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ハイムロック

 翌日、私はまだ朝霧の残る通りを足早に歩いていた。

 革製のサッチェルには発酵オーラクレストを入れた真鍮の茶缶、その淹れ方のメモ、ブレンドレシピの交換式帳面、そして湖畔のしじまを入れ凝った形の茶缶。

 

 乗合馬車の停留所は街のはずれにあった。

 石畳の上にはすでに数人が集まっている。

 領都へ運ぶ野菜を持つ農家の夫婦。荷物の多い行商人。親族を尋ねるらしい老婦人。

 皆、慣れた様子で馬車を待っていた。

 やがて蹄の音が小気味良いリズムで近づいて来た。

 朝の静けさを破りながら現れたのは、二頭立ての乗合馬車だった。

 馭者が手綱を引くと、馬が鼻息を鳴らし、車輪をきしませながら濃緑色の車体が止まった。

 

「領都ハイムロック行きだよ」

 

 馭者の声に乗客たちが動き始める。私も列に並び、運賃を支払った。

 乗り込んだ車内は思ったより暖かい。

 向かい合わせの長椅子が並び、窓には朝露が残っていた。

 サッチェルを体の前に持ってきて、腰を下ろす。

 大事なものばかり入っている。ぶつけて壊しては大変だ。

 やがて全員が乗り込むと扉が閉まり、馬車は再び動き始めた。

 

 ゴトリ。

 車輪が石畳の継ぎ目を越えたようだ。窓の外では見慣れた街並みがゆっくり後ろへ流れていく。

 街を出ると、道は緩やかな坂になる。

 エルダリッジ山脈が朝日を受けて姿を現した。

 広い斜面には幾筋もの茶畑だろうか、雪の白と地面の茶色が走っている。

 あの山のどこかで育った茶葉が、自分の店にも届いている。

 そう考えるだけで少しうれしかった。

 

 馬車はさらに進む。

 小川を渡り、峠道へ続く街道をたどる。

 乗客たちはそれぞれ静かに過ごしていた。

 本を読む者、居眠りをする者、同乗者と小声で何か話している者。

 サッチェルの上から凝った形の茶缶の輪郭をそっとなぞる。

 手土産があると良いかもしれないと思いついて、店にある最もおしゃれな缶に詰めてきたのだ。ご丁寧に、水色のリボンまで巻いて。

 緩みそうになる口角に気づいて、慌てて表情を引き締めた。

 今回は良い知らせと悪い知らせを伝えなければならないのだ。

 悪い知らせは彼の眉間に皺を刻むことになるだろう。こんな状況でもその表情を見てみたいと不謹慎にも思ってしまう。あの瞳は、どんな色に曇るのだろう。

 

 私はあわてて帳面を取り出した。余分に白紙を入れておいてよかった。

 彼の眼差し、そこに流れるまつげ、そして曇った水面。

 思いついたアイディアを忘れないうちに書き留めておきたい。

 万年筆のキャップを外して、走り書きでレシピを書き留める。煙のような香りが漂う。

 ペン先が陽光を反射してきらりと光った。

 向かいに座る老婦人が目を丸くしたようだが、その反応には慣れている。

 慣れているけれど、少しだけ誇らしい。

 再びペン先を紙へ滑らせる。さらりさらりと進む小さな音が心地よい。何度使ってもこの書き心地に飽きは来ない。

 

 やがて遠くに城壁が見えてきた。

 日はかなり高い位置に上っている。まぶしい光に照らされた灰色の城壁。

 その向こうには屋根が幾重にも重なっている。

 私は万年筆にキャップをかぶせ、帳面を閉じた。サッチェルにそっとしまう。

 胸の奥が少しだけ高鳴る。

 まるで遠足へ向かう子供のようだと思い、誰にも見られていないことを確認してから、そっと笑った。


 

 乗合馬車が石畳の上で大きく揺れて止まった。

 

「ハイムロックだよ」

 

 馭者の張り上げた声に、乗客たちが次々と荷物を抱えて降りていく。

 私も膝の上に載せていたサッチェルを持ったまま立ち上がり、腰横に回した。

 馬車のステップを下りた瞬間、冷たい冬の風が頬をなでる。

 

「わあ……!」

 

 思わず声が漏れた。

 スプリングベイルも決して小さな街ではないけれど、目の前に広がる光景はまるで違っていた。

 幅の広い石畳の大通り。

 何台もの馬車が行き交い、荷車を引く商人たちの声が響く。

 立派な石造りの建物が並び、その先には小高い丘の上に立つ領主間の尖塔まで見えた。

 これがハイムロック。

 レイナード様が日々働き、妹君と暮らす街。

 ……いや、違う。私は観光に来たわけではない。

 一刻も早く、発酵オーラクレストを届け、在庫がこれだけしかないことを伝えなければならない。

 

「ええと……騎士団の詰め所は」

 

 周囲を見渡す。領都などめったに来ないので、土地勘が全くない。

 ちょうど近くに果物を売る露店が見えたので、店番をしていた女性に声をかけた。

 

「ああ、詰め所かい?」

 

 女性は慣れた様子で通りの先を指さした。

 

「この大通りをまっすぐ行って、噴水のある広場を左だよ。でっかい旗が立っているからすぐにわかるさ」

「ありがとうございます」

 

 礼を言って歩き出した。石畳を踏みしめながら進むうちに、人通りはますます増えていった。

 様々な身なりの老若男女が皆、忙しそうに行き交っている。

 やがて、女性の教えてくれた噴水が見えてきた。中央には水の精霊を模したらしい石像が立ち、その周囲を人々が行き交っている。

 教えてもらった通り、左に曲がると、確かにすぐに見つかった。

 灰色の石で作られた堂々たる建物。

 正面には伯爵家の紋章旗と、騎士団の旗が風にはためいている。

 木剣が打ち合わされる音だろうか、硬く乾いた音が怒号に交じって響いている。

 ここで、間違いない。

 足を止めた。喉が急に乾いてくる。

 ここまでは勢いで来たようなものだ。手紙より直接赴く方が早い、と思い立って表に臨時休業の札を下げてやってきた。

 けれど、ここからどうすれば良いのだろうか。

 約束もなしに尋ねてきて、会えるのだろうか。

 彼は団長なのだ。

 忙しいに決まっている。

 もしかしたら迷惑ではないだろうか。

 

 「でも、今更帰るわけにはいかないよね」

 

 サッチェルをそっとなでる。ここで尻込みしている場合じゃない。

 私は静かに深呼吸をした。

 そして、正門に向かって歩き出す。

 門の脇に立っていた衛兵がこちらを見る。

 

 「魔女か。騎士団本部に何の用だ?」

 

 髪色を認めたのだろう、低い声に思わず背筋が伸びる。

 

「えっと……」

 

 生唾をごくりと飲み込む。

 

「スプリングベイルの紅茶の魔女、イザベルと申します。グレイフォード団長に急ぎ、お伝えしたいことがあって参りました」

 

 門の脇に立つ衛兵が眉をひそめる。

 

「団長に?」

「はい」

「約束はあるのか?」

「……ありません」


 正直に答えると、衛兵二人は顔を見合わせた。

 やっぱり駄目だろうか。

 勢いで来てしまったけれど、手紙を出すべきだったかもしれない。

 そんな後悔が胸をよぎった時だった。

 年嵩の衛兵がふと首を傾げた。

 

「待てよ」

 

 隣の衛兵を見る。

 

「スプリングベイルって、あれじゃないか?」

「どれです?」

 

 年嵩の衛兵はちらりとわたしを見やった。

 

「ほら、団長が時々話してる紅茶店の……」

 

 私は瞬きをした。

 

「お前さん、もしかして中央広場の近くにある店か?」

「そ、そうですけど……」

 

 衛兵の表情が納得に変わった。若い衛兵も思い出したように頷く。

 

「ああ、あの店」

「知っているんですか?」

「団長が領都へ戻る前に寄ることがあるらしい」

 

 顔が熱くなるのを感じた。

 落ち着こう。きっと美味しい紅茶の店だからだ。それ以上の意味なんて、ない。

 

「急ぎの用件と言ったな」

 

 年嵩の衛兵が言った。

 

「内容は?」

「団長の妹君に関わることです」

 

 それだけ告げる。

 呪いの話を門前で大声でするわけにはいかない。

 年嵩の衛兵はしばらく私を見つめ、それから小さく頷いた。

 

「分かった。少し待っていろ」

 

 そう言うと建物の中へ消えていった。

 残された私は門の前で手を握りしめる。断られたらどうしよう。忙しくて会えないと言われたら。

 いや、そうなったら手紙でも書いてそれを預けよう。

 そう考えていると、訓練場の方から掛け声が聞こえてきた。甲冑が擦れる音。

 郊外の小さなティーハウスとはまるで違う世界だ。

 少しだけ落ち着かない気持ちで待っていると、やがて建物の扉が開いた。

 先ほどの衛兵が戻ってくる。

 その後ろから見慣れた長身の姿が現れた。

 黒い騎士服。肩に掛かる濃い色のマント。冬の陽射しを受けて艶めく黒い髪。

 レイナード様だった。

 目が合う。

 

「店主殿、こんなところまでどうした?」

 

 少しだけ信じられないものを見るような響きを帯びていた。

 私は慌てて頭を下げる。

 

「きゅ、急に押しかけてしまって申し訳ありません!」

「いや」

 

 レイナード様はすぐに首を振った。

 

「どうした。何かあったのか」

 

 その声は真剣だった。

 普段ティーハウスで向けられる穏やかな表情ではない。

 サッチェルの肩紐を握りしめる。

 

「祖母から返事が届いたんです」

「返事?」

「オーラクレストについてです」

 

 レイナード様は鋭く目を見開いた。

 

「……見つかったのか」

「はい……でも……」

 

 私は弱々しく頷いた。

 

「ここでは話せないな」

 

 そう言うとレイナード様は門の脇へ一歩寄る。

 自然な仕草で通路を空けた。

 

「中へ」

 

 低く落ち着いた声だった。

 

「詳しく聞かせてくれ」

 

 その言葉に、私は胸の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩むのを感じた。

 レイナード様に促されて分厚い木の扉をくぐると、外の冷気が嘘のように和らぐ。

 広い玄関ホールには石造りの床が続き、壁には剣や盾、そしてフェアモント伯爵家の紋章旗が掲げられていた。

 思っていたよりずっと人が多い。

 鎧姿の騎士が足早に廊下を横切り、書類の束を抱えた文官らしき女性が階段を駆け上がっていく。

 

「第三小隊は北門へ!」

「報告書は夕刻までに提出しろ!」

 

 あちこちから声が飛び交う。

 私は思わず目を丸くした。

 騎士団というから、もっと剣を振り回している人ばかりかと思っていた。

 もちろん騎士もいる。

 けれど同じくらい、帳簿や地図を抱えた人々が忙しそうに働いていた。

 騎士団というより、一つの大きな行政組織そのものだった。

 

「どうした?」

 

 歩きながらレイナード様が振り返る。

 

「いえ……思っていたのと少し違って」

「違う?」

「もっと、皆さん一日中剣の訓練をしているのかと」

 

 レイナード様の口元がわずかに緩んだ。

 

「それで済めば楽なんだがな」

 

 通り過ぎた若い騎士がこちらに気づき、ぎょっと目を見開く。

 

「だ、団長!」

 

 慌てて背筋を伸ばした。

 

「お、お疲れ様です!」

「ああ」

 

 短い返事。

 若い騎士は私を見てさらに驚いた顔をしたが、何も言わず、慌てて去っていった。

 その背中を見送りながら、私は何となく察した。

 きっとレイナード様が女性を連れて歩いているのが珍しいのだ。

 そうであれば良いな、と思う。

 私達は奥の石造りの階段を上った。

 一階の喧騒が遠ざかり、代わりに低い話し声や紙をめくる音が聞こえてくる。

 壁には近隣の地図や巡回経路らしき図面が掛けられていた。

 やがて廊下の突き当たりでレイナード様が立ち止まる。

 重厚な木の扉。

 真鍮の銘板には簡潔にこう刻まれていた。

 『騎士団長室』

 ティーハウスでお茶を飲んでいる姿ばかり見ていたから忘れそうになるが、フェアモント領の治安を預かる最高責任者なのだ。

 

「入ってくれ」

 

 レイナード様は扉を開いた。

 私が部屋の中へ足を踏み入れると、レイナード様が後ろで扉を閉める。

 がちゃん、と重い音が響いた途端、先ほどまで廊下から聞こえていた人の話し声や足音が遠ざかった。

 急に静かになる。

 その静けさに、なぜだか少しだけ緊張した。

 中は意外なほど質素だった。

 大きな執務机。壁一面の本棚。窓際には領内の地図が広げられた机。

 そして机の上には、今にも崩れそうなほど積み上がった書類の山。

 私は思わず呟いた。

 

「……大変そうですね」

 

 レイナード様は机を見た。

 それから珍しく疲れたような顔をして言う。

 

「騎士団長たるもの、肩が凝る」

 

 緊張を解きほぐそうとしてくれたのだろうか。聞き慣れた言葉にふっと肩の力が抜けた。

 部屋の半分は執務空間ではなく、来客用なのだろう。

 暖炉の前には深い緑色のソファとローテーブルが置かれていた。

 きっと偉い人たちとの打ち合わせに使うのだろう。

 私が所在なさげに立ち尽くしていると、レイナード様がソファをを示した。

 

「座ってくれ」

「ありがとうございます」

 

 ソファはふかふかで、そのまま沈み込んでしまいそうだった。

 向かいのソファにレイナード様も腰を下ろした。


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