第10話:溶ける形
鏡の中で、自分がほどけていくのがわかった。
水の音がした。
けれど、それは流れていない。
滴る音でも、波の音でもなく、そこにある音だった。
こねずみは、家の奥へ、ひとりで来ていた。
夜のともだちは、ついてこない。
来ない、というより、来る必要がない、という距離。
壁の奥に、小さな鏡があった。
丸くて、少し曇っている。
覗き込むと、自分がいる。
……はずだった。
最初は、ちゃんと、こねずみだった。
耳も、目も、しっぽもある。
それなのに、見ているうちに、境目が、わからなくなる。
輪郭が、ゆっくり、水に溶けるみたいに、揺れる。
怖くは、なかった。
むしろ、楽だった。
張りつめていたものが、ほどけていく。
名前も、役目も、思い出も。
どれも、重かったのだと、今になって、わかる。
──このまま、なくなってしまえば。
そう思った瞬間、胸の奥が、すっと軽くなる。
それは、救いに近い。
でも。
鏡の中で、目だけが、残った。
消えない。
溶けない。
こちらを、見ている。
その目は、問いを持っていない。
ただ、ここにいる、という事実だけを、残している。
こねずみは、一歩、下がる。
床の感触が、急に、はっきりする。
木の冷たさ。
わずかな、ささくれ。
触れた瞬間、胸の奥が、ちくりとする。
痛み。
それは、戻ってくる感じだった。
ふくろうの気配が、背後にある。
振り向かなくても、わかる。
ふくろうは、止めない。
止めないまま、見ている。
それが、一番、重い。
「……」
こねずみは、何か言おうとして、やめる。
言葉にした瞬間、この感じは、壊れてしまう。
鏡の中で、形は、また、揺れる。
溶けるか、戻るか。
どちらでもない、あいだ。
夜は、そのあいだを、許している。
だから、怖くない。
でも、安心しすぎると、そのまま、沈んでしまう。
こねずみは、目を閉じる。
閉じても、鏡は、消えない。
内側に、残る。
──とける、ということは、消えることじゃない。
なぜか、そう思った。
形が、ほどけるだけ。
ほどけたあと、どうなるかは、まだ、わからない。
ふくろうが、小さく、羽を鳴らす。
音は、合図ではない。
注意、に近い。
今夜は、ここまでだ。
こねずみは、鏡から、目を離す。
床に、小さな水滴が、落ちている。
触れると、冷たい。
でも、確かに、自分のものだ。
それだけで、胸の奥に、少し、重さが戻る。
夜は、溶かす。
溶かすけれど、全部は、奪わない。
それが、この家の、やさしさだ。
そして、危うさだ。
こねずみは、その両方を、抱えたまま、部屋を出た。
鏡の中で、自分の形は、まだ、揺れていた。
完全には、戻らない。
完全には、消えない。
夜は、その状態を、許したまま、静かに、息をしていた。




