68話 届いた拳
「今日の俺は、あのときの俺じゃない」
陽が地面を蹴る。
グッ――
足元の石床が軋み、ひび割れた。
身体が重い。
腕も、脚も、呼吸すらも。
一歩踏み出すだけで、全身に鉛を括り付けられているような感覚が襲ってくる。
それでも陽は止まらなかった。
「うおおおおおっ!」
右腕に纏った黄金の光が一気に強まる。
黒く硬質化した爪を振り上げ、そのままゼルファーへと叩き込む。
だが――
「遅い。」
ゼルファーが片手を上げる。
陽の目の前で、空間が歪んだ。
「ぐっ……!」
右腕が突然、何倍もの重さになったように地面へ引っ張られる。
拳の軌道が強引に変えられ、そのまま石床へ叩きつけられた。
ドガァァンッ――!!
砕けた石片が周囲へ飛び散る。
「陽!」
セレーナの声が響く。
「大丈夫だ!」
陽は片膝をつきながら、すぐに顔を上げた。
ゼルファーはその様子を冷たく見下ろしている。
「確かに以前よりは動けるようになったようだ。」
「……そりゃどうも。」
陽は歯を食いしばりながら、ゆっくりと身体を起こす。
「だが――」
ゼルファーの瞳が鋭くなる。
「その程度で、私の重力を越えたつもりか?」
グンッ――!!
「がっ……!」
さらに重力が増した。
陽の膝が再び地面へ沈む。
少し離れた場所では、ザガートも剣を地面へ突き刺し、片膝をついていた。
レオンも魔剣を支えにしながら、必死に身体を支えている。
リーナも剣を地面へ突き立て、呼吸を整えながらゼルファーを睨んでいた。
「……やっぱり、ウルニスの時と同じ。」
リーナが小さく呟く。
「力だけで抜け出そうとしても無理よ。」
その中でカイは低く姿勢を落としながら、ゼルファーをじっと観察していた。
「……なるほどな。」
「何かわかったのか……?」
陽が顔だけをカイへ向ける。
「あいつ自身から重力が出てるわけじゃねぇ。」
カイは目を細めた。
「この辺り一帯が、もうあいつの支配下に入ってやがる。」
「……!」
「距離を取っても完全には逃げられねぇ。その上、狙った場所だけ重力を強くすることもできるみてぇだ。」
陽はゼルファーを睨む。
ウルニス迷宮で戦った時は、そんなことを考える余裕すらなかった。
ただ重力に押し潰され、地面に這いつくばっていた。
だが今は違う。
考えられる。
そして――
一人じゃない。
その時だった。
「陽、そっちばかり見てると危ないよ?」
幼い声が響く。
「っ!」
陽が振り返る。
黒い霧が地面を這うように広がっていた。
その中から――
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
同じ顔。
同じ笑み。
五人のミラーネが、陽たちを囲むように立っていた。
「どれが本物かわかる?」
五人が同時に首を傾げる。
「間違えたら――」
口元が同時に吊り上がった。
「死んじゃうかも♡」
黒い影が一斉に地面を走る。
「来るぞ!」
レオンが叫んだ。
五方向から伸びた影が、陽たちへ襲いかかる。
「くそっ!」
レオンが魔剣を振る。
だが――
遅い。
ゼルファーの重力が、腕の動きすら鈍らせている。
影を一本切り裂く。
その直後――
「後ろ。」
ミラーネの声。
「レオン!」
リーナが叫ぶ。
振り返るより早く、黒い刃がレオンへ振り下ろされた。
「光の精霊よ――!」
セレーナが両手をかざす。
レオンの目前に淡い光が集まり、一枚の光壁を作り出した。
ガキィィンッ――!!
「っ……!」
黒い刃と光の壁が激しくぶつかる。
セレーナの身体が僅かに後ろへ押される。
「セレーナ!」
「大丈夫……!」
光の壁に亀裂が走った。
「でも、長くは持たないわ!」
「十分だ!」
ザガートが地面に突き立てていた剣へ力を込める。
重力に押し潰されそうになりながらも、身体を起こす。
「はああっ!」
横薙ぎの一閃。
だが――
刃が届く直前。
ミラーネの身体が黒い霧へ変わった。
「幻影……!」
背後から笑い声が響く。
「残念♡」
「こっちだよ。」
「違うよ。」
「こっち。」
「ふふふっ。」
声が四方八方から響く。
ただでさえゼルファーの重力によって動きを封じられている。
そのうえ、どれが本物かわからないミラーネが周囲を取り囲んでいる。
「……最悪の組み合わせだな。」
レオンが魔剣を握り直す。
陽も周囲へ視線を走らせる。
どれだ。
どいつが本物だ――
「探す必要はない。」
静かな声が響いた。
ライサだった。
ゆっくりと顔を上げる。
その視線は、五人のミラーネだけを捉えていた。
「……あ。」
一体のミラーネから、ほんの一瞬だけ笑みが消える。
ライサはその変化を見逃さなかった。
「お前のその技は――」
ゆっくりと息を吐く。
空気が変わった。
「一度見ている。」
ドンッ――!!
ライサを中心に、凄まじい覇気が解き放たれる。
水面が激しく波打ち、地下水路の空気そのものが震えた。
「っ……!」
五人のミラーネの身体が同時に硬直する。
「また……これ……!」
「幻影とはいえ、そこに存在している以上――」
ライサが一歩踏み出す。
「私の覇気からは逃れられない。」
一体。
二体。
三体。
四体。
ミラーネの身体が次々と黒い霧へ変わっていく。
そして――
最後に一人だけが残った。
「……見つけた。」
ライサの目が鋭くなる。
ミラーネの表情から、完全に笑みが消えた。
「また……あなた。」
「覚えていたか。」
「前も私の邪魔したよね。」
ミラーネの周囲から黒い魔力が溢れ始める。
「嫌い。」
「奇遇だな。」
ライサはゆっくりと剣を抜いた。
「私もお前が嫌いだ。」
ミラーネの瞳が冷たく染まる。
「……殺す。」
黒い霧が一気に噴き上がった。
「ライサ!」
ザガートが声を上げる。
「私も加勢する!」
「必要ありません。」
「なに?」
ライサはミラーネから一度も視線を逸らさない。
「殿下は陽の援護を。」
「だが――」
「こいつとは、一度戦っている。」
ライサが剣を構える。
ミラーネも両手を広げ、周囲に黒い影を集めていく。
二人の視線がぶつかった。
「ここは私が引き受けます。」
ザガートは一瞬迷う。
やがて――
「……わかった。」
剣を握り直した。
「任せるぞ、ライサ。」
「はい。」
次の瞬間。
ライサが地面を蹴る。
「はあああっ!」
「邪魔っ!」
剣と闇が激しく衝突した。
ライサとミラーネ。
二人の戦場が、陽たちから切り離されていく。
残る相手は――
ゼルファー。
陽。
リーナ。
ザガート。
レオン。
そして、後方から戦場全体を見渡すセレーナ。
「陽。」
リーナの低い声が飛ぶ。
「一人で突っ込まないで。」
陽はゼルファーを睨んだまま、小さく頷いた。
「ああ。」
「さっきカイが言ってたでしょ。あいつは狙った場所だけ、重力を強くできる。」
リーナはゼルファーの指先から目を離さない。
僅かな動きすら見逃さないように。
「私たちが隙を作る。それまでは絶対に動かないで。」
「……わかった。」
陽は拳を握り締めた。
今すぐにでも飛び出したい。
だが――堪える。
ウルニス迷宮では、それができなかった。
自分の力だけで何とかしようとして、何もできずに地面へ押さえつけられた。
同じ失敗はしない。
「レオン、ザガートさん。」
リーナが静かに二人へ視線を送る。
「一度でいい。」
ザガートが剣を杖代わりにしながら、ゆっくりと身体を起こす。
レオンも魔剣を強く握り直した。
「ゼルファーの意識を陽から逸らして。」
「……承知した。」
「一瞬でいいんだな。」
「ええ。」
「セレーナ。」
リーナが後方へ声を飛ばす。
「お願いがある。」
「ええ。」
セレーナはすぐに意図を察したように頷く。
「後ろは任せて。」
銀色の羽が淡く輝く。
セレーナはライサたちの戦場。
ゼルファー。
そして――
結界の向こう側へ順番に視線を走らせた。
「ただ……急いで。」
「どうしたの?」
「さっきよりも水の気配がおかしい。」
足元を流れる水が僅かに揺れる。
「奥にいる何かが……こっちを見てる気がする。」
リーナの表情が僅かに強張る。
「……わかった。」
視線をゼルファーへ戻す。
「先にこいつを突破する。」
リーナは静かに息を吸った。
「タリア――風を。」
その声に応えるように、淡い風がリーナの周囲へ集まり始める。
「風よ――彼の足を支えて。」
青白い風が床を這うように流れ、陽の足元へ集まっていく。
重力が消えたわけではない。
身体は依然として重い。
それでも――
押し潰されそうだった脚を、風が僅かに下から支える。
踏み出すための一歩。
その一歩だけを、リーナが作る。
「その一瞬で――」
リーナは鋭い視線で、真っ直ぐゼルファーを捉えた。
「陽をあいつの懐まで届ける。」
ゼルファーが僅かに目を細める。
「……何を企んでいる。」
誰も答えない。
陽。
リーナ。
ザガート。
レオン。
四人の視線が、一瞬だけ交わる。
言葉は必要なかった。
「――行くよ。」
リーナが静かに告げた。
ザガートが先に動く。
「はあああっ!」
剣を杖のように使いながら、重力に逆らって身体を前へ押し出す。
「無駄だ。」
ゼルファーの視線がザガートへ向く。
グンッ――!!
「ぐっ……!」
ザガートの身体が沈む。
その瞬間――
反対側からレオンが魔剣を振り抜いた。
「はああっ!」
「ちっ。」
ゼルファーが腕を振る。
重力の波がレオンへ向かう。
「ぐあっ!」
レオンの身体が地面へ叩きつけられた。
「レオン!」
セレーナが即座に手を向ける。
淡い光がレオンの身体を包み、地面へ叩きつけられた衝撃を和らげる。
「……助かった!」
「まだ終わってないわ!」
セレーナの視線はすぐにゼルファーへ戻る。
その一瞬だけ――
陽へ向けられていた重力が弱まった。
「陽!」
リーナが叫ぶ。
「おう!」
陽が地面を蹴る。
足元の風が身体を押し出した。
一歩。
二歩。
ゼルファーとの距離が縮まる。
「小賢しい。」
ゼルファーが陽へ手を向ける。
再び重力を集中させようとした――
その時。
「まだよ!」
リーナが手を振り抜く。
足元を流れていた風が一気に強まった。
陽の身体を、前へ。
「なに――」
ゼルファーの目が見開かれる。
「捕まえた。」
黒く硬質化した右手が、ゼルファーの腕を掴んだ。
「……!」
ゼルファーが振り払おうとする。
だが陽は離さない。
「俺一人なら……。」
陽は歯を食いしばる。
「あの時みたいに、また何もできなかったかもしれない。」
ウルニス迷宮での光景が頭をよぎる。
重力に押し潰され。
地面に這いつくばり。
何もできなかった自分。
「でもな。」
今は違う。
リーナが道を作った。
ザガートとレオンが隙を作った。
セレーナが後ろを守っている。
そして――
少し離れた場所では、ライサがミラーネを引き受けている。
誰か一人が欠けても、この距離には届かなかった。
陽はゼルファーを真っ直ぐ見据えた。
「あの時とは違うんだよ。」
右腕の黄金の光が強く輝く。
「俺には――」
拳を握り締める。
「仲間がいる!」
ドゴォォォンッ――!!
光を纏った拳が、ゼルファーの腹部へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
ゼルファーの身体が後方へ吹き飛ぶ。
地面を何度も跳ね――
壁へ激突した。
ズドンッ――!!
地下水路全体が大きく揺れる。
「はぁ……はぁ……。」
陽は肩で息をする。
ようやく拳が届いた。
あの時は触れることすらできなかった男に。
初めて――




