オーラクレスト
カランコロン。
澄んだドアベルの音が、まだ誰もいない店内に小気味よく響き渡った。
城の扉が開く。記念すべき最初のお客様は……。
「……おはよう、イザベル。本当に、あの幽霊屋敷を開店させちまったんだな」
照れくさそうに頭を掻きながら入ってきたのは、半年の間私を雇ってくれた、あの酒場のマスターだった。
大きな体を縮こまらせるようにしてカウンターの真ん中の席に腰掛け、物珍しそうにキョロキョロとあたりを見回している。
「あのごつかったレンガが、こんなに落ち着いた色になるなんてなぁ。床もピカピカじゃねえか。いや、大したもんだ」
「ふふ、ありがとうございます、マスター。はい、開店記念の第一号様には、うちの特製ブレンドを」
私は棚から、バザールでコツコツ買い集めたお気に入りのカップを一つ選び、温めておいたお湯を注いだ。さらさらと音を立てて陶器のティーポットの中で躍るのは、細長く乾燥させたルナグラスの葉と、細かく刻んだモルンの干し果皮だ。透明だったお湯が、またたく間に夕焼けを少し煮詰めたような、深い茜色へと染まっていく。
ルナグラスは、お湯を含むと夜霧のような少し煙たい、独特な香りを放つ。けれど、そこにモルンの濃厚な甘酸っぱさが重なることで、香りに不思議な温かみが生まれる。一口目はハーブ特有のすっとした清涼感が鼻に抜けて、そのあと舌の上には、まるで上質な蜂蜜を舐めたときのような、まろやかなコクがじんわりと残る。魔法の力は一切入っていないけれど、肉体労働で凝り固まった体を芯から緩めてくれる、私の自信作。
「どうぞ。お疲れがとれるお茶です」
「お、ありがてえ……。美味いな。お前の淹れるお茶は、五臓六腑に染み渡るよ」
マスターが熱いお茶を嬉しそうに啜っていると、再びカランコロンと軽やかなベルが鳴った。
「あら、本当に開いてるわ!」
「イザベルちゃん、おめでとう!」
入ってきたのは、日曜日ごとにバザールで私のお茶を買いに来てくれていたご婦人たちだ。手にはそれぞれ、お気に入りのマイカップを大切そうに抱えている。
「いらっしゃいませ! ありがとうございます。お席が少なくてごめんなさい、お天気が良いので、お庭の特等席もおすすめですよ」
「まあ、あのおどろおどろしかったお庭がこんなに素敵に? じゃあ、そこでいただくわ。今日はね、このお気に入りの薔薇柄のカップを持ってきたのよ」
「素敵ですね、マダム。そのカップにぴったりの、華やかなお茶をお淹れしますね」
私は彼女たちのために、今度はローゼリアの薄い花弁をガラスのティーポットに躍らせた。
乾燥させたローゼリアの花弁は、お湯を注いだ瞬間に、初夏の雨上がりの庭を思わせる瑞々しくも少し青臭い、甘やかな香りを一気に弾けさせる。水色は、ほんのりと金色がかった淡い若草色。口に含んだ瞬間に心地よい華やかな渋みが広がり、後味は驚くほどすっきりとキレが良い。お庭の風を感じながら、お喋りを楽しんで喉を潤すには、これ以上ないお茶だ。
そこからは、驚くほどあっという間の時間だった。
一人でカウンターの中を立ち回り、お湯を沸かし、茶葉を量り、テイクアウトのマイカップにお茶を注いでいく。
窓の外を見れば、お庭の白いガーデンチェアに腰掛けた常連さんたちが、風に揺れる青葉の香りに包まれながら、楽しそうにお喋りに花を咲かせている。
店内は静かで穏やか、お庭は賑やかな憩いの場。私が思い描いていた通りの、最高に愛おしい空間がそこにあった。
お昼を過ぎ、少し客足が落ち着いた頃。
ふう、と小さく息を吐いて、カウンターの木肌をリネンで拭いていた、その時だった。
カラン、コロン。
本日、何度目かになるドアベルの音。
入ってきた人物の姿を見た瞬間、それまで和やかだった店内の空気が、水を打ったように静まり返った。
「……っ、おい、あれって……」
「第一騎士団長の、レイナード様じゃないの……?」
席についていたご婦人たちが、小さく息を呑んで顔を見合わせる。
逆光の差し込む入り口に立っていたのは、見上げるほどに背の高い、一人の騎士だった。仕立ての良い鉄紺色の高貴なマントを羽織り、腰には美しい細剣を帯びている。
街の人々が若き英雄と称え、同時にその冷徹さを遠巻きに噂する、雲の上の存在。
そんな彼が、なぜか少し物憂げな、疲れた顔をしてこの小さな店を見渡していた。
視線が、カウンターの後ろにある棚を一瞬だけ掠め、それから促されるように、ゆっくりとカウンターへ歩みを進めてきた。
周りのお客さまたちは、英雄の突然の登場にすっかり緊張してしまい、お互いに目配せをしながら、そわそわとカップを片付け始めている。
けれど、私は手元のリネンを畳みながら、ごく普通に息を吸い込んだ。
第一騎士団長様だろうと、偉い貴族様だろうと、関係ない。
ここは私の城だ。
一歩この店の敷居をまたいだなら、お茶を求めてやってくるお客様は全員平等。日々の羽を休めに来た、ただの迷い人にすぎない。彼がどれほど有名人であろうと、今の私にとっては、お茶の一杯を必要としている一人の人間だ。
私はリネンをそっと置き、私の新しい人生の、少しばかり大物な最初のお客さまに向かって、いつもの通りのはじまりの微笑みを浮かべた。
「ようこそ。いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
レイナード様は、私の気負わない声に少しだけ意外そうな顔をして、それから静かにカウンターの端の席へと腰掛けた。
「……少し、すっきりするものを頼めるだろうか」
低く、落ち着いた、けれどどこか微かに張り詰めた声。
「かしこまりました。では、心を静かに落ち着かせる、冷たいお茶をご用意いたしますね」
トワイライトシードの小さな種と、深い藍色をしたネブラリーフの葉を陶器のティーポットに躍らせた。
乾燥させたネブラリーフは冷やした水を含ませると、まるで雨が降り始めたばかりの深い木立ちに佇んでいるかのような、静かでどこか甘やかな、濡れた土と樹木の香りをそっと漂わせる。水色は、夜の帳が下りる直前の空を切り取ったような、深く透き通ったグラデーション。
口に含んだ瞬間広がるのは、ビロードのように滑らかな舌触りと、心を奥底から解きほぐしていくような、かすかに燻したハチミツを思わせる穏やかなコク。後味には、トワイライトシードから溶け出した仄かなミントの清涼感が余韻として残り、高ぶった神経を優しく凪いでいく。
夕暮れ時の静かな部屋で、自分の呼吸の音に耳を澄ませながら、波立つ心を静かに落ち着かせるには、これ以上ないお茶だ。
彼、レイナード・グレイフォードはそれを一口飲むと、驚いたように目を見張り、それから張り詰めていた肩の力をふっと抜いて、酷く綺麗な微笑みを浮かべたのだ。
「……美味しいな」
彼は手元に広げていた帳面に、すらすらと何かを万年筆で書き留めた。
しばらくして、レイナード様が立ち上がってカウンターに一杯の代お茶としては多すぎる金貨を置き、聞いてきた。
「ずいぶんたくさんハーブがあるようだけれど、オーラクレストの生葉はあるかい」
――オーラクレスト。
小さいころ、祖母が山へ摘みに行くのに何度かついていったことがある。
山奥に自生する、日の出のわずかな時間、霧が光を帯びる瞬間にだけ白い花を開く幻想的なハーブだ。とても希少で市場にはなかなか出回らない。
が、しかし。バザールに来ていた行商人からたまたま手に入れた生葉を乾燥させたものが、後ろの棚に置いてある。
「乾燥させたものでもよろしければ」
乾燥か、とレイナード様は呟いた。迷っているのか悩んでいるのか、腕を組んでいる。その間に後ろの棚、下から三段目の右端。オーラクレスト、とラベルが小さく貼られたブリキ缶を手にする。
「ハーブティとして飲むことができるんですよ」
余計なお世話だったかもしれないけれど、薬草の知識がありそうにもないし利用方法を一つ提示してみた。
「そうなのか。それは温めても効果は変わらないのか?」
効能、という言葉に引っかかる。祖母は何て言ってたかな。
——控えめに見えてすごく自己主張が激しいんだ。美声でも大声だと耳に刺さるだけだね。
顔を顰めながら薬草の悪口を言う祖母が頭をよぎる。
「どんな効能をお求めなんですか?」
結局大事なことは思い出せなかったので、聞いてみることにした。似たような効能を持つハーブと同じ扱いでよいかもしれない。
「いや、それが……」
そう言ったっきり、レイナード様は黙りこくってしまった。
何か込み入った事情があって、周囲の目も耳も近いここでは話せないのかもしれない。
「ひとまず、こちら少しでよろしければお譲りできますよ」
そう言いながら秤を持ってくる。どこかに小さな缶がなかったかしら。
あっちの引き出し、こっちの引き出し、そこかしこを優雅に漁る。
あ、あったあった。ティースプーンで少しずつ分けていく。
「少なくともお湯で淹れても悪い効果はありません。ただ、飲みすぎには注意してください」
そう言って、小さなブリキ缶を正面に置いた。
「これで十日分です。淹れ方は――」
「ちょっと待ってくれ。メモを取りたい」
ごそごそとジャケットの内ポケットから、先ほど何かを書いていた万年筆と帳面を取り出した。メモを取るほどのことだろうか。
お客様はみんな、レイナード様に釘付けだ。
「よし、すまない。続けてくれ」
「はい。ティースプーン一杯分の茶葉でティーカップ二杯分が出ます。これが一日分です。淹れ方は温めたティーポットにハーブを入れて、三分二十八秒蒸らすだけです」
三分二十八、と小さく呟きながらさらさらと筆を進めていく。
「以上です」
「いじょう……あ、そうなのか。メモを取るまでもなかったかな」
ほんの少しだけ、口角が上がっている。少し照れているようだ。
「正確に淹れることも大事だと思いますよ、味も香りも全然違ってきますから」
レイナード様はなるほどなあ、と呟いてメモをしまった。
「お代はこれで足りるかな」
そう言ってカウンターの隅に置かれたままの金貨を右手で示した。
「足りません」
本当に足りない。倍ほどはいただかなければならない。
「オーラクレストは希少でして。倍くらいになってしまうんです」
少し声を潜めるが、カウンターのご婦人があら、という顔をしたのが目に入った。
「そうだったのか、それは失礼した。ではこれで」
倍より少し多い金貨を置いて、ありがとう、と言いながら風のように去ってしまった。
「多いですよ!」
呼びかける私の声は届かず、カラン、コロンとドアのベルが鳴り響く。
カウンターを出てドアを開ける。レイナード様の馬に乗って走り去る後ろ姿が見えるだけだった。
溜息をつきながら店内に戻ってきた。店内には一気にざわめきを取り戻していた。カウンターに置きっぱなしだった金貨にぎょっとして、慌てて袋に移した。
その時、黒い万年筆がカウンターの隅に置きざりにされているのに気が付いた。
深い漆黒のボディに、精緻な銀の彫刻。
「これって……」
私は思わず、自分のエプロンのポケットから、いつも愛用している万年筆を取り出した。
二本を並べてみると、太さこそ男性用なのか、おそらく手に合わせて大ぶりなものの、ペン先の繊細な刻印や金属の独特の輝きが驚くほど酷似している。
間違いない。私の故郷、あの工業の街の鍛冶の魔女の手による逸品だ。
「あの人、一体何者なんだろう……」
一般の人間には到底手に入らない、魔女の技術の結晶。
それをこんな風に無造作に忘れていくなんて。
ほんのり残ったオーラクレストの繊細な香りと、手の中にある二本の万年筆を見つめながら、困惑に包まれた。
店じまいをして、ソファに座り込む。
こんなにたくさん接客したのは初めてだった。
それにしても、気になるお客様が一名。
改めて忘れ物を胸ポケットから抜き出す。
深い漆黒のボディに、精緻な銀の彫刻。
二本の万年筆を並べたカウンターの上で、西日が二つの影を長く引き延ばしていた。
やっぱりそうだ。
おまけに彼は、あの希少なオーラクレストを求めていた。
「……効能、ね」
私はぽつりと呟き、レイナード様が忘れていった万年筆をそっと指先で転がした。
いかに彼が貴族といえど、これは高級品で逸品だ。きっと近いうちに、彼はこの店にこれを取り返しにやってくるはず。
「お代、多くもらいすぎちゃったしね」
私は二本の万年筆を大切にエプロンの胸ポケットに仕舞い込むと、ふふ、と小さく笑った。
このお茶が繋いだ奇妙な縁は、私の静かな城にどんな風を吹き込むのか。
祖母の言っていた通り、オーラクレストは自己主張が激しい。
ほんのりとまだ店内に残る、雨上がりの木立ちのような静かだけれど力強いオーラクレストの香りを胸いっぱいに吸い込み、また来店するであろう二回目のお客様を迎え打つための、新しいお茶のブレンドを考え始めていた。
二、三日のうちには取りにくるだろう。
あの大物すぎるお客さまが忘れていった、漆黒と銀の万年筆。それをエプロンのポケットに入れたまま、私は毎日カウンターを拭いていた。けれど、私の予想はあっけなく裏切られ、彼が再びそのドアベルを鳴らしたのは、あの初来店からちょうど一週間が経った日のことだった。
カラン、コロン。
開店の朝十時を告げる鐘の音と同時に、勢いよく扉が開く。
「おはよう、ミス……ええと、店主殿。先週は色々と失礼した。すまなかった」
入ってきたのは、やはりあの第一騎士団長、レイナード様だった。一週間も音沙汰がなかったかと思えば、よりによってお役所もまだ動き出さないような朝一番の登場に、私はお湯を沸かす手を止めて目を丸くした。翌日に来ると思っていたのに、一週間も放置された上にこのタイミング。余計に彼の意図が分からなくなる。
彼はカウンターに歩み寄るなり、シンプルなブリキの缶とずしりと重みのある革の袋を差し出した。中からはジャラリと、明らかな大金の音がする。
「前回のオーラクレストだが……残っている分を、もらえるだけすべて譲ってほしい。これから騎士団の任務があってすぐに店を離れなければならないんだ。閉店前の十九時頃には必ず戻る。これで足りるだろうか」
「えっ、あ、はい。足りるというか、多すぎるくらいですが……」
「では、夜にまた。頼んだぞ」
彼は私がそれ以上言葉を紡ぐ隙も与えず、回れ右をして風のように去っていった。残されたのは、カウンターの上で朝日にきらめく大量の金貨。
「なんなの、一体……」
嵐のような忙しなさと言い、こちらの都合もお構いなしの態度と言い、いくら英雄様でも少し不満が募る。私は頬を膨らませながら、ひとまず金貨の袋を奥へと仕舞い込んだ。
文句を言っている暇はなかった。今日も街のど真ん中にある私の店には、寒さに身を縮こまらせたお客さまたちが次々とやってくる。
「イザベルちゃん、今日も温まるやつ、お願い!」
お昼過ぎにやってきたのは、近所のなめし革職人のトマスさんだ。
「はい、喜んで! すぐに淹れますね」
温めておいたガラスポットの中で炭黒のエルダリッジティーの茶葉と生成色のドライピピンがぶつかり、混ざり合い、広がっていく。温めた陶器のカップに注がれたお茶は、深く艶やかな飴色。立ち上る湯気と共に完熟ピピンを思わせる、どこか懐かしい香りが漂う。
最初の一口は、エルダリッジティーが纏う柔らかな渋み。続いて追いかけてくるのは、ピピンの軽やかな甘さ。
トマスさんは嬉しそうに目を細めて、熱いお茶を啜る。
「あぁ、これこれ。五臓六腑に染みるねぇ」
続々と来店するお客様の気分に合わせて、もしくは今日のおすすめを提供する。
夕方近くになると、今度は顔を真っ赤にしたお肉屋さんの看板娘、ミリーちゃんが飛び込んできた。
「イザベルさん! 至急! 厨房の火の側でずっと立ちっぱなしだったから、体がのぼせちゃって頭が痛いの……。でも喉は渇くし、どうにかして!」
「おやおや、それは大変ですね。じゃあ、すっきりして体にこもった熱を逃がすお茶にしましょう」
私は、涼しい季節になっても厨房の熱気で大汗をかいている彼女のために、あえて冷たいハーブティーを仕立てた。
ガラスのポットの中で躍らせたのは、細長いルナグラスの生葉と、真っ赤なドライモルン。氷をたっぷり入れたグラスに一気に注ぐと、水色は冬の夕暮れ時の空を閉じ込めたような、透明感のある鮮やかなバイオレットブルーへと変わる。
一口飲めば、まずはルナグラスの夜霧のような少し煙たい、それでいて突き抜ける清涼感が鼻を抜け、のぼせた頭をひんやりと冷やす。その直後、モルンの完熟した甘酸っぱさが重なり、乾いた喉を瑞々しく潤していくのだ。
「すごーい! 冷たいのに、お腹が痛くならない! 頭がすーっと軽くなってきたわ!」
ミリーちゃんはニコニコと笑顔を取り戻し、お茶を飲み干して仕事へと戻っていった。
こうして一人で立ち回り、たくさんのお客様をさばいているうちに、外はすっかり日が暮れていた。時計の針は、十七時四十五分を回っている。店内の波が引き、他のお客様が一人もいなくなった。
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