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67話 深層部での再会


蒼き宮殿を出た一行は、カイの案内でアクエリアスの地下水路へと降りていった。


上の階の水路は、都の華やかさをそのまま映したように綺麗だった。青く光る水の妖精たちが水面すれすれを飛び交い、鈴を転がすような笑い声を落としていく。壁のくぼみには半透明の貝が寄り添い、ひれを光らせる小魚の群れが橋の影を横切った。


けれど、中ほどまで下りたあたりから――その気配が、消えた。


「……なんか、静かすぎないか」


陽の呟きに、リーナが小さく頷いた。


「ええ、私も感じてた。さっきまであんなに賑やかだったのに、妖精が一匹もいないわ」


先頭を歩いていたカイが、腕を組んだまま足を止める。


「逃げたんだよ、全部」


「逃げた?」と陽が訊き返す。


「海でもある話でな」カイは顎で通路の先を示した。「けた違いにでかい奴が来た海は、小魚が一斉に消える。頭がいいわけじゃねえ、ただ怖いだけだ。この静けさは――そういう静けさだ」


その言葉に、レオンが軽口を引っ込めて剣の柄を握り直した。ライサは黙ったまま耳を澄ませ、ザガートは油断なく後ろへ目を配る。ただ一人、セレーナだけが青ざめた顔で壁を流れる水を見つめていた。


「セレーナ?」と陽が声をかける。


「……この水、濁ってる。目に見えないところで」


「濁ってる?」陽は壁の水に目をやった。透き通って、むしろ綺麗に見える。


「そうじゃなくて――中に、いやなものが混じってるの」セレーナは自分の腕をさすった。「上の水はあんなに澄んでたのに。ここの水は……近づきたくない」


精霊族の姫にしか届かない声があるのだろう。陽はそれ以上訊かず、ただ彼女の隣に並んだ。


水路はやがて途切れ、開けた空間に出た。天井からつららのように垂れた石の先から、透明な雫がぽたり、ぽたりと落ちている。床に触れる瞬間、雫は一瞬だけ淡く光って消えた。


綺麗だった。だが、誰も足を止めなかった。


そして――道の終わりに、それはあった。


結界。


空気そのものが薄い膜のように張りつめ、その向こうの闇を拒んでいる。蒼帝の言った通りだ。この膜の奥に、言葉を話す魔物がいる。


「ここが、深層部への境目か」ザガートが低く言う。「リーナ殿、例の共鳴を――」


リーナが一歩、膜へ足を踏み出そうとした、その瞬間。


結界の手前の空間が、墨を落としたようににじんだ。


黒いローブ。深くかぶったフード。二つの影が、何もなかったはずの場所に音もなく立ち上がる。


「――待ちくたびれたぞ」


背の高いほうから響いた、地を這うような低い声。陽の全身が総毛立った。忘れるものか。ウルニス迷宮で、自分とリーナを重力で地面に縫いつけ、鼻先で去っていったあの男。


「ゼルファー……!」


その隣で、小柄なほうがフードを両手で押し上げた。中から現れたのは、幼さの残る顔立ちと、無邪気に輝く瞳。


「……あ、来た」


ミラーネは軽く首をかしげ、それから小さく笑った。


「ほらね、ゼルファー。来るって言ったでしょ」


「……ミラーネ」とゼルファーが低くたしなめる。


だがミラーネは気にもせず、陽のほうへ顔を向けた。


「久しぶり、陽くん。この前は痛い目に遭わされちゃったなぁ。今日はそのお返しさせてもらうね。」


穏やかな声だった。友達に会えたような、それだけの声。だがその足元では、彼女の影がありえない方向へ、ぬるりと伸びていた。


一同がすぐに散らばり、陣形を組む。ライサが牙を剥き、ザガートが前へ出た。レオンが魔剣を抜き放つ。カイだけが動かず、拳を軽く握ったままゼルファーを見据えている。


陽は剣に手をかけなかった。代わりに、深く息を吸う。


金色の光が右腕を駆け上がり、皮膚を這うように走る。指先が伸び、爪が黒くかたく変わっていく。髪が逆立ち、瞳が縦に裂けた。


半獣化。


「答えろ、ゼルファー。お前ら、この奥の魔物に何をした」


「まだ触れてもいないさ。いや、触れる必要がないからな。」ゼルファーは静かに首を振った。


「……何?」


ゼルファーはゆっくりと片手を上げ、後ろの結界を――その奥の闇を指し示した。フードの奥は、闇よりもなお深い。


「日向陽。お前は、あれを『魔物』と呼ぶな。あれは魔物ではない」


結界の向こうから、地の底を這うような低い揺れが伝わってきた。まるで、応えるように。


「この世界――エリュシアには、神々への信仰が満ちている。祈り、すがり、救いを求める声。だがな、光のあるところには必ず影が落ちる。叶わなかった祈り。報われなかった真心。神を呪った者のうめき。信仰の裏側で捨てられ、澱のように沈んでいった負の想い――あれは、その積み重なりそのものだ」


陽の喉が鳴った。信仰。それは陽たちが力の源としてきたものであり、この世界を支えてきたものでもある。その裏に、こんなものが溜まっていたというのか。


「あれは我々が生んだのではない。この世界が、自分で生んだのだ。人が神を信じる限り、あれは太っていく。祓おうとする祈りさえ、あれの餌になる。我々はただ――満ちるのを、待てばいい」


「……そんなもの、放っておけるかよ」


「その力はねぇ、すごいんだよ」


今度はミラーネが、楽しかった思い出を話すみたいに口を開いた。


「このアクエリアス、まるごと飲み込めるくらい。お船も、水路も、あの綺麗な妖精さんたちも、全部。ぜーんぶ、あの子のごはんになるの」


その口ぶりに、悪意はなかった。それが余計に、陽の背筋を冷たくした。


「……お前、自分が何言ってるか分かってんのか」


「うん。分かってるよ」見下すような表情でミラーネは頷いた。


「――そんなんさせるか」


陽の声が怒りで震えた。


「そこの娘の言う通りだ」ゼルファーが一歩前へ出る。ローブのすそが、なぜか重さに逆らって微かに沈み込んだ。「そして、だからこそ――お前らに退治などさせん」


フードの奥で、赤い光が二つ灯った。


「集いし影よ、すべてを縛る鎖となれ――重力封縛(グラビティ・バインド)」


その瞬間、空気が変わった。


いや、重さが変わった。


ずしり、と。陽の膝が軋み、ライサがうめいて床に片手をつき、レオンの剣先が引きずられるように下を向いた。


「くっ……この重さ……!」陽は歯を食いしばった。あのとき、何もできずに叩き伏せられた、あの重力だ。


「気をつけろ!」カイが低く叫んだ。腰を落とし、その圧をまるで波のように読みながら。「こいつの間合いは、もう始まってる!」


同時に、ミラーネの足元から黒い霧が湧き上がった。霧の中で、彼女の姿が二つに、三つに、五つに増えていく。全部が同じ顔で、同じように微笑んでいた。


「ねえ、ねえ…」


五人のミラーネが、同時にささやく。


「どれが本物か、当ててみて」


陽は牙を剥き、獣の爪を構えた。全身の毛が逆立っている。恐れではない。あのときとは違う。今の自分には、背中を預けられる仲間がいる。あのとき地に伏せた重力を、今度は――力ずくで、踏み砕く。


「悪いな、ゼルファー」


一歩、踏み込む。歪んだ重力の底を、爪先で噛み割るように。


「今日の俺は、あのときの俺じゃない」


結界の前で、二人との間合いが――音もなく、ゼロになった。

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