても気恥ずかしくて、抗議のような形になってしまった。言い直そう。一つ、咳払いをする。
「……はい、喜んで。あなたの苦しいときも、甘えたいときも、全部私が引き受けます。だから、これからずっと一緒に生きていきましょう」
そう言って、私の手を取る彼の手を優しく包み込むように触れる。
張り詰めていた彼の肩から、すっと力が抜けた。彼はゆっくりと立ち上がる。私たちはしばらく黙って見つめ合っていた。しかし、レイナード様はもう耐えきれないというように、私を強く腕の中に引き寄せる。
彼は掠れた声で、ただ一言だけ呟く。
「……ありがとう」
しばらくそうして、世界に二人きりのような静寂のなかで抱き合ってから、レイナード様はゆっくりと体を離す。
私の肩に置かれた彼の手は、まだ微かに震えている。
彼は少し気恥ずかしそうに、でも真っ直ぐに私の目を見つめ直して、柔らかい微笑みを浮かべる。
彼が懐からあの帳面と万年筆を取り出す。
「あの日から、私はこの万年筆で自分を責める言葉ばかり書いていた」
そう言って帳面を開く。
「でも今は違う。これからは君への手紙を書くために使いたい」
パタンと音を立てて帳面を閉じた。
私は笑って自分の万年筆を差し出した。
「では交換しましょうか」
「え?」
「あなたは私の万年筆で私に手紙を書いてください。私はあなたの万年筆で返事を書きます」
レイナード様は驚いたように目を見開いた。
きっと私の万年筆は師匠から贈られた特別な品だからだろう。
「そんな大切なものを」
「大切だからですよ」
数週間後。ティーハウスは今日も開店と同時に賑わっていた。
「イザベルさん、いつものを」
「今日は新しい焼き菓子ありますか?」
「窓際、空いてる?」
店内には湯気と笑い声が満ちている。
茶葉を量り、湯を注ぎ、香りを確かめる。
一杯一杯に心を込めて紅茶を淹れる。
それは、あの日よりもずっと前から続いていた、私の日常。
そしてこれからも、変わらず続いていく日常だ。
カランコロンと扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
そう言って顔を上げると、初めてきたのだろう、見慣れない顔がキョロキョロとしていた。
『イザベルの忘却ティーハウス』へようこそ。
「お好きなお席へどうぞ」
湯が沸く音を背景に、茶葉が開く香り漂う。穏やかな午後の陽射しが店内を明るく染め上げる。
女性は窓際のソファー席に腰を下ろした。テーブルの端に置いてある手書きのメニュー表をじっと見つめている。
けれどしばらくして、困ったように顔を上げた。
私はカウンターから出て、ソファー席へ向かう。
「あの、紅茶にはあまり詳しくなくて」
私は思わず微笑む。
「でしたら、お好きな味や香りをうかがってもよろしいでしょうか。フルーツでも花でもなんでも構いません。抽象的でも大丈夫ですよ」
「甘い香りの物が好きです。でも渋味や酸味は少し苦手です」
その言葉を聞いて、棚へ視線を向ける。
花のような華やかな香りが広がるものがいいだろうか。それとも果実のような甘さを感じるものの方が良いだろうか。
少々お待ちください、と伝えてカウンター裏へ回る。
茶缶を一つ手に取り、女性のもとへ戻った。蓋をかぽっと開けると、ピピンの素朴な甘い香りが漂う。
「こちらはいかがでしょうか。柔らかな香りと口当たりのまろやかさで、とても飲みやすいブレンドです」
女性は缶の中を覗き込み、息を小さく漏らした。
「好きな香りだわ……」
「お気に召していただけそうでしたら、こちらの茶葉でお茶をご用意いたします」
「ぜひ、お願いします」
ポットを温め、ティースプーン一杯を静かに落としていく。湯を注ぎ、砂時計を返すと、砂がさらさらと落ち始めた。
その間にも優しい香りが少しずつ店内に広がっていく。
最初の一杯をカップに注ぎ、ポットとストレーナーと共に運ぶ。
女性は恐る恐る口をつけた。
やがて頬を緩め、目を閉じた。
しばしの沈黙の後、そっとカップをソーサーに戻して口を開いた。
「とてもおいしいです」
その一言が私にはその場で跳ねたくなるほど嬉しい。しかし努めて平静にありがとうございます、とだけ答えた。
「紅茶ってこんなに飲みやすいものだったんですね。次もまたリクエストを聞いてくれますか?」
ゆっくりと大きく頷く。
「もちろんです。次回もぜひ、その日のご気分やお好きなもの、お聞かせください」
女性は帰り際、もう一度店内をぐるりと見渡し、小さく会釈をして扉を開けた。
ドアベルの音が静かに響く。
誰かの幸せを願って淹れる一杯は、今日も変わらず温かい。
私は空になったティーポットを盆にのせ、小さく微笑んだ。
コンコンと、真鍮のドアノッカーが響かせる、小気味よい音が二回鳴る。郵便が来たようだ。
扉を開けると、そこには赤い上着を着た郵便配達員が、執事のように生真面目な顔で立っていた。
「イザベル様宛て、大切な書簡でございます」
手渡されたのは、切手が貼られた上質な封筒。
レイナード様からだ。
カウンター裏に戻り、ペーパーナイフを手に取った。
シーリングワックスの赤い蝋をパチンと割り、折りたたまれた手紙を開くと、そこにはスモーキーな香りと、万年筆の美しいインクの跡。
『今日は北部の街に来ている。とても寒く、早くあなたのお茶が飲みたいものだ。こちらでは……』
手紙を読んで私は微笑んだ。
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