旅立ち
街中に突き立った煙突から吐き出される黒い煙のせいで、町の空はいつもどんよりと濁っている。
この町は円形にできていて、工場や機関が中央に固まっている。人々は外のそれらをぐるっと取り囲む外の村に住み、毎朝早くにそれぞれ街の中心へ働きに行く。街の中に住めるのはごく一部の限られた人間だけだ。
この町を抱えた小さなアシュトン伯爵領で暮らして二十年が経った。
村々を回り五年程か。そろそろ旅立つ時かもしれない。
十六時の鐘があちこちでやかましく鳴らされた。
水がたっぷり入った桶を一度地面に下ろす。
腕と腰を休めるついでに、伸びをしながら丘の上から街並みを眺めた。相変わらず煤けた街だ。無意識に髪に手をやる。
「……今日も忘却ティーハウス開店ね」
えっちらおっちら桶を中に運び、ドアプレートを『営業中』に返して、小さな小屋の中に入った。
カウンター三席、半個室のように設えたテーブル席が一つ。カウンターの奥には色とりどりの缶。そしてコンロ、ティーカップの入った棚。これが私の仕事場だ。
そろそろいつもの常連さんたちが来るはずだ。
ドアベルが軽快な音を立てる。
「イザベルちゃん、きたぞー」
ジョージさんとハロルドさん。二人はいつも来てくれる。
「今日もありがとう! さ、座って」
煤で汚れた顔を拭きながら、二人は話し始めた。
色とりどりの缶から鮮やかな緑色の缶を選ぶ。今日はこれにしよう。
年季の入ったコンロの上に、銅製のつるりと輝くケトルが鎮座している。木杓でケトルに水を注ぎ、もう一度、コンロの上に置いた。火をつける。
チチチチ、と助走をつけて青い炎が輪になって広がった。火加減を調整する。
よその街の魔女ならお湯を沸かせる魔法を持っているかもしれない。でも私にできるのは精々、保温と抽出、乾燥くらいだ。実に紅茶の魔女らしい。
魔女と言ったって、火球が出せたり氷柱が出せたりするわけではない。戦闘力はその辺の人とそんなに変わらないのである。
お湯が沸くまでの間に、今日のカップとティーポットを決める。
本当は陶器製が欲しいけれど、移動の多い私の生活に割れ物は向かない。
今日はこれで良いかな。
二人はおしゃべりに夢中で、わざわざカップはどれが良い、などと話の腰を折るのは躊躇われた。
この街の良いところはお湯がすぐに沸くところだ。この工房にもそこかしこに、ダクトが張り巡らされている。
ケトルからピーと笛の音がする。お湯が沸いたようだ。
カップ二つとティーポットにお湯を入れると、さてさて私の本領発揮。保温の魔法をかける。もちろん、ケトルにも。
保温されているケトルにさらに水を足して、また強火にかける。今度はもっと早く、お湯が沸く。コンロが二つあればこんなに面倒なことはしないのだけれど。
火を止めて、いそいそとティーポットのお湯を捨てた。カポッと茶缶の蓋を開けてティースプーン一杯分の茶葉をティーポットにそっと入れると、おまじないをかけた。美味しくなりますように。
お湯を注ぐと芳醇な香りが漂う。私の祈りを茶葉が受け入れてくれたように感じられて、この瞬間が大好きだ。
二人のおしゃべりも止まった。ワクワクと目を光らせる様は子供のようで、何度見ても微笑ましい。
一つずつ、丁寧にソーサーとカップを置いた。
「どうぞ」
二人は香りを嗅ぐ。
初めてこの村にやってきた日のことを思い出した。空き家でティーハウスを開店してから二年ほどだろうか。ここしばらくレーテの雫の注文が入っていない。この村は小さすぎて、興味のある人全員にすでに提供してしまったようだ。
「あー、癒される」
「わしもー」
冷静さは二人の声で弾け飛んだ。彼らに提供できなくなるのが心残りだ。
「実はね、来週ここを出ようと思っていて」
「ぬあ!?」
ハロルドさんが目を剥く。
「ああ、みんな幸せになったからなぁ」
ジョージさんは相変わらずの察しの良さだ。
「うん、やっぱりもっと大きな街に行きたくてね」
「うーん、このお茶が飲めなくなるのは本当に残念だが……」
「来るもの拒まず、去るもの追わず。それがこの街の掟だからな」
「最終営業日教えてよ、絶対飲みに来るから」
「村のみんなにも言っておくよ」
二人はそう言ってほぼ同時に飲み終わり、店を後にした。その後、何名か来店したものの、いずれも見知った顔で、やはりレーテの雫は出なかった。
領地を出るにあたり、領主の許可が必要だ。
この町は性質上、商人の出入りが多い。そのせいか、個人の移動を過度に縛るよりも、商流を活性化させた方が領地全体に利益になる、と領主は考えているようだ。よその領地では一生をその檻の中で過ごすものも多くないと聞く。領主の先進的な考えに心の中で感謝した。
一日店を閉めて、町の中心部にある領政館へ赴く。
待たされることもなく、窓口の書記官は慣れた手つきで書類を受け取った。
「移住先での開業申請に必要な書類一式だな。手数料は銀貨二枚。裏に判を押しておくから、関所ではそれを見せれば良い。さ、ここへサインをしろ」
一枚の白樹紙が滑るように目の前に置かれた。住民台帳から名前を抹消する、と書いてある。
生唾を飲み込む。
また戻っては来られる。しかし、住民台帳から名前を消すのはまるで自分を世界から消してしまうようで、少し躊躇われた。
しかし、思い切って羽根ペンを滑らせる。
書類を受け取った役人は最後に、と言った。
「領主様に伝言は?」
自由な往来を認めてくれてありがとう、とでも言いたいところだが、小娘のためではないわ、と返す小太りな中年男性が頭をよぎった。
「特にないです」
無難にそう答えて、出立の手続きは終わった。
朝もやがまだ白く残る町の広場に、パカパカとひづめの音を響かせて、お目当ての乗り合い馬車がやってきた。定刻通りの到着だ。
「本当に、行っちまうんだな」
言葉を詰まらせたのは、煤だらけのハロルドさんだった。気がつけば、広場には町のあちこちから人々が集まってきている。仕事を抜けだしてきてくれた人もいたようだ。思ったより広まってしまった。二人に気づかれなければいいけれど。街の中心部にいる祖母と母には、新天地から手紙を送るつもりだ。
「寂しくなるねぇ。ベルちゃんの顔が見られなくなるなんて」
「体には気をつけるんだよ。しっかり食べるんだよ!」
口々にかけられる温かい言葉が、胸の奥を熱くする。
別れの瞬間は寂しいけれど、達成感も大きい。
「もうみーんな幸せにしちゃって、商売上がったりだからね」
この町の人たちはみんな優しくて、居心地が良かった。けれど、私にはやってみたいことがある。
「みんな、今まで本当にありがとうございました。元気でね」
私が頭を下げると、最後に過ごした村の村長がゆっくりと歩み出て、私の両手を包み込むように握った。その手は、力仕事で鍛え上げられた、ゴツゴツとして温かい手だった。
「お前の我慢強さは、町の誰もが知っている。でも、どうしてもダメだったら、いつでも帰っておいで」
「はい」
これ以上ここにいたら、涙が溢れて決意が鈍ってしまいそうだった。
私はぐっと涙をこらえ、馭者が荷台に荷物を積み終わるのを見届けてから、馬車のステップに足をかけた。
「それじゃあ、行ってきます!」
車内に乗り込み、木製の硬い座席に腰を下ろす。
小さくて煤けた窓から身を乗り出すようにして、大きく手を振った。
「行ってらっしゃい!」
「元気でね――!」
パチン、と馭者の鞭が鳴り、馬車がゆっくりと動き出す。
見慣れた町の景色と、最後まで手を振り続けてくれるみんなの姿が、みるみるうちに小さくなっていく。
私は服の袖でごしごしと拭った。でも涙なんか出やしないから、袖が濡れることもなかった。
寂しさはもちろんある。けれど、このところ、感情を表に出すのが難しくなってきていた。
馭者の威勢の良い掛け声とともに、木製の車輪がまた一つ、大きなわだちを乗り越えた。
「きゃっ」
お尻を突き上げる激しい衝撃に、私は思わず小さな悲鳴を上げ、座席の革の手すりにしがみついた。乗り合い馬車は、お世辞にも快適とは言えない。乗客たちの荷物が床でゴトゴトと音を立て、充満する乾いた草と馬の汗の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「おいおい、お嬢さん。この先はもっと道が荒れるぜ。舌を噛まないように気をつけな」
向かいに座る行商の老人から、気の良い、だが容赦のない忠告が飛んでくる。私は苦笑いしながら「ありがとうございます」と返し、乱れた髪を耳にかけた。
窓の外に目をやると、今朝出発したばかりの活気ある街の喧騒は、すでに遠い地平線の彼方に消え去っていた。
新天地を求めての、あてのない旅。
でも、目指すべき場所の噂なら、ポケットの中に大切にしまってある。
酒場の情報通や、旅慣れた冒険者たちが口を揃えて教えてくれたのだ。
「ここから二つ隣の町に、隠れた名所がある」
「水が美味しくて、静かで、でも寂しすぎない場所」
まさに私にとって理想の環境だった。あとは町に人の出入りが多いといい良いのだが。
隣の町を通り過ぎ、さらにその隣の町へ。文字にすれば簡単だが、馬車に揺られる身としては、気の遠くなるような道のりだ。
ガタゴト、ガタゴト。一定の、それでいて不規則なリズムが体を揺らす。
窓から吹き込む風は、少しずつ街の埃っぽさを失い、瑞々しい草木の香りを帯びていく。遠くに見えるなだらかな緑の稜線を眺めながら、私はまだ見ぬスプリングベイルを思い描いた。
そこでどんな暮らしを始めようか。
どんな美味しい水を飲み、どんな静かな朝を迎えるのだろう。
「ふう……」
お尻の痛みには目を瞑ることにして、私は深く息を吸い込んだ。馬車の揺れは激しいけれど、私の心は不思議と、これまでにないほど深く、穏やかに落ち着いていた。
馬車がなだらかな坂を下り終えて平坦な街道に入ると、途端に空気の湿り気が変わった。
街のあちこちから、サァ、と心地良い水のせせらぎが聞こえてくる。見れば、石畳の脇を流れる水路の水は、底の小石が数えられるほど透き通っていた。
「着いたぜお嬢さん。スプリングベイルだ」
馭者のぶっきらぼうな声と同時に、馬車が完全に停止した。
荷台から自分の荷物を引き取り、お礼を言って馬車を降りる。馭者は軽く顎を引いて応えると、すぐに次の荷物の整理へと戻っていった。仕事中の彼にとって、私は数いる乗客の一人に過ぎないのだろう。だがその淡々とした態度が、かえって私の心を、ここからは自分の足で歩くんだ、と引き締めさせてくれた。
足元を流れる水路からひんやりとした涼しい風が通り抜けていった。
見上げる空には、フェアモント領を象徴する雄大な山脈が白く輝いている。
噂通り、素晴らしい場所だ。
さて、と私は大きな荷物を持ち直す。
まずは今日泊まる宿と、これから住むための家を探さなければならない。
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