ーーーー 路地裏の賢者 ーーーー
「おや、旅人の兄さん。今日は宿の方じゃなくて、こっちで飲むのかい?」
「やあ、ベルン。俺も男だからな。たまには、美女の注いだ酒が飲みたい日もあるさ」
その日の夜。俺は宿から少し離れた路地裏にある、小さなバーを訪れた。
妙齢の女店主であるベルンは、長い黒髪と彫りの深い顔立ちが特徴的な美女だが、癖が強い事で有名で、狭い店内はいつも客が少ない。今日も、俺一人だけだった。
「アタシにおべっかは効かないよ。どっかの小娘とは違ってね」
「生憎と、俺は嘘で女を褒められるほど器用じゃ無い。もしそうなら、とっくに恋人の一人くらい居るよ」
「下手な嘘は言わなくても、気持ちは込もって無いだろう? それとも、本気でアタシを口説きに来たのかい?」
「……敵わないな、まったく。どの道、俺じゃベルンには釣り合わないさ」
「それはどうかね……。まあ良いさ。飲むのはいつもの?」
「ああ。頼む」
俺は表情の選択に窮しながらも、結局下手くそな苦笑を浮かべて頷いた。
この街に来たのは仕事の為だが、このバーへ来る時は、少し気を緩めている。
初めて此処を訪れた時は、他と同様に情報源の一つ程度に考えて、店の戸を叩いた。
けれど、今の僅かな会話でも分かる通り、ベルンは一筋縄ではいかない。それどころか、こちらの全てを見透かしているのではと思うほどの、慧眼の持ち主だ。
これまで旅した中でも、彼女のように俺程度では到底太刀打ち出来ない、一枚も二枚も上手な者達とは幾度も出会った。それが経験に裏打ちされた観察眼によるものなのか、それとも超常的な何らかの特殊能力による物なのかは分からないが、何れにしても、勝てない者に勝負を挑むのは愚策だ。
「どうぞ。今日は水割りじゃなくてロックにしといたよ」
酒場で飲んでいる物と同じ、琥珀色の安酒で濡れた氷が、まるで宝石のように輝いて見える。グラスの中でいつもより濃厚に漂う香りが、口に含む前から思考を痺れさせた。
「手厳しいな。さっさと酔わせて帰らそうとしてるのか?」
「さっさと帰って寝るつもりなら、ウチには来ないだろ。キツい酒が飲みたそうな顔してたから、そうしてやったのさ。アタシもこの酒は安い割に悪くないと思ってる口だからね。ロックでも十分楽しめる。どうしても欲しいなら、水も出してやろうか?」
挑発的にそんな風に言われれば、こちらは肩を竦めるしかない。
「いや、せっかくだ。このまま頂くよ」
「それが良い。ピリ付いたままじゃ、素直に弱音も吐けやしない」
「っ! ……はは。その通りだ」
俺は改めて白旗を上げ、ロックグラスを乾杯の真似事をするように顔の前に掲げた。するとベルンもまた、酒をロックグラスに注いで、同じように軽く顔の前に掲げる。
示し合わせたように琥珀色の液体を口に流し込めば、漏れる吐息もまた同様、熱く深い物だった。
「はぁ……美味い」
「まったくだね。あんたは若い割に、酒の趣味が良いよ」
金を払う客と、金を受け取る店主。本来ならこちらが多少なりとも偉そうにする所なのだろうが、ベルンに子供扱いされるのは、不思議と悪い気がしない。
「それで? 今日は何を聞いて欲しいんだい?」
俺がもう一口酒を含み、ゆっくりと味わって飲み下したのを確認すると、ベルンは徐にそう問いかけて来た。彼女は分かっているのだ。俺がここに来るのは、思考を整理したい時、自分自身にどうしたいのか問いたい時だと。
「ベルンは人を見る時、何を最も重要視してる?」
「それは時と場合によるね。恋人を選ぶ時、友達になる時、客と話をする時。悪い男でもアタシにとって魅力的なら、一晩くらいは相手することもあるし、どんなに大金持ちで金払いが良い客でも、気に入らなきゃ追い出す時だってある」
ベルンはとても分かりやすく、噛み砕いて言葉を選んでくれる。
クセが強いと嫌厭する者も多いが、彼女は他人よりずっと思慮深く、知性が豊かなのだ。だからどうしても、彼女と比べて自分が小さく見えてしまう。
けれど、その劣等感を受け入れさえすれば、幾万冊の蔵書が自ら意思を持って話す書庫のような頼もしさが、彼女にはあった。
「なら、切り捨てる相手を選ぶ場合は? それも、流れが悪ければ相手が命を落とすような場面で」
「物騒な話だねぇ。……けど、極端な結果だからこそ、選ぶ基準は単純さ」
物騒と言いつつ、ベルンはどこまでも落ち着き払った様子で、迷う事なく自身の答えを口にする。
「アタシにとって必要か否か。それだけさ」
「………」
嗚呼……と、何処か落胆したようなほろ苦さと同時に、思考を堰き止めていたゴミが綺麗さっぱり取り除かれたような爽快さを、俺は味わっていた。
まるで酒の味みたいだ……なんて、柄にもなく下手な詩みたいな独り言を声に出さず呟く。
「そもそも他人様の命を心配しようなんて、傲慢も良いとこだよ。直接殺すってんなら別だが、アンタの行動の結果、運が悪けりゃ死ぬかもしれないなんて、考えるだけ無駄さ」
「そう、なのかな……」
答えなどとうに出ているのに、捨て切れない青臭さが無意味な言葉を吐かせた。
けれどベルンは、そんな俺の空虚な葛藤を切り捨てず、根気良く付き合ってくれる。
「生きる為に狩をして獲物を仕留めれば、獲物は死ぬし、他にその獲物を狙ってる奴が居れば、そいつが飢えて死ぬかもしれない。けど、そんなもんは狩をしない理由にはならない。命を食わなきゃ人は死ぬし、飢えて死ぬのはそいつ自身の責任だ。そうだろ?」
「………その通りだ。だけど俺は、どうしても割り切れない。獲物も、飢えて死ぬ奴も、好きで他人より弱く生まれた訳じゃない。奪われる為に、生まれて来た訳じゃない」
情けない、と思う。奪わなければ奪われる。それは真理であり、少し前までの俺には奪うことを躊躇う余裕なんて無かった。奪われないようにする為には、そうするしか無かったから。
けれど、今は違う。俺自身が強くなった訳では無い。ただ、俺は奪う“力”を持ってしまった。
だからこそ、迷い、躊躇う。……奪われる者達を、かつての自分と重ねてしまうから。
「なら、アンタは立ち止まるのかい?」
黒真珠のように艶めく漆黒の瞳が、俺の荒野のような灰色の瞳を射抜く。
「っ! ……いや、それだけは有り得ない」
あまりに真っ直ぐで美しいその眼差しに身震いするのを堪えて、俺は首を横に振った。
虚勢かもしれない。けれど、揺らぐことの無い本心でもある。
「そうかい……。じゃあこれは、アタシから前払いの慰めだ」
そう言うと、ベルンはゆっくりと一口酒を飲み下し、再び口を開く。
「アンタが何もしなかったからって、そいつがずっと幸福で安全に生きられる訳じゃない。逆にアンタが何もしなかったら、もっと沢山の奴らが不幸になるかもしれない。狩りってのは、自分の食い扶持だけじゃなく、家族や群れを生かすためにやるもんだ。そうだろ?」
「………ははっ。全くだ。ありがとう。お陰で今日はよく眠れそうだよ」
俺はそう言って残りの酒を呑み干し、多めの代金をテーブルに置く。酒一杯の代金では釣り合わない言葉を、沢山貰った。
「何だい。もう帰るのかい?」
「ああ。これ以上ここに居たら、未練が残る」
それは俺なりの、別れの挨拶だった。恐らく、もうこの店を訪れる事は無いだろうから。
「そりゃあ残念だ。……まあ良いさ。餞別じゃ無いが、安宿のベッドが寒くなったたら、アタシの所に来な」
「え……?」
冗談めかしていながらも、その眼差しに宿った本気の熱に、俺は思わず目を丸くする。
「言っただろ? “悪い男でも魅力的なら、一晩くらいは相手してやる”って」
妖艶なうなじを見せつけるように首を傾げたベルンの色気に当てられて、俺はゴクりと喉を鳴らした。
「ま、参ったな…………考えておくよ」
「ふふっ。楽しみにしてるよ」
甲斐性の無い返事をした俺に、ベルンは茶目っ気たっぷりに片目を閉じて小さく手を振った。
全くもって、彼女には敵わない。やはり勝てない相手には勝負を挑まず、その力を利用させて貰うに限る。
彼女の深い思慮と知性を借りて、俺は同情と言う名の傲慢を、切り捨てた。
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