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イザベルの忘却ティーハウス

 幽霊屋敷の重い鍵を手に入れたものの、本当の戦いはここからだった。

 いくら大家さんが三ヶ月のフリーレントをくれたとはいえ、あの埃まみれの廃墟を人が心地よくお茶を飲める空間に変えるには、それなりの元手、つまり内装費がどうしても必要になる。

 

 イザベル・ウェルズの、泥臭くも愛おしい日々が始まった。

  昼は酒場、夜は修繕。

 平日は空き家を紹介してくれたあの親切なマスターの酒場で、文字通り朝から晩まで働いた。

 

「はい、お待たせいたしました。自家製のカモミールとアップルミントのブレンドです。蜂蜜を少し多めに入れてありますから、お嬢様も飲みやすいですよ」

 

 昼下がりの酒場に、本来なら似合わないはずの、爽やかで甘いハーブの香りが漂う。

 最初は酒場にお茶なんて、と渋い顔をしていた常連の荒くれ者たちも、テキパキと雑用をこなし店をピカピカに磨き上げていくとて、次第に認てくれるようになった。

 

 何より、一番大喜びしたのはマスターだ。

 お酒の飲めないご婦人や、父親に連れられてきた子供たちが、お茶を目当てに昼間の酒場へ足を運んでくれるようになったのだ。

 

「いやあイザベル、お前が来てから昼間の売り上げが倍増だよ! ほら、今日の分のバイト代と、これは大入りのチップだ!」

「ありがとうございます!」

 

 弾む硬貨の音を聞きながら、私は夕方になると自分の城へと向かう。酒場でもらった端材や、削り直した古い家具を幽霊屋敷に運び込み、夜は一人、ランプの灯りで床を磨き、壁の漆喰を塗り直した。あのすすり泣きの主も、トントンと家具を修繕する音に、いつしか静かに耳を澄ませるようになっていた。

 しかし、酒場のバイト代だけでは、どうしても仕入れや上質なティーカップを揃える資金が足りない。

 

 私は一計を案じた。手元にあるハーブを袋に詰め、町の商店や茶葉店へ売り込みに行ってみた。

 魔法は掛けていない。まだ使うべき時ではない。

 

「あの、オリジナルのブレンドハーブティーなんですけれど、置いていただけませんか?」

「うーん、うちはお抱えの商人がいるからねぇ。どこの馬の骨とも分からない娘さんの葉っぱは置けないよ」

 

 結果は全敗。実績のないハーブティーなど、誰も興味を示してくれなかった。

 

「だったら、直接飲んでもらうしかないわね」

 

 当然、諦めなかった。毎週日曜日、町の中央広場で開かれる大規模なバザールに、小さな露店を出店することにした。

 最初の週は、素通りする人々を前に声を張り上げるだけだった。

 けれど、二週目、三週目と重ねるうちに、一人の老婦人が足を止めてくれた。

 

「あら、良い香りね。一杯いただこうかしら」

「ありがとうございます! バザールを回ってお疲れじゃありませんか? 疲れがすっきりとれるように、レモンマートルを少し効かせてあります」

 

 その一杯が、小さな奇跡の始まりだった。

 

「バザールの隅に、もの凄く美味しいお茶を淹れるまだら色の赤毛の娘がいる」

 

 その噂は、人づてに少しずつ、けれど確実に広がっていった。翌月には、日曜日になると私の露店の前に行列ができるほどになっていた。


 

 ティーハウスの内装を少しずつ整え、平日はマスターの店で汗を流して働き、日曜日はバザールでファンを増やしていく。

 そんな、目が回るほどに忙しくも充実した日々を駆け抜け、気づけばスプリングベイルに心地よい秋の風が吹き抜ける頃――丸半年、経過していた。

 資金は、貯まった。

 

 そして何より、あの幽霊屋敷は見違えるような姿に変貌を遂げていた。

 黒々と覆っていた蔦は綺麗に剪定され、アンティーク調のレンガが顔を覗かせている。 埃まみれだった床は、半年間毎日磨き続けたおかげで、鈍い枯茶色の美しい光沢を放っていた。窓辺には可憐なハーブの鉢植えが並び、地下室には最高の状態で発酵を待つ茶葉が眠っている。

 

 ついに、『イザベルの忘却ティーハウス』が完成したのだ。

 

 最後のバザールの 出店の日。いつも自分のハーブティーを買いに来てくれる常連客たち一人ひとりに、丁寧に万年筆で手書きした小さな招待状を手渡していった。

 

「お待たせいたしました。来週の木曜日、ついに私のお店がオープンします」

「おや、本当かい!? あのみすぼらしかった幽霊屋敷を、本当にサロンにしちまったんだねぇ!」

 

 常連の男性が感嘆の声を上げる。半年間やりきった自信と、これから始まる本当の魔女としての仕事への覚悟を込めて、笑みを浮かべた。

 

「ええ。お席でゆっくり、日常を忘れて召し上がっていただけます。バザールのお茶よりも、もっと、ずっと皆さんの心を癒せる特別なメニューもご用意してお待ちしていますね」

 

 その言葉の本当の意味を、まだ街の人々は誰も知らない。

 けれど、常連客達は楽しみにしてくれているようだった。


 

 明日、私の新しい人生が始まる。

 半年前、この街にやってきたときは、まさかこんなにすぐ、こんなに素敵な自分の店を持てるなんて思いもしなかった。

 夜明け前の静けさに包まれた店内で、私は光石灯をつけた。

 天井から吊るされた琥珀色の光石灯が柔らかな光で私の宝物を照らし出していく。

 

 まずは、カウンターの三席。マスターの店でもらった分厚い板を、私が半年間、毎日毎日、腕が上がらなくなるまで磨き上げたものだ。その奥の棚には、バザールで少しずつ買い揃えた念願の様々な色、柄の陶器製ティーカップと、乾燥させたハーブの詰まったブリキ瓶、そしてこの地の名産エルダリッジティーが出番を待つように整然と並んでいた。

 

 スプリングベイルよりずっと北にそびえたつエルダリッジ山脈。その斜面は日当たりが良く、朝晩の寒暖差が激しいために有数の産地となっている。

 窓辺に置いた、たった一つの二人掛けのテーブル席。窓からは、手入れの行き届いた自慢のお庭が見える。かつておどろおどろしい蔦に覆われていた庭は、今では踏むたびに甘い香りを放つミントやカモミールの絨毯に生まれ変わっていた。あそこに置いた白い鉄製のガーデンチェアには、明日、どんな人たちがマイカップを手に座ってくれるだろう。

 

 ……さて。最後に、あの子のところへ行かなくちゃならない。

 

 私はランプを掲げ直し、お店の最奥へと歩みを進めた。

 そこには、遮光性の高い、深い深い夜色の厚手のカーテンが下がっている。

 

「お待たせ。入っても良いかしら」

 

 声をかけながらカーテンを引くと、そこは私のもう一つ、いや本業と言っても良いだろう、その仕事場『レーテの雫』を抽出するための半個室だ。

 部屋の中央には、体をすっぽりと預けられる、背もたれの深い革張りの一人掛けソファー。そのすぐ隣の空気だけが、妙にひんやりと冷たく、白く濁って揺れている。

 この半年の間、私がトントンと床を叩く音をずっと寂しそうに聴いていた、この屋敷の元住人。この街の人々が恐ろしい幽霊と呼んで逃げ回っていた、哀しい残り香。

 

「明日からお店が始まるの。あなた、昼間にお客様が来たらびっくりしちゃうでしょう? だから、今日でお別れにしましょう」

 

 私はランプをサイドテーブルに置き、ソファーの前にそっと佇んだ。

 相手はもう、生きた人間ではない。けれど私にとっては同じこと。そこにあるのは、この屋敷で孤独に亡くなった誰かの、あまりにもみずみずしい悲哀の気配だ。

 私は目を閉じ、すうっと息を吸い込むと、白い霧のちょうど心臓があるあたりへ、静かに右手をかざした。

 胸の奥の魔力が、指先へと集まっていく。

 淹れたてのお茶から立ち上る湯気のような、淡い光の粒子が私の手から溢れ出し、冷たい霧を優しく包み込んだ。

 ウ、ウウ……ッ……。

 いつも私の後ろで響いていた、あの切ないすすり泣きが聞こえる。けれど、もう怯えるような声じゃない。どこかホッとしたような、吐息のような響き。

 

 やがて、その光が実を結ぶように、私の手のひらの上でサァ……と音がした。

 現れたのは、瑞々しい深緑の葉、ではなかった。幽霊から引き出したそれは、まるで凍りついた朝露がそのまま固まったような、透き通ったガラス細工の葉っぱだった。

 生きた人間の心から抜いた生葉は、二日かけて発酵・乾燥させることでその人の血肉となるお茶に変わる。けれど、もう肉体のない彼女の悲しみは、お茶にする必要はない。ただ、こうしてカタチにして、受け止めてあげれば良い。

 

「……うん。綺麗。よく頑張ったわね」

 

 私がその冷たいガラスの葉を両手でそっと包み込み、優しく息を吹きかけると、葉はパリンと綺麗な音を立てて、無数の光の粉へと弾けた。

 その瞬間、部屋を満たしていた冷気が嘘のように消え去り、温かい、森の中にいるような心落ち着く香りがふわりと満ちていく。

 いつの間にか、窓の外からは鳥のさえずりが聞こえ始めていた。夜が明ける。

 開いた手のひらを見つめ、私は小さく息を吐いた。

 母は魔法を心に近づけてはならない、人間を人形にしてしまうって、悲しい顔で私にこの魔法を封じるよう言い聞かせてたけど。

 

 本当にそうかなと思う。彼女も、これまで抽出してきた人々も、苦しみから解放されている。生きている人はみな、幸せそうな顔をする。

 カーテンを開けると、朝の陽射しが窓から二人掛けのテーブルの上に差し込む。

 木目の一本一本が光を受けて浮かび上がり、艶を帯びた表面はまるで薄い水を張ったようになめらかだった。

 白い光はそのまま、窓枠の形を映しながら長い帯となって店内を照らす。

 カウンターの上に置かれたガラスのシュガーポットは陽射しを受けてきらりと瞬き、その影は輪郭をくっきりとカウンターに刻んでいる。

 

 窓の外で風が枝を揺らすたび、葉の隙間を抜けた光が揺れる。明るさがわずかに濃淡を変え、そのたびに店内の明るさも呼吸するように表情を変えた。

 柱時計の針の音だけが響いている。

 その光景はまるで、朝そのものが開店を待っているかのようだった。

 

「よし。明日も、いや、今日から頑張るぞ!」

 

 パン、と自分の両頬を叩いて気合を入れる。

 私の、世界で一番小さくて、世界で一番贅沢な城。

 日常も嫌なことも忘れ去れる非日常。

 

 本日、『イザベルの忘却ティーハウス』、いよいよ開店です。

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