ーーーー 酒場の娘 ーーーー
夜中に散歩していたにも関わらず早朝に目が覚めてしまった俺は、まだ準備中の酒場の方へ降りた。
「おはよう、リリーナ。こんな朝早くから、もう店の掃除かい?」
その途中で、床を清掃中だった看板娘に声を掛ける。
「え? ……ああ、アンタか。そうよ。悪い?」
ろくに挨拶も返さず気だるげに返事をした彼女は、すぐに俺から視線を外して掃除に戻った。
今朝の彼女は給仕服をきっちり着こなしている営業中とは違い、丈の短い麻のズボンに大きめなシャツ一枚と言うラフな格好だ。
いつもリボンで丁寧に結えているピンクブロンドの髪も、今はカチューシャで額を出して後ろに流しているだけ。酒場に通うだけでは見られない、良くも悪くも気の抜けたその格好を拝めるのは、宿の利用者の役得なのかもしれない。
「……何よ?」
「ん? ああいや、今日のラフな格好も似合っているなと思って」
「はっ、はぁっ!? 朝っぱらから何盛ってんのよ!?」
何の気無しに思ったままの感想を口にしたつもりだが、どうやら不味かったらしい。
シャツの裾を必死に引っ張って太ももを隠そうとする彼女は、人に懐かない野良猫のように釣り上がった目でこちらを睨んでいた。
「悪い。そんなつもりは無かったんだが……。そうだ、コーヒーを淹れてくれないか? チップは弾むよ」
「お、お金で釣ろうって言うの? 小遣いやるからもっと見せろって?」
「だから、そういう意味じゃ無い。眠気覚ましに飲みたいだけだ。飲み過ぎたのか、昨日は寝付きが悪くてな。チップは謝罪の気持ちも込みで受け取ってくれ。俺の視線が気になるなら、壁の方でも向いて飲むからさ」
若干うんざりしながらそう言うと、流石に下心が無い事は伝わったのか、リリーナも落ち着いた様子を見せる。
「……別に、そこまでしなくて良いわよ。よく考えたら、アンタに見られた所で減るもんじゃ無いし。カウンター、もう掃除終わってるから。座れば?」
「はは、ありがとう。助かるよ」
俺は苦笑しながら、勧められるままカウンターに腰掛ける。向こうに見えるヤカンの口は、既に湯気を立てていた。
彼女は慣れた手つきで豆を挽き、粉になったそれを匙で多めにフィルターに乗せ、ゆっくりとお湯を回し掛けながら、カップでは無くデキャンタに注ぐ。
「私も横で飲むけど良い? 元々、そのつもりだったから」
「勿論」
余計にチップを弾まなきゃな、なんて軽口が出そうになったが、さっきの二の舞になっても困るので頷くだけに止めた。
彼女はデキャンタからコーヒーを二つのカップに注ぐと、一つを俺の前、もう一つを隣の席に置く。
カウンターから出て来た彼女が腰を下ろすと、どちらからとも無くカップに口を付け、少しの間無言の時間が過ぎた。
「……私も、今日寝不足なんだよね」
やがて徐に、彼女の方から口を開いた。
何となく、理由を聞いて欲しいのではないかと思い、俺は当たり障りの無い言葉を選んで問いかける。
「随分と朝早くから掃除してたみたいだもんな。親父さんに頼まれたのか?」
「うんう、そう言う訳じゃ無いけど……。あ、あのさ、アンタって、もしかして結婚してたり、将来を誓った恋人とか、居る?」
また唐突に話が飛んだな……と思ったが、彼女が何を言いたいのか、その輪郭が朧げに見えて来て、俺は眉を顰めそうになるのを堪えながら、何でもない顔で答える。
「残念ながら、見ての通りしがない旅人なもんで。一応帰る場所はあるが、その手の相手にはとんと縁が無いよ」
「そ、そっか。ふ~ん……。じゃあ、もしそう言う相手が居たとして、その……他の女とも、寝たいとか、思う?」
「おいおい……。俺はそんなに軽薄そうに見えるか?」
冗談めかして問い返した物の、予想通りの話の展開に、俺は思わず彼女からは見えないカウンターの下で拳を握り締めた。
「アンタがどうこうとかじゃ無くて、一般論としてよ。別にアンタの話じゃなくても良いけど」
「どうだろう……。まあ結婚生活が長くなると、相手をそう言う目で見れなくなるって話は、酒の席で男女共によく聞くよ。性欲を持て余していて、“都合の良い相手”がたまたま側にいたら、流される事もあるのかもしれない。……なんて、知ったような口を利いてるが、俺はそもそも浮気以前に恋人を見繕う所からだけどな」
最後におどけて見せつつも、俺は核心を突く言葉を潜ませて、彼女の様子を伺う。
「……やっぱり、そうなんだ」
俺に向けてと言うより、自分を納得させるように呟かれたその言葉で、不快な想像が現実だった事を俺は悟った。 正直、これ以上は耳を塞ぎたかったが、俺には全てを聞く義務と、責任がある。だから、まだこの仮面は外さない。
「あんまり気分が良く無さそうだな? 俺で良かったら、話を聞くぐらいは出来るぞ? こう見えても、口は堅い方だ」
「………本当に、誰にも言わない?」
「ああ。『女王アルメリア』に誓って」
この国に於いて、女王の名は神と同列、或いはそれ以上に偉大だ。いかに軽薄な者でも、まともな人間ならそう易々とその名を騙って誓いの言葉など口には出来ない。……正直、俺はそんな大層なもんじゃ無いと思っているが。
「ふ、ふ~ん? そこまで言うなら………えっと、アンタさ、よくうちのお酒は質が良いって褒めてくれるでしょ?」
「ああ。同じ安酒でも、他の店で飲むよりずっと美味く感じる」
「……そのお酒の管理なんだけどね、食材もそうだけど……実は、奴隷にやらせてるの」
嗚呼、やはりそうか。と、改めて全てが腑に落ちる。
俺が喜んで飲んでいたあの酒は、夜中までこき使われている奴隷の、あの少女の犠牲の上に質を保っていたのだ。 それは分かり切っていた事実で、割り切っていたつもりなのに、臓腑を締め付けるような吐き気が容赦無く俺を襲う。
「へぇ。まあ、裏方仕事を奴隷にやらせるのはそう珍しい話じゃない。この酒場は人気だし、儲かってるなら奴隷の一人や二人くらい買っててももおかしく無いよな」
それでも、俺は喉元まで這い上がって来る昨日飲んだ酒を無理やり追い返し、涼しい顔で“普通の人間らしく”相槌を打つ。……長年似たようなことを続けていれば、慣れるものだ。
「そうなんだけど……うちが“飼ってる”奴隷、両方女の親子なの。それで、昨日は子供の方が夜中の仕事で何かしくじったみたいでさ。たまたま遅くまで店で晩酌してた親父がそれに気づいて、怒鳴り出しちゃって」
『買う』では無く、『飼う』。言葉の意味が異なることはニュアンスですぐ気付いたが、指摘はしない。
「ああ、だからリリーナは寝不足なのか。それで?」
話の続きを、心を空っぽにして促す。聞きたくない。だけど、聞かなければならない。
「うん。普段はちょっとした失敗くらいなら、引っ叩くか食事を一回抜くくらいで済ませてるんだけど、昨日は親父も酔っ払ってたから……その、普段より酷かったみたいで……。様子がおかしいことに気づいて一応見に行ったら、丁度、母親の方の奴隷が娘を庇って親父の前に飛び出した所でさ。それで、最初は同じように怒鳴り散らして、酒瓶で殴ったりしてたんだけど……途中で何を思ったのか、母親の方の奴隷を引き摺って、自分の部屋に連れて行ったの。そ、それでっ………!?」
俺はリリーナの肩に手を置き、神妙な顔を作って、首を横に振る。
「リリーナ。もう分かった。もう、話さなくて良い」
「っ、ごめん、こんな話、いきなり……」
狙い通り誤解してくれたようだが、別に、彼女の為に止めた訳じゃ無い。
ただ、これ以上は自分を抑制出来る自信が無かっただけだ。情けないことこの上無いが、ここでタガを外して、全てを台無しにするわけにはいかない。
「……良いんだ。親父さんだって毎日遅くまで働いてるんだし、酒に呑まれて魔が刺す日だってあるさ」
俺は労るように彼女の背中を優しく摩る。……だが、そこに彼女を慮る気持ちなど、欠片も無い。ただ必要な作業として、そうしていた。
「うん……。うちのお母さん、病気がちでさ。今はもうお店にも立てなくて、殆ど寝たきりなんだ。親父はいつか治るっていつも笑って言ってるけど、心のどこかで、もう面倒を見るのに疲れてるのかもとか、そんな風に考えてたら不安で寝れなくなっちゃって……」
「そうだったのか。俺に出来ることがあったら、何でも言ってくれ。なんて、格好つけても、今はチップを弾むくらいしか思い付かないけどな」
「何よそれ。馬鹿ね。でも、ありがと。聞いてもらったら、ちょっとだけ気が楽になったわ。お礼に、このコーヒーは奢りにしといてあげる」
そんな風におどけ返して、彼女は柔らかく微笑む。
彼女を目当てに酒場に通う男達が見れば、即座に求婚を申し込んだであろう、少しだけ大人びた笑み。
………だが、俺はそんな呑気な感情とはかけ離れた自身の内に渦巻く黒く澱んだ激情を抑える為に、ただただ思考の沼に意識を沈めていた。
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