仮初の安らぎ
※心身ともに重い描写を含みます※
本話は、つらい出来事の中で過ごす、束の間の時間を描いています。
※本作は『皇女の帰還―約束の耳飾り―』の前日譚にあたる外伝です。
※本編をお読みになってからの閲覧をおすすめいたします。
※本編よりも重い描写やつらい場面が含まれる場合があります。該当する話には、前書きにて個別に注意書きを記載いたします。
「おはようございます。今日はいいお天気ですよ」
フェルネスは毎朝、カトリーナの部屋を訪れるのが日課になっていた。
カトリーナは、ゆっくりとフェルネスに抱きつく。
「……おはようございます」
そのまま、そっと額を寄せた。
フェルネスは驚くことなく、やさしく微笑む。
「今日の気分はどうですか?」
「はい……だんな様が来てくださると、安心します」
「それなら、よかった」
――その呼び方も、もう訂正しなかった。
あれから数か月が経ち、カトリーナの腹はわずかに膨らみ始めていた。
つわりも落ち着き、身体の傷はほとんど癒えている。
だが――
心の傷は、別の形で現れていた。
「フェルネス様の子でございます」
そう言い出したのだ。
アルフレッドは静かに言った。
「現実から目を逸らすための、心の防衛だ。気にするな」
だがフェルネスは首を振る。
「……私でよければ」
まっすぐに言った。
「それでカトリーナ殿が安心できるなら、それで構いません」
フェルネスは、男女の仕組みについては知識として理解していた。
だが、それはあくまで“知識”であり、現実としての意味はまだよくわかっていなかった。
ただ――
カトリーナが、どれほど傷ついたのかだけは、ぼんやりと理解していた。
そして、元々抱いていた淡い想いもあって――
拒む理由が見つからなかった。
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フェルネスは、時折訪れる王太子妃アンドレアに尋ねた。
「妊婦には、どう接すればよいのでしょうか」
必死だった。
「ロザーリア姉上に聞いても『わからない』と言われますし、クラウスもエリアス義兄上も逃げてしまいます。医師は『関わらなくてよい』と……」
「誰も教えてくれないのです」
アンドレアは、やさしく微笑んだ。
「正解はありません」
静かに言う。
「相手が何を望むかは、その人にしかわからないのです」
「ですが――」
少しだけ声を和らげる。
「大切にしたい、というお気持ちがあるのでしょう?」
フェルネスは強くうなずいた。
「それだけで、十分です」
アンドレアの瞳はやわらかかった。
「無理に大人になろうとしなくていいのですよ。
フェルネス様は、まだ十歳なのですから」
「できることと、できないこと。
その見極めだけは忘れないでください」
フェルネスは、少し考えてからうなずいた。
「……はい。ありがとうございます」
その理解が、どこまで届いているのかはわからなかったが――
その言葉は、確かに彼の中に残った。
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カトリーナの腹は、少しずつ大きくなっていく。
「……今、動きました」
「ほお……中で動くのか」
フェルネスはそっと手を当てる。
「……本当だ。不思議だな」
二人は並んで座り、静かな時間を過ごす。
その姿だけ見れば――
穏やかな夫婦のようだった。
だが実際には、まだ幼い少女と、十歳の少年である。
「無事に生まれてくるといいですね」
フェルネスが言う。
「どちらでしょうか」
カトリーナは微笑む。
「フェルネス様に似た男の子がいいです」
「いや、そなたに似た女の子がいい」
そんな会話を、何度も繰り返した。
昼は散歩をし、
本を読み、
侍女から育児の話を聞く。
夜は「おやすみなさい」と言って別室へ戻る。
その穏やかな時間を――
周囲の大人たちは、複雑な思いで見つめていた。
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「……生まれてくる子の瞳の色と髪の色は決まっている。
王家の血筋だからな」
エリアスが低く言った。
拳を握りしめている。
ロザーリアが口を開く。
「……他の子と入れ替える、というのは……」
だが、すぐに首を振った。
現実的ではない。
「……本国は何と?」
クラウスが問う。
「カトリーナ次第、だそうだ」
エリアスが答えた
「婚約は正式に認められた。でも……子供は別の者が育てるしかない」
「この二人には、まだ早すぎる」
沈黙が落ちる。
「……本当にフェルネス様の子であれば」
アンドレアが小さく言った。
「私たちが引き取れたのに……」
王太子夫妻には、まだ子がいなかった。
「……元国王の血だ」
エリアスが言う。
「軽々しく扱えるものではない」
「……今は、見守るしかないわね」
ロザーリアの声も沈んでいた。
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やがて――
カトリーナに陣痛が始まった。
ロザーリアが付き添い、手を握る。
クラウスは、フェルネスを遠くの討伐へ連れ出した。
――見せないために。
エリアスは飛行魔獣で駆けつける。
公爵夫人も同行していた。
産室には医師が集まり、緊張が走る。
この子の存在は、決して外に漏れてはならない。
「……フェルネス様……」
時折、カトリーナの声が漏れる。
エリアスは目を閉じた。
長い、長い時間だった。
苦しみの声が途切れるたびに、誰もが息を詰める。
そして――
二日後。
小さな産声が、ようやく響いた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この時間が、彼らにとってどれほど大切なものだったのか――
次話で描かれていきます。




