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湖畔のしじま

 もう外は暗い。がらんとした店内に光石灯を作動させる。照明といえばもっぱら光石灯が使われているが、昼間と同じような明るさを得るにはかなり高品質な石が必要で、当然それらは高価だ。

 そのため、ここではいくつかランプを置くことで、ロマンチックだと言い換えられる程度の明るさを保っていた。

 カウンターに二つ置いた球形のランプ、窓の額縁に置いた花柄のランプシェード。そしてカウンター内側の銀細工でできたランプ。

 

 カラン、コロン。

 予定の十九時よりもずいぶん早い、十七時五十分。ドアベルを鳴らして入ってきたのは、やはりレイナード様だった。彼は店内に誰もいないことを確認すると、ホッとしたように肩の力を抜き、カウンターの端の席へと腰掛けた。

 

「早くなってすまない。任務が予定より早く片付いてね」

「いえ、大丈夫ですよ。ちょうど片付けをしていたところですから」

 

 私は彼から預かっていた小さなブリキ缶――残りのオーラクレストをすべて詰めたもの――をカウンターに置いた。 そして、一週間ずっと胸に引っかかっていた疑問を、思い切ってぶつけてみることにした。

 

「あの……レイナード様。オーラクレストをそんなに大量に、一体何にお使いなのですか? 先週、お湯で淹れても悪い効果はないと言いましたが、オーラクレストは本来、ただの嗜好品ですよ」

 

 レイナード様はブリキ缶を見つめ、少しの間、躊躇するように黙り込んでいた。だが、誰もいない店内の静寂が彼の心を解きほぐしたのか、ポツリポツリと重い口を開いた。

 

「……実は、私の妹が、出所不明の奇妙な呪いに掛かっているんだ」

「呪い、ですか」

「ああ。教会の下す解呪の奇跡も、高名な医師が処方した解呪の効能を持つと言われる薬草も、いくつか試したがどれも効果がなかった。日に日に衰弱していく妹を見て、半分諦めかけていたんだが……先週、君から分けてもらったあのオーラクレストを自宅で淹れて飲ませてみたんだ。そうしたら、この一週間、妹の体調が劇的に良くてね。顔色も戻り、久しぶりに笑顔を見せてくれた」

 

 彼は縋るような目で私を見た。

 

「だから、どうしてもあのハーブがもっと必要なんだ」

 

 オーラクレストに、解呪の効能なんてあったかしら。

 私は首を傾げた。薬草の魔女だった祖母の言葉を思い出す。

 ――オーラクレストは霧を割る光のハーブさ。隠されたものを白日の下に晒しちまう。

 ……なるほど、霧を払うように、体内にこびりついた悪意の呪いを一時的に押し流すような作用があったのかもしれない。

 

「可能な限り、すべて譲ってくれないだろうか」

 

 真剣な眼差しで乞われ、私は小さく頷いた。

 

「もちろんです。元々、私もバザールで見かけた行商人から、コレクションの一部のような、半分趣味の気分で購入したものですから。ここにあるのが、私の手元にある残りのすべてです」

 

「感謝する……! 料金は、朝預けた分で足りるだろうか」

「ええ、ちょうどこれくらいです。きっちりいただきますね」

 

 私は朝の金貨をそのまま受け取った。

 

「それで……その、これからのことなのだが」

 

 レイナード様が少し言いづらそうに眉を下げた。

 

「今後、このオーラクレストを定期的に君の店から仕入れることは可能だろうか。もちろん、費用はいくらでも払う」

 

 私は困ったように眉を八の字にした。

 

「残念ですが、それは難しいと思います。先ほども言った通り、あれはたまたま立ち寄った行商人から買い叩いたもので、私に確実な仕入れルートがあるわけではないんです」

「そうか……」

 

 目に見えて落胆する彼に、私は一つ、提案をしてみた。

 

「ですが、第一騎士団長様や領主様の力、その情報網を使えば山奥のどこに自生しているか、その行商人を突き止めることだってできるのでは?」

 

 レイナード様はハッとしたように目を見張った。

 

「……確かに、その通りだな。騎士団の偵察部隊や領地全土の流通を洗えば、見つけ出せるかもしれない。もし、そのオーラクレストが生葉の状態で手に入ったら……。店主殿、あなたの手で、妹が飲めるような茶葉に処理をしてもらうことはできるだろうか」

「ええ、喜んで。乾燥や発酵、お茶の拵えなら私の本領ですから。いつでも持ってきてください」

 

 私がにこりと笑うと、彼は本当に嬉しそうに、少年のような笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。必ず見つけ出して持ってくる」

「ところで、何かお忘れじゃありませんか?」

 

 彼にとってオーラクレストが大切なのはよくわかったが、万年筆とて大切なはずだ。

 

「そうだった、これ、ありがとう」

 

 そう言って懐から小さなブリキ缶を取り出した。

 

「え?」

「あれ、違ったか?」

 

 レイナード様が小さく首を傾げたその拍子に、自然と視線が絡み合った。

 その瞳をまじまじと覗き込んで、美しさに息を呑む。

 混じり気のない、深く澄み切った青。それはまるで、遠くから眺める湖面のような透明感を湛えている。

 そして何より目を引いたのは、その瞳を縁取る黒い睫毛だ。

 長くて、濃くて、思わず触れてみたくなるほど密度がある。瞬きをするたびに、ぼんやりとした光石灯に照らされたその黒い影が青い瞳に優しく落ちては消え、また浮かび上がる。

 

「……綺麗な景色」

 

 つい、そんな言葉がこぼれそうになるのを飲み込んだ。

 相手もまた、こちらの顔をじっと見つめている。

 

「あ!」

 

 彼が小さく声を上げる。その素っ頓狂な声色に、張り詰めていた空気の糸がふわりと緩んだ。

 ただ見つめ合っていただけの、なんでもない数秒間。けれど、その瞳の美しさに心惹かれるには十分すぎるほどの時間だった。

 

「もしかして万年筆はここに!?」

 

 この時間が終わってしまうのは少し惜しかったが、視線を外し、胸ポケットから二本の万年筆を引き抜く。


 「そうです、ジャーン!」

 

 戯けてそう言いながら、カウンターに二本の万年筆を置いた。

 レイナード様はしげしげと二本を見つめる。

 

「よく似ているな。でも右が私のだろう」

 

 そう言って軸の太い方の万年筆を持ち上げた。

 

「ふふ、正解です。左のは私のなんです」

 

 一度頷いて、今度はきちんとポケットにしまった。

 

「ほぅ。ミス……いや、店主殿は道具の魔女と知り合いなのか?」

 

 やはりレイナード様の万年筆も師匠の作った逸品だったようだ。師匠の、優しい笑顔が蘇る。

 

「ええ、魔法の先生でした」

「やはり店主殿は魔女だったか」

 

 落ち着いた声音に、私の方が驚いてしまう。この街では魔女だと言っても、初めて会った、というような扱いで珍しがられるのに。毎度こそばゆいと思っていたが、こんな落ち着いた反応もそれはそれで居心地が悪い。

 

「バレていましたか、そうなんです。紅茶の魔女を名乗っています」

「今まで会った魔女も皆、髪色が独特だったからな。そうか、紅茶の魔女か」

 

 穏やかな良い屋号だ、と言いながらレイナード様は頷いている。

 私は少し、自分の髪が恥ずかしくなった。

 黒曜石のような艶のある綺麗な黒髪。一方、私はまだらに鳶色が混ざっていて、煤でも被ったみたいだ。

 

「恥ずかしいですね。綺麗な髪色じゃないから……」

 

 思わずそう言ってしまった。なんだか、彼には私の気持ちを知っていてほしかった。

 

「恥じることはない。力を使う代償に色が変わってしまうと聞いた。それだけたくさんの人に美味しい紅茶を振る舞ってきたと言うことだ、誇ると良い」

 

 ――代償。

 その言葉は、まるで熱を持った羽のように、私の胸の奥に触れた。

 私はさっきこの色を恥ずかしく思ったけれど、彼にとっては勲章なのか。

 熱が駆け上がるのが自分でも分かった。

 あわてて視線を落としたけれど、高鳴る鼓動までは隠せない。頬の熱さを彼に気づかれないようにと願いながら、カウンターにポツンと置きっぱなしになっていた万年筆を胸ポケットに差し込んだ。

 

「魔女殿の美味しいお茶を、私もいただいて良いかな」

「ぜひ!」

 

 お気に入りのカップとティーポットを棚から下ろす。

 ベースはルナドロップ。メルティスノウを少々、レミニモルンも入れよう。

 ルナドロップの静かな渋みと、早摘みドライレミニモルンの甘酸っぱさ、そしてメルティスノウの清涼感で後味をさっぱりさせる。葉と硬い果肉が磁器に触れる、かすかな音がする。

 お湯を注ぐと、茶葉がゆっくりと浮き上がり、ティーポットの中でほどけ始めた。蓋を閉じると、内部で葉が静かに踊る気配だけが残った。

 

 初めてブレンドする時は、抽出魔法を使わない。加減がわからないからだ。

 数分待つ間に、ティーカップを温めていた魔法を解除した。温められた磁器から、ほのかな熱が指先へ伝わる。

 ティーポットの蓋を開けて、中の水色を確かめる。深く澄んだ琥珀色。銀色のストレーナーをカップの上にそっと載せ、その細かな網目が中心に来るよう位置を整えた。

 ティーポットの取っ手を握る。

 蓋を押さえてゆっくりと傾けると、最初の一筋がストレーナーへ落ちた。透き通った紅茶が網目をくぐり抜け、温められたカップの底へ静かに溜まっていく。開き切った茶葉がティーポットの中から流れ出し、ストレーナーに受け止められる。

 

 さらさら、と細い音。

 立ちのぼる湯気に、湿った木漏れ日のような穏やかな土の香りと、熟しきれなかった果実の甘く切ない香りが混じる。ストレーナーの中には艶やかな茶葉だけが残り、カップには澄んだハーブティーが満たされている。

 湯気の向こうで、レイナード様は静かに微笑んでいた。

 

「どうぞ」

 

 カップとティーポットをそっとレイナード様の前に置く。

 

「複雑な香りだね」

 

 目を閉じて深呼吸しているようだった。

 なんだかその様子が大仰に感じられて、思わず頬が緩む。

 ティーカップを持ち上げる指先。それからゆっくりと口をつける仕草。

 様子を伺いながら、手元のクロスを折り直した。

 

 紅茶は、淹れた瞬間よりも飲まれる瞬間の方が気になる。

 茶葉の量は適切だったか。抽出時間は長すぎなかったか。湯温は落ちていなかったか。

 そんなことを考えながら、磨き上げたカウンターを軽く撫でる。

 いつもなら、新メニューはきちんと自分で味見してから出す。それがプロの責任だと思っている。

 でも今日は違った。あの、湖面のきらめきとそこに伸びる艶やかな黒い影を今すぐにでも表現したいと思ってしまった。インスピレーションを、逃したくなかった。

 

 レイナード様は二口目を飲んだ。今度は少しだけ時間をかけている。

 その様子を見て、胸の奥で小さく息をついた。

 悪くなかったらしい。

 満足した時、人は案外わかりやすい。大げさに褒めたりはしなくても、カップを置く速度や視線の向け方に現れる。

 それ以上、見ていたことを悟られないよう私はカウンターの内側に置いてある小さな木箱を開いた。

 

 中から取り出したのは、銀のティーキャディースプーン。茶葉を量るための小さな匙だ。

 長年使っているものだが、手入れは欠かさない。使い込まれた銀は角がやわらかく丸まり、柄には細かな装飾が残っている。

 柔らかな布を指に巻き、匙の窪みをそっと磨いた。布を動かす音はほとんどしない。

 時折、視線を上げる。

 レイナード様は静かにカップを傾けていて、急ぐ様子もない。

 それを確かめると、再び手元へ目を落とした。柄の部分を磨く。蔓草を模した細い彫刻の溝に布を押し込み、銀のくすみを丁寧に拭い取る。

 

 こうした作業は嫌いではなかった。

 茶葉を選ぶことも、ティーポットを温めることも、スプーンを磨くことも、どれも誰かの目を引く仕事ではない。

 けれど、それらが積み重なって一杯のお茶になる。

 私は匙を銀細工のランプにかざした。

 磨かれた銀が窓の明るさを映し込み、小さな鏡のように輝く。

 満足して布を畳む。

 そのとき、カップがソーサーへ戻される控えめな音が聞こえた。

 顔を上げると、レイナード様は二杯目をカップに注いでいる。

 私は磨き終えたティーキャディースプーンをそっと木箱へ戻す。

 銀同士が触れ合わないよう位置を整え、蓋を閉じた。

 

 静かだった。

 時計の秒針だけが規則正しく時を刻み、窓の外では冬の厳しい風が葉を揺らしている。

 二人きりであることを急に意識してしまった。

 少し、胸がざわつく。

 それを誤魔化すように私はレイナード様に声を掛けた。

 

「お味はいかがですか?」

 

 レイナード様は片眉をあげて、カップをソーサーに置いた。磁器同士が触れ合う音はほとんどしない。

 

「とてもおいしいよ、新鮮な味で……どう言えば良いかな、後味がさっぱりしていて好みだ」

 

 不器用な感想にまた、頬が緩む。

 

「そうですか、良かったです」

「このブレンドに名前はついているのかい?」

 

 レイナード様はゴソゴソと懐から帳面、そしてポケットから万年筆を取り出した。メモ魔なのかもしれない。


 「実はレイナード様と話していて、インスピレーションが湧いて来た完全新作なんです。名前、どうしようかな……」

 

 あなたの瞳を表現しました、とは言えず、曖昧に、でもモデルはあなただとちゃっかり伝えた。

 

「ああ、そうなんだ。では私も考えてみようかな。雨上がりのような香りがするから……雨の……いや水溜まりの……いや霧……?」

 

 後半はぶつぶつと独り言のようだった。その、真剣にブレンド名を考えてくれる姿に親近感を覚える。

 

「ふふ」

 

 思わず声が漏れてしまった。

 

「変だったか?」

 

 レイナード様がは慌てているようだった。

 笑いを堪えながら、答える。

 

「いえ、なんだか第一騎士団長様が可愛らしく見えて……」

 

 失礼だったかもしれない。でもそんな失礼で目の前の、懸命に紅茶の名前を考えている彼が怒るようには思えなかった。

 

「可愛らしい?」

 

 彼は眉を顰めて、聞き慣れない言葉に困惑しているようだった。

 

「こんな男に使う言葉ではないのでは?」

「そうでしょうか?」

「そうだ」

 

 即答したのに、視線はティーカップに向けられている。照れているのだろうか。瞼にほとんど隠された水面が脳裏をよぎる。

 

「湖畔のしじま」

 

 ポツリと呟いた。声に出すつもりはなかったのだけれど、どうやら漏れてしまったようだ。今日は随分と気が緩む。

 

「詩的な響きだ。良いと思う」

 

 そう言いながら、レイナード様はカップを持ち上げた。

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