スプリングベイル
なんとか宿を見つけて、宿泊した翌日。
広場の中央、立派な水飲み場の向こうに、ひときわ大きな石造りの建物が見えた。入り口には紋章の刻まれた旗が掲げられている。この街を管理している領政館だろう。
「まずは、あそこに行って移住の手続きと、空き家がないか聞いてみよう」
緊張で少し強張る足に力を入れ、歩き出した。
領政館の重い木の手押し扉を開けると、ひんやりとした静寂と、古い白樹紙とインクの匂いが鼻を突いた。
奥の頑丈なカウンターの向こうで、いかにもお役人といった風の、灰色の衣服を着た中年の男が羽根ペンを動かしている。
「失礼します」
私が声をかけると、男は面倒くさそうに顔を上げた。
「……なんだね。ここはフェアモント伯爵領、スプリングベイル領政館だ。苦情ならあとの時間に――」
「あの、苦情ではなく、移住の手続きと……空き家の斡旋をお願いしたくて。この街で、新しく暮らし始めたいんです」
私が一礼すると、男は値踏みするような視線をこちらに投げかけてきた。身なりは普通の旅人だ。男の警戒心が少し緩み、手元の台帳を開く。
「手形、それから銀貨4枚、それからここ埋めて」
銀貨4枚を支払い、手形を渡す。
台帳には氏名、性別、生年月日、出生地、住所の項目がある。上から順に埋めていくが、住所はまだない。
「あの、住所なんですが……」
顔を上げた拍子に私の肩口から髪がハラリとこぼれ落ちる。
しまった、と思ったが遅かった。
フードの隙間から覗いた私の髪は根元こそ一周ぐるっと鮮やかな赤毛だが、ところどころ、まるで火に炙られて焦げたような鳶色に変色している。
自分で鏡を見るたびに煤でも被ったみたいと思ってしまう。
男の目が、そのまだらの髪色に釘付けになった。
お役所仕事の気怠さが消え、明確な拒絶が宿る。羽根ペンを置く音がやけに大きく響いた。
「……悪いが、お嬢さん。うちの街に、よそ者に貸せるようなまともな家は残っていないよ」
あからさまに声のトーンが下がった。
さっきまで台帳を開こうとしていた手が、ピシャリとそれを閉じている。
「そんな、どんなに古くて小さな家でも構いません。仕事もちゃんと探しますし、税だって納めます」
「そういう問題じゃない。当領政館はフェアモント公爵の厳格な統治のもと、清らかな水と平穏を愛する〝普通の人間〟だけが暮らす場所だ。その髪はなんだね? 就業経験は?」
男は普通の人間という言葉を、わざと強調した。その視線は、フードの内側に戻した髪を蛇のように睨みつけている。
魔法や魔女の存在をよく知らない一般の人間にとって、このまだらの変色は、警戒すべきものに見えるのだろう。言い訳をすればするほど、怪しまれるのは分かっていた。
「……そうですか。では決まったらまた、届け出に来ます」
私はそれ以上食い下がるのを諦め、もう一度小さく頭を下げた。胸の奥がキュッと締め付けられるように痛む。
ここではまだ、ただの髪色のおかしな余所者なのだ。
領政館を追い出されるようにして外に出ると、眩しい太陽と水のせせらぎが私を迎えた。水はあんなに清らかなのに、私の心にはどんよりと黒い煤が溜まっていくようだった。
「……さて、どうしようかな」
ポツリと呟き、私は髪の毛先を指先でいじった。
領政館がダメなら、残るはあの方法――酒場で訳ありの物件を口コミで探すしかなさそうだ。
さっきの男から向けられた冷たい視線を振り払うように、私は広場の隅にある、古びた酒場のドアを叩いた。
店内は昼間だというのに薄暗く、数人の客が静かにエールを煽っている。
カウンターの奥でグラスを拭いていたのは、顔中を髭で覆った、熊のように大柄なマスターだった。
「……いらっしゃい。見かけない顔だな」
低い声に身構えながら、私はカウンターの端に座り、思い切って切り出した。
「あの、この街で空き家を探しているんです。領政館に行ったら、よそ者に貸せる家はないって追い出されてしまって。どんなに古くても、訳ありでも構いません」
マスターの手が止まる。彼は私の顔をじっと見つめた。また拒絶されるか、と私が身を硬くしたその時、マスターはふっと鼻で笑った。
「領政館のあいつらは、少しでも普通から外れたものを嫌うからな。……お嬢ちゃん、ワケありでも構わないって言ったな?」
マスターはカウンターに身を乗り出し、声を潜めた。
「街の西の端、川のすぐそばに、立派だけど5年も空いている家がある。前の住人が、ひどい失恋の末に狂って死んじまってね。それ以来、夜な夜なシクシクと女の泣き声が聞こえるって、街の奴らは幽霊屋敷って呼んで誰も近づかない。……どうだ?」
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す話だ。魔女以外の強すぎる感情は、時としてその場に「呪い」としてこびりつき、怪異を起こす。
でも、私にとっては好都合だった。
「そこに決めます。手続きに必要な書類はありますか?」
「威勢が良いね。待ってな、大家への紹介状を書いてやる」
マスターが奥からガサゴソと紙を取り出す。
私はカバンの中から、大切に仕舞っていた一本の細い万年筆を取り出した。
金属製の漆黒のボディに、銀色の細工が施されたそれは、かつて高名な鍛冶の魔女が作ったとされる稀少な筆記具だ。
「あ、インクなら私が持っています。使ってください」
万年筆のキャップを外すと、ふわりとスモーキーな香りが漂う。カートリッジには私自身がお気に入りの紅茶の葉から抽出した、深みのある赤茶色のインクが充填されている。
羽根ペンのように何度もインク壺に浸す必要のないそのペンを見て、マスターは目を丸くした。
「ほう……そいつはまた、妙な道具だな。お嬢ちゃん、ただの旅人じゃなさそうだ」
「ただの、紅茶が好きな人間ですよ」
私は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
先行き不透明だけど、スプリングベイルの美味しい水とこの万年筆、そしてワケありの家があれば、なんだか面白い新生活を始められそうな気がしてきた。
「お嬢ちゃん、名前なんてんだ?」
羽根で紙をたたきながらマスターが聞く。
「イザベル。イザベル・ウェルズ」
西日に照らされたその大きな建物は、長年放置されていたことを証明するように、蔦がレンガの壁を黒々と覆い尽くしていた。
「ひ、東棟の三階は、十年前からまともな掃除も入っていなくてね……」
案内役である、恰幅の良い初老の大家は、自分の持ち物であるはずの屋敷の敷居をまたぐなり、カチカチと歯を鳴らしていた。彼にイザベルを紹介した酒場のマスターが、あそこは出るからな、と笑っていたのは、決して大袈裟な冗談ではなかったらしい。
埃が厚く積もった廊下を、静かに歩く。
天井は高く、梁の木組みも見事なものだ。蜘蛛の巣は張っているが、壁のレンガや床のオーク材はどれも一級品で、磨けば見違えるようになるだろう。
水路が近いから少し湿気は籠るけれど、石造りの地下室の温度はハーブや茶葉を寝かせるのにこれ以上ない最高の環境だ。
私が家具の配置を見定めていた、その時だった。
――ウ、ウウ……ッ……。
静まり返った東棟の奥から低く低く、響くような、くぐもった声が聞こえてきた。
それは、明らかな人間のすすり泣きの音だった。風の鳴る音にしてはあまりにも生々しく、冷気を含んだ声。
「ひいぃっ! 出、出た、出た出た出た!」
大家は悲鳴を上げると、手に持っていたランタンを危うく落としそうになりながら、回れ右をした。
「ご、ごめんよイザベルさん! 私はもう無理だ、外で待っているからね、いや、もう帰るからね!」
ドタドタと激しい足音を立てて、大家の影はあっという間に玄関の方へと遠ざかっていく。
廊下には、イザベルが手にした小さなランプの灯りと、どこからか聞こえ続けるウウ……という細い泣き声だけが残された。
普通の人間の娘なら、腰を抜かして泣き叫ぶか、大家の後を追って一目散に逃げ出す場面だろう。
けれど、私は怯えるどころか、むしろ深く感心した。声のする暗闇の奥を見つめる。
なんて濃厚な哀傷の気配。
かつて、アシュトン領の農村を転々としていた頃、これほど深く、純度の高い悲しみの感情を何度も引き出してきた。私にとって、この気配は恐怖の対象ではなく、見慣れた人間の心の澱そのものだったのだ。
ランプを掲げ直し、足元の埃を気にすることもなく、屋敷中を歩き回る。
泣き声の響く大広間へ向かい、扉を開けて隅々まで見学する。壁のひび割れ、窓枠の建付け、さらには調理場の大きなかまどの様子まで、じっくりと時間をかけてチェックしていく。
「うん。煙突の通りも悪くないわね。これなら、最高のお茶が作れるわ。それにコンロも二口ある!」
すっかり満足したわたしは、未だにどこかの部屋の隅から聞こえてくるすすり泣きに向かって、まるで隣人に声をかけるように、朗らかに告げた。
「よし、ここに決めるわ!」
それまで響いていた泣き声が、ピタッと静まり返る。
「さて……大家さんのところへ行って、契約書を書いてもらわなくちゃ」
私はフンフンと鼻歌を混じりに、薄暗い廊下を玄関へと歩き出した。
幽霊屋敷と呼ばれるこの場所こそが、私にとって誰にも邪魔されない最高の城となる予感に、胸を躍らせながら。
大家の邸宅の応接室に入った私を、初老の大家さんは信じられないものを見るような目で見つめていた。その手は、まだ温かいカップを握ったまま小刻みに震えている。
「イ、イザベルさん……! 無事だったのかい!? あそこから、本当に一人で生きて帰ってこられたんだね……!」
「ええ、もちろんですよ。すみません、お待たせしてしまって。隅々までじっくり見学させていただきました」
私は髪を軽く払い、何事もなかったかのように、にこりと微笑んだ。その落ち着き払った態度に、大家はごくりと唾を飲み込む。
「あ、案内を途中で放り出して逃げ出してしまって、本当に申し訳ない……。だが、聞いたろう? あの、世にも恐ろしいすすり泣きを! 街の噂は本当だったんだ。あの屋敷は呪われている、もうおしまいだ……!」
頭を抱えて絶望する大家の前に、トントン、とテーブルで書類の端を整えるように小気味よい音を立て、注意を引いてから一枚の書類を差し出した。酒場のマスターから事前に預かっていた、賃貸の仮契約書だ。
「大家さん。あの屋敷、正式にお借りします。今すぐ契約を結ばせてください」
「……は?」
大家さんの動きがピタッと止まった。幽霊の恐怖で真っ白になっていた頭が、一瞬で強欲な〝家主〟の脳みそへと切り替わる。彼は眼鏡を押し上げ、書類と私の顔を何度も往復させた。
「か、借りる? 冗談だろう? あの声を間近で聞いておいて、正気かい?」
「大正気です。むしろ、あの広さと頑丈な石造りの地下室、それに立派なかまどまでついて、あのお家賃なら、私にとっては掘り出し物以外の何物でもありません」
万年筆を差し出すと、大家の顔はみるみるうちに猛烈な感謝と歓喜に包まれていった。
長年、街のど真ん中で不気味な幽霊屋敷として放置され、税金ばかりを食い潰していたお荷物物件だ。誰かに貸せるわけもなく、売りに出しても買い手がつかず、大家にとっては夜も眠れないほどの頭の痛い種だったのだ。
「ああ……! ああ、神様、酒場のマスター、そしてイザベルさん……! 君は聖女か何かかい!?」
大家はガタッと椅子を蹴立てて立ち上がると、イザベルの手を両手で包み込み、涙目を輝かせながら激しく上下に振った。
「感謝する、感謝するよ! あんな呪われたゴミ溜めを借りてくれる奇特な人が、まさかこんな若いお嬢さんだなんて! ああ、でも本当に良いのかい? 夜中に首を引っ掴まれて、井戸に落とされたりしても私は責任を持てないよ!?」
「ええ、何が起きても大家さんのせいにいたしません。その代わり――」
私はウインクしてみせた。
「契約書に書かれている通り、これから三年間、お家賃の据え置きと、事前の約束通り最初の三ヶ月は家賃を無料にしてくださいね。内装の修繕費は、こちらで持ちますから」
「もちろん、もちろんとも! 三ヶ月と言わず半年でもいいくらいだ! ああ、すぐに正式なサインをしよう。インクを持ってこい!」
大家さんはまるで、気が変わった私に逃げられるのを恐れるように、もの凄い猛スピードで契約書に羽根ペンを走らせ、バチンと領主公認の蝋封を押した。
「これで契約成立だ! イザベルさん、君のティーハウスの成功を……いや、まずは君の生存を、心から祈っているよ!」
「ふふ、ありがとうございます。開店したら、ぜひ美味しいお茶を飲みにいらしてくださいね。時を忘れるほど、くつろげるお店にしますから」
鍵の束をがっしりと受け取り、大家の家を後にした。
背後から、なんて勇敢な娘だ……、我が家の救世主だ……、とブツブツ呟く大家の圧倒的な感謝の声が聞こえる。私は大家さんをほっぽって胸の中で、自分の名前がついた新しい城の看板を思い描いていた。
――『イザベルの忘却ティーハウス』
カチリ、とポケットの中で鳴った屋敷の鍵の音が、これから始まる人生の、ファンファーレのように聞こえた。
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