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69話 甘い囁き

「陽。」


リーナの声が響く。


陽が僅かに顔を向ける。


リーナは笑っていなかった。


壁に激突したゼルファーから、一度も視線を逸らしていない。


「構えを解かないで。」


「……。」


「あれで終わる相手じゃない。」


陽は再び右腕を構える。


「……ああ。」


セレーナも同じだった。


喜ぶ様子はない。


むしろ――


その表情は先ほどより険しくなっていた。


「陽……。」


「どうした?」


セレーナはゼルファーを見ていない。


その視線は――


結界の向こう側。


「また……濁ってる。」


「……!」


「さっきより、ずっと強い。」


足元を流れていた水が小さく波打つ。


一度。


二度。


ドクン――


まるで何かの鼓動に呼応するように。


カイがゆっくりと深層部へ視線を向ける。


「……おいおい。」


先ほどまでの飄々とした表情が消える。


「こっちも時間がなさそうだぞ。」


その時。


瓦礫の崩れる音が響いた。


ガラッ――


全員の視線が戻る。


その中から。


ゆっくりと人影が立ち上がった。


ゼルファーだった。


口元から一筋の血が流れている。


それを親指で拭い、静かに見つめる。


「……なるほど。」


先ほどまで浮かんでいた余裕の笑みは消えていた。


「確かに。」


顔を上げる。


「少しは成長したようだ。」


「少しじゃねえよ。」


陽は構えを崩さない。


ゼルファーの瞳が冷たく細められる。


「ならば――」


両腕を広げた。


グンッ――!!


「ぐっ……!」


陽の身体が沈む。


先ほどまでとは違う。


骨が軋む。


肺が押し潰される。


立っているだけで、全身が悲鳴を上げる。


「陽!」


リーナも剣を地面へ突き立て、必死に踏みとどまる。


「くっ……!」


ザガートが再び片膝をつく。


レオンも魔剣を地面へ突き刺した。


「さっきより……重い……!」


「みんな!」


セレーナが両手を広げる。


銀色の羽が強く輝いた。


「光の精霊よ――皆を守って!」


淡い光が陽たちの身体を包み込む。


だが――


「っ……!」


セレーナの表情が歪む。


押し返せない。


守るだけで精一杯だった。


「なに……この重さ……!」


少し離れた場所では、ミラーネと戦っていたライサの動きさえ鈍っていた。


「……ゼルファー。」


ミラーネが小さく呟く。


その表情からも、先ほどまでの余裕が消えている。


「認めよう。」


ゼルファーの低い声が地下水路に響く。


「日向陽。」


陽は必死に顔を上げる。


ゼルファーの周囲で、空間そのものが黒く歪んでいた。


「次は――」


さらに圧力が増す。


「お前たち全員を地の底へ沈めよう。」


「ぐっ……!」


陽の膝が地面につく。


動けない。


まただ。


また――


届かない。


ドクンッ――


「……っ。」


陽の胸の奥で、何かが脈打った。


黄金の光ではない。


黒。


ウルニス迷宮で一度、自分の意識を呑み込んだ――


あの黒い影。


ドクンッ――


視界が一瞬だけ暗くなる。


音が消えた。


ゼルファーの声も。


リーナたちの声も。


水の流れる音さえも――


何も聞こえない。


そして。


『――力が欲しいか?』


「……っ!」


陽の瞳が僅かに見開かれる。


声。


どこから聞こえている?


いや――違う。


頭の中じゃない。


もっと深い。


自分の中から聞こえてくる。


『今のお前では――届かない。』


ドクンッ――!!


陽の右腕が大きく脈打った。


黄金の光の隙間から、黒い何かが滲み出す。


「陽……?」


リーナが異変に気づく。


しかし陽には、その声すら遠く聞こえていた。


『力が欲しいか?』


再び問いかけられる。


目の前にはゼルファー。


動けない仲間たち。


このままでは――


守れない。


陽の指先が僅かに動く。


「俺は……。」


黒い影が右腕を這い上がっていく。


その瞬間。


カイの表情が変わった。


「……おい。」


陽の身体から溢れ始めた黒い力。


それを見た瞬間――


カイの目から、完全に余裕が消えた。


「陽!」


鋭い声が地下水路に響く。


「その力を使うな!」


ドクンッ――!!


『――さあ。』


黒い影が、陽の意識へと手を伸ばす。


『力が欲しいか?』


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