天才
三途の川をしばらく遡ると、まるで海水浴場と見紛うような広い砂地が現れた。
その中ほどで、さっきの少年が熱心に川の向こうを眺めている。
凛はゆっくりと近づき声をかけた。
「何を見ているの?」
「あ、お姉ちゃん!」少年はびっくりしたように振り向いた。「さっきは驚いたよ、あんな大男をやっつけちゃうんだもん!」
「あんな奴、大した事ないわよ。それより何を見ていたの?」
「川の向こう岸を見ようとしていたんだけど、何も見えない。これは本当に川なの?」
「これは三途の川と言ってね、死んだ人達が天国へ行く為に渡る川なの。生前良い行いをした人には向こう岸はすぐ近くに見えて、罪深い人には永遠の彼方に見えるのよ」
「じゃあ僕は罪深いの?」
「あなたはあなたのご両親より先に死んじゃったから、ここではそういう事になっているの・・・でも、あなたは許されて兜率天に行く事になった。私達はあなたをそこまで連れて行くように言われて来たのよ」
そこで初めて、少年は凛の後ろに目をやった。
「あ、おじちゃん!」
「そういう訳だ、坊主。暫くの間、お前は俺たちが守る、窮屈だろうが我慢してくれ」
銀鬼が笑いながら言った。
「ううん、でも良かった、さっき黒鬼のおじちゃんに、ここで待っていろって言われた時にはとても不安だったんだ。おじちゃん達で安心したよ」
「そうなのか?」
「うん、僕、死ぬ前もお父さんやお母さんとはお別れする所だったから」
「お別れとはどういう事だ?」
「僕、カリフォルニア大学バークレイ校の理論物理学科に入学するために空港へ向かう途中で事故に遭って死んじゃったんだ」
「えっ、その歳でか?お前ぇ幾つだ?」
「もうすぐ十二歳の誕生日だった、飛び級で東京の大学に通っていたんだけど、なんか呼ばれちゃって・・・」
「お前ぇ天才か?」
「さぁ・・・でも新聞なんかで騒がれてた気もする」
「す、すげぇな・・・」
「お父さんやお母さんは無事だったの?」
「うん、僕は助手席に乗っていたから、左から突っ込んできた車の直撃を受けちゃって・・・」
「その時、誰か迎えに来たでしょう?」
「黒いスーツを着たお兄さんが来たよ」
「名前言ってた?」
「107号だって、素数だから覚えてた」
「107号かぁ・・・」
「凛、知ってるのか?」
「ええ、先輩面したいけすかない奴」
「お姉さんも死神?」
「ええそうよ、一度クビになったけど」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「凛、お前ぇ人間を三人ほど復活させてクビになったんじゃなかったか?」
「そうだけど・・・」
「え〜、じゃあお姉さんに迎えに来て貰えば良かった」
「ははっ、そんな事をしたら二度と死神に戻れなかったかもね」
「でも僕、こっちに来て良かったと思ってるんだ」
「どうして?」
「自然科学だけじゃ解析仕切れない世界があるんだと分かったから」
「どういう事?」
「自然科学は反証できることだけしか扱わない、それ以外は全て無いものとして考えない。世界は全て自然科学で割り切れると思ってるんだ」
「へ〜、じゃあ私達のような存在も無いと言う事になるのね」
「科学者はたいていそう思ってるよ」
「ふ〜ん、科学者って偏狭なのね」
「いい人もいっぱいいるけどね。でも最近は量子力学というのが出てきて、今までオカルトやSFだと思われていたことも科学的に証明できると思われるようになってる」
「へ〜、どういう事?」
「たとえば『壁抜け男』」
「壁抜け?現世では私達は普通にやってるよ。まぁ、ここじゃ色々と制約があって出来ないんだけどね」
「人間の世界じゃ、そんなの常識じゃないんだよ」
「じゃあ、それどうやって証明するの?」
「理論上は、っていうことで実際に実験できる訳じゃないよ」
「それでもいいから、教えて」
「人の体も壁も素粒子でできているんだ、そしてミクロの世界で見ると、素粒子同士の間はスカスカの空間なんだ。たとえば素粒子をサッカーボールとして、運動場の真ん中に置くと、隣のサッカーボールは隣の学校の運動場にあるようなものなんだ」
「そんなに離れてるの?」
「実際はもっと離れているかもね。で、人間の体と壁がぶつかれば、確率的に何億回、何十億回、何百億回、もっともっと無限にやれば一度くらいは全ての素粒子がぶつかる事なく壁抜けに成功するはずだって」
「気の遠くなる話ね」
「もっとも、その前に人間の体が壊れちゃうから、事実上実験はできないんだけど」
「人間て面倒な生き物ね、私達が当たり前に出来ることも証明出来ないなんて」
「でも、今までは相手にもされなかった仏教や哲学の考え方を学ぶ物理学者も出てきているんだ」
「じゃあ、今から行く兜率天で弥勒様の説法を聴けば、あなたは凄い科学者になれるかもね」
「すっごく楽しみ!」
「きっと三途の川の渡場に着く頃には向こう岸が見えるようになっているわ」
「うん」
「ところで坊主、お前ぇ名前はなんて言うんだ?」
「田中健太、ケンタでいいよ」
「俺は銀鬼、よろしくな」
「私は216号、みんなは凛て呼んでるわ」
「それじゃ出発しようか、暗くなる前に三途の渡場に着かなきゃなるめぇ」
「そうね、出発しましょう」
三人は広い砂浜を、さらに上流に向けて歩き出した。
暫く歩いて、やっと砂浜が途切れると、今度はゴツゴツとした岩場に出た。
「これは厄介だな、いちいち岩を乗り越えて行かなきゃならねぇのか。ケンタ大丈夫か?」
「う〜ん、どうだろう・・・」
「大丈夫よ、ケンちゃんは私が抱えて飛ぶわ」
「凛、お前ぇ飛べるのか?」
「私は死神よバカにしないで!」
「い、いや別にバカにした訳じゃ・・・そうか、便利なものだな」
「でも、銀鬼を抱えて飛ぶのは無理よ、だって重そうなんだもの」
「バ、バカ、誰が抱えてくれなんて言った!お、俺は大丈夫だ、こんな岩乗り越えるくらい何でもねぇ」
「そう、じゃあ先に行って待ってるわ」
「ああ、そんなに時間はかからねぇ、一息ついてな」
「そういう訳だから、ケンちゃん行くわよ」
凛が健太を振り返ると、健太が大きな岩の上を見詰めていた。
「凛姉ちゃん、あの岩の上・・・」
「え・・・(凛姉ちゃんだなんて)」初めて呼ばれた自分の呼称に凛は微かに狼狽した。
「どうしたの?」
「え・・・な、なんでもないわ・・・どこ?」
気を取り直して健太の指さす方に視線を移すと、少し欠けた月が上空に見えた。
「月がどうかした?」
「ちがうよ、その下」
視線を下ろすと、何やら猿のような生き物がこちらを見下ろしている。
「何かしら?」
「おい、あっちにも居るぞ」銀鬼が別の岩の上を指して言った。
それを皮切りに、あちこちの岩の上に同形の生き物が次々と姿を現し凛達を凝視した。
「何だか嫌な雰囲気ね」
「そうだな、穏便に済みそうもねぇ」そう言って銀鬼は跪き、ケンタに背中を見せた。「ケンタ俺の背中に掴まれ、俺の首に腕を回して絶対に離すんじゃねぇぞ!」
「う、うん!」
一匹が岩を蹴り無言で凛達の前に飛び降りると、他の者達も一斉に岩から飛び降りて左右に広がるように移動した。
岩の上にいた時は分かりにくかったが、目の前で見ると体格は小柄な成人の男くらいで、鋭い牙を持ち、額には小さな角が一本生えている。
「あんた達、誰?」
凛が訊いたが返事が無い。
「凛、無駄だ。そいつらは悪鬼、ただ本能のままに目の前の獲物を狩って餌にするんだ」
「そう、だったらやるしかないわね」凛が右足を引いて構えた。
ケーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!
その途端、奇声を発して目の前の悪鬼が凛に向かって飛び掛かってきた。
「ヤッ!」
凛の前蹴りが悪鬼の腹に炸裂した。
悪鬼は鞠のように吹っ飛んで、岩にぶつかって落ちた。
それを合図に周りの悪鬼が一斉に三人に襲いかかる。
「うおりゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
銀鬼の腕の一振りで、悪鬼が数匹弾き飛ばされて動かなくなった。
「ふん、他愛のねぇ」
「銀鬼、油断しないで!岩の上から新手が降りてくるわ!」
凛の指摘通り新手の悪鬼が次々と岩の上に湧いてくる。
そうしている間にも、悪鬼は凛達を襲い続ける。
倒しても倒しても、悪鬼達は飽く事なく襲いかかって来る。
「こりゃキリがねぇ!」
「おじちゃん、あそこ!」
銀鬼の背中から健太が声を上げた。見ると小さな洞窟が口を開けている。
「よし、あそこなら敵の攻撃を一方向からに絞れる」
銀鬼は横から襲ってきた悪鬼を蹴り倒しておいて凛に向かって叫んだ。
「凛、左の崖を見ろ、洞窟が見えるか!」
凛は正面の悪鬼の脳天に手刀を撃ち下ろして叩き伏せると答えた。
「見えるわ、あそこに飛び込むのね!」
「そうだ急げ、このままじゃ囲まれっちまう!」
「了解!」
纏わりつく悪鬼どもを、振り払いつつやっとの思いで洞窟の入り口に辿り着く。
「銀鬼、先に行って!」
「お前ぇはどうすんだ?」
「ここで悪鬼達を足止めしておくわ、少しでもケンちゃんを安全な場所まで連れて行って!」
「分かった、無理はするなよ」
「分かってる!」
銀鬼が洞窟の中に消えると、凛は入り口を塞ぐように立ちはだかった。
「さあいらっしゃい、まとめて面倒見てあげる!」
凛は素早くポケットから手のひらサイズの鎌を取り出してフッと息を吹きかける。
鎌はたちまち大鎌に姿を変えた。
「ここからはただの怪我じゃ済まないわよ!」
悪鬼達は一瞬躊躇したように動きを止めた。
だが次の瞬間、一斉に凛に飛びかかって来た。
凛の大鎌が一閃する。
飛びかかって来た悪鬼の首が飛んでゴロゴロと転がった。
押し寄せて来た悪鬼達が後退りを始める。
「命が惜しかったら、さっさと退散しなさい!」
凛が大声で一喝し、ずいと前に出る。
一度下がり始めた悪鬼達は、もう前に出る気力が失せたのか、我先に潮の退くように岩の間に消えていった。
「ふぅ、終わったかな。こんなんケンちゃんには見せられないもんね」
凛は洞窟を振り返る。
「さて、銀鬼とケンちゃんはどこまで行ったかな?」
「おじちゃん、真っ暗だね・・・」
「ああ、俺は半分鬼だから暗いところでも平気だが、ケンタは何にも見えねぇんだろうな」
「うん、何にも見えない」
「この穴は奥へ行くほど広くなっていきやがる、それにうっすらとだが光を感じる、この先に出口があるのかもしれねぇな」
「そう言えば風の流れも感じるね」
「おっ、鋭い。学者ってのは観察眼も鋭くなくちゃならねえんだな」
「うん、人の気がつかない事に気が付かなくちゃ、新しい発見はできないよ」
「そりゃごもっともだ・・・」
そこで急に銀鬼が立ち止まる。
「どうしたの、おじちゃん?」
「しっ、何か聞こえねぇか?」
健太は銀鬼の背中の上で耳を澄ませた。
「何か重いものを引きずるような音がする、それに何だか生臭い」
「そうか、お前ぇもそう思うか」
「うん」
「この先に何かいる、慎重に進もう」
「お姉ちゃんは大丈夫かなぁ?」
「凛なら大丈夫だ、この俺より強いんだぜ、すぐに追いついて来るさ。その前に音の正体を突き止めておきたい」
銀鬼はそっと健太を背中から下ろした。
「ケンタ、ここで待ってろ」
「分かった」
銀鬼は足音を忍ばせて、一人で洞窟の奥に入って行った。
健太は手探りで壁を伝って少し後戻った。後から来るであろう凛を待つ為だ。
しばらく行くと、洞窟の天井と思しき辺りで二つのオレンジ色に光る物を見た気がした。
「あれ、なんだろう?」
目を凝らしてみても、もう光は見えなかった。
「気のせいか・・・」
気を取り直してもう少し戻ってみる事にする。
その時、目の前でどさりと物の落ちる音がした。全く見えてはいないのだが、その物が蠢いている気配がする。
「な、なに?」
健太はズリズリと後退る。
またオレンジ色の光が光った。しかし、今度は消える事は無い。それは、爬虫類の眼のように悍ましい物だった。
「うわ〜!!!!」
健太は闇雲に走り出した。だがすぐに洞窟の壁にぶつかって転倒する。
「アイタタタタ・・・」
オレンジ色の目はゆっくりとケンタに近付いて来た。
「ぼ、僕なんか食べても美味しくないよ!・・・あ、あっちへ行け!!!」
もちろん健太の願いが聞き入れられる筈もなく、オレンジ色の目を持った生き物はすでに目の前まで来ていた。
グワァ!!!!
その生き物が突然呻き声をあげたと思ったら、周囲が急に明るくなって健太は眩しさに目を細めた。
その光の中に凛の姿があった。
「あ、お姉ちゃん!」
健太は凛に駆け寄ろうとして何かを踏んづけた。
見ると大人の身長ほどもありそうな山椒魚が頭から血を流して事切れている。
「あわわわわわわ・・・・・」
慌てて後退ったので、健太は尻餅をついてしまった。
「ケンちゃん大丈夫!」
「う、うん・・・・ちょっとびっくりしただけ」
健太はあらためて凛を見た。
「お姉ちゃん、後ろのそれ、何?」
凛の背後には怪しく光る玉が浮かんでいる。
「ああ、これは狐火、玉藻という妖狐の置き土産よ」
「置き土産?」
「うん、まあ色々あってね。話せば長くなるわ。それより銀鬼は?」
「この先に何か動くものの気配がしたんだ。おじちゃんはそれを調べて来るって・・・」
「一人で行っちゃったの?」
「うん」
「ケンちゃんを置いて?ほんとしょうのない人ね」
「そんな事ないよ、僕がじっとしていなかったから悪いんだ」
「ケンちゃんは銀鬼が好きなのね」
「うん、大好きだよ」
「ふ〜ん・・・」
凛が腕を組んで鼻を鳴らした時、洞窟の奥から叫び声が聞こえた。
「ケンタ逃げろ!洞窟の入り口に向かって全速力で走るんだ!」
「あ、銀鬼のおじちゃんの声だ!」
「何かあったようね」
「僕、行ってみる!」
「待ちなさい、銀鬼が逃げろって言ってるのよ!」
「嫌だ!」
「私が行くから、あなたはここで待ってるの!」
「僕も行く!」
その時、天井から何かがボタボタと落ちてきた。銀色の狐火に照らされたそれはヌメヌメと飴色光っている。
「こいつの仲間だわ、一体何匹いるの!」
無数の山椒魚が洞窟の床面を埋め尽くすように蠢いている。
「仕方がない、ついておいで!」
凛は健太の腕を掴むと、身を翻し洞窟の奥に向かって駆け出した。
狐火のお陰で躓く事も壁にぶつかる事もなく走る事ができる。狐火は凛の頭の上で行く先を照らしてくれていた。
洞窟は徐々に広くなっていったが。そこの先で凛達の見たものは、信じられない光景だった。
何者かが洞窟を塞いでいる。それは優に3メートルはあろうかという巨大な山椒魚が、後ろ足で立ち上がって歩いて来る姿だった。それを銀鬼が必死で押し留めていた。
「銀鬼のおじちゃん!」健太が叫んだ。
「馬鹿野郎!なぜ出口に向かわねぇ!」
「あっちも塞がれた!」凛が言った。
「なに!」
「もう前に進むしかない!」
「むぐぐぐぐ!!!!!」
銀鬼が両足に力を込めると、大山椒魚の前進が少し弱まった。
「凛!今のうちにケンタを連れて奥へ進め!」
「私も戦う!」
「馬鹿!ケンタを守るのが先だろう、早く行け!」
「分かった・・・ケンちゃん行くわよ!」
「でも・・・」
「銀鬼なら大丈夫、私について来て!」
「う、うん・・・」
凛は壁際スレスレに大山椒魚の横をすり抜けようとした。
その時、大山椒魚の目がギロリと凛を捉える。
大山椒魚は尾鰭を思い切り凛にぶつけて来た。
「キャァ!」
凛は咄嗟に両腕をクロスさせてそれを防いだが、元いた場所まで跳ね返されてしまう。
「痛いわねぇ!」
「お姉ちゃん、あれ!」
唇から流れる血を拭いながら立ち上がった凛に、健太が言った。
見ると小さな(と言っても人の背丈ほどもある)山椒魚がウネウネと蠢きながら迫っていた。
「こうなったらやるしかないわね!」凛は大鎌を振り上げて構えた。「そっちは任せた、私は後ろの奴を片付ける」
「了解だ!」
銀鬼は全身の筋肉を膨らませて大山椒魚を押し戻し始めた。
凛は背後から迫る小型の山椒魚に向き直る。
「ケンちゃん、私の後ろから離れないで!」
「分かった!」
床を埋め尽くす山椒魚たちの動作は意外に素早く、いきなり先頭の敵が凛に飛びかかってきた。
凛は壁や天井に大鎌をぶつけないように、慎重に刃を振るって斬り落とす。
するとすぐ次の奴が飛びかかってくる。
凛は次々と飛びかかって来る敵を大鎌で斬り払い斬り落とした。
敵の攻撃力はそれほど高くはない。しかしその数は圧倒的だ。しかも倒した敵の血で足元が滑りやすくなった。
凛はジリジリと後退せざるを得なかった。




