116.それからの天気は
それからの天気は、
海の主が言った通りになりました。
朝も昼も夜も、
どんよりとした厚い雲が、すき間なく空を埋め尽くしていました。
ずっとずっと、そうでした。
赤い魚は、
サンカク岩の近くの、サラサラの砂地のところにいました。
顔を上へ向けています。
空は、まっ暗でした。
そろそろ、夜明けのはずです。
でも、まっ暗でした。
星も、ひとつも見当たりません。
しばらくすると、
まっ暗な空の、下の方の黒い色が、
だんだんと、うすまっていきました。
闇の中から、
少しずつ、灰色が浮かび上がってきます。
雨雲です。
雨雲は、
そうやって、遠くの方から徐々に姿を現していき、
大きくなっていき、どんどん広がっていき、
ついには、海の上をおおう空全体は、
あっちこっちに色ムラのある不気味な灰色へと、さま変わりしてしまいました。
どうやら、朝が訪れたようです。
海上には、うっすらとした白いもやが立ちこめており、
そんな中で、
雨がシトシトと降り続いています。
海底の砂地で、顔を上へ向けていた赤い魚は、
やがて、
ゆっくりと、うつむいていきました。
下を向いたまま、じぃっとしています。
赤い魚は、
少しすると、顔を静かに起こしました。
自分の尾ビレを振り返り、その下にあるものへ目を向けます。
海草の実でした。
赤い魚は、口を近づけていきました。
パクっと食いつき、
顔をうつむけたまま、モグモグと口だけを動かしています。
食べ終えた赤い魚は、すぐに横を向きました。
そのまま、ポンポンと泳いでいきます。
そして、
大小様々な円の描かれた場所まで来ると、
その円の線に沿って、せっせと泳ぎ出しました。
「おはようさん。
朝早くから、こんなところでダンスの練習かい?」
ビクッとした赤い魚は、すぐに止まりました。
声のした方を振り返ります。
1ぴきのカニが、
トコトコと、横向きで歩いてきていました。
「あ、カニさん・・・、
おはようございます・・・。
えと、その・・・」
赤い魚が、
下を向いて、少しの間モゴモゴしていると、
近くに来たカニが、小さい方のハサミを上げ、
「よっ」
と、あらためてあいさつをしました。
そのまま、さらに続けます。
「主さまから伝言だよ。
もうだいぶ元気になったみたいだし、わざわざこっちに戻ってこなくてもいいってさ。
あと、
このコンブの寝床、どこに運べばいい?。
いらないならヒトデたちにあげちゃうけど。
みんな、
あのチャンピオンの使ってた寝床だから、ぜったい縁起がいいはずだ・・・ってことで、
すごく欲しがっててさ。
ほら、
あっちの岩カゲで、みんなでこっちの様子をうかがってるだろ?。
どうする?」
その次の日。
夜遅くまで、ずっとダンスの練習をしていた赤い魚は、
ふいに動きを止めました。
顔を上に向けます。
まだ暗いままの、夜の空。
きょうは、
星がたくさん、またたいてます。
遠くの海の、すぐ上にある空が、
次第に、紺色へと変わり始めました。
紺色は、
さらに少しすると青になり、水色になり、
そうやって、
遠くの空の色は、徐々に徐々に白っぽくうすまっていきます。
たぶん、そろそろです。
海底にいる赤い魚が、
顔を上に向けたまま、待っていると、
空がだいぶ白んできた頃になって、それはようやく現れました。
月です。
線のように、ほっそりとしています。
少しずつ上っていきます。
しかし、それと同時に、
白んでいた空の下の方の色が、よりいっそう明るくなっていき、
だんだんとオレンジ色が混じっていき、なおも明るくなっていき、
程なくして、
そこに、
光り輝く、まぶしい太陽が現れました。
太陽は、
ほっそりした白い月を追いかけるように、ゆっくりと上っていきます。
うすいオレンジ色とも、うすい水色とも言えるような、
そんな、ふしぎな色合いの空を、
月と太陽は、
仲が良さそうにして、いっしょに高く上っていきます。
うす暗い海の底で、
遠くの、夜が明けた空の方を1ぴきで見上げていた赤い魚は、
その顔を下ろしていき、まっすぐ前を見すえました。
そして、集中した顔つきになると、
砂地の線の上を、
ふたたび、ポンポンと泳ぎ出しました。
月は、
きょうからしばらく、夜の間には現れません。
朝になってから上って、夕方になる前に沈んでしまいます。
でも、それから何日か過ぎれば、
夜の空に、
月は、ふたたび現れるようになります。
雨の季節は、もう終わったのです。
ヒカリの魚とも、
また、会えるようになるはずです。
5日が過ぎました。
夕暮れ。
サンカク岩の近くで、赤い魚は頭を高くし、
遠くの、
雲ひとつ無い、オレンジ色の空を眺めています。
でも、少しすると、
急に後ろを振り返りました。
尾ビレの下を見て、すぐさま前へと向き直し、
頭を高くして空を眺め・・・、
また少しすると急に後ろを振り返り、
尾ビレの下を見て、すぐさま前へと向き直し、
また頭を高くして空を眺め・・・。
さっきから、
そんなことを、何度も何度もくり返しています。
太陽が沈み始めました。
辺りも、だんだんと暗くなっていきます。
赤い魚は頭を低くしました。
目を上へ向けています。
遠くの白んだ空の、ちょっと上、
うっすらと宇宙の色がすけてきている空の、その中に、
線のような細い月が、くっきり白く浮かんでいます。
赤い魚は、
その月を、じぃっと見ています。
月は、
沈んでいく太陽を追って、空をゆっくりと下りていきます。
夜が訪れました。
月は、まだ空に残っています。
しかし、
もう、だいぶ低い位置まで下りてきていました。
あと少しで、見えなくなってしまいます。
赤い魚は、
いっしょうけんめい、目をこらしています。
頭を低くしたまま、
まばたきもせず、じぃっと見ています。
線のような月が、
そのまま、海の向こうへ沈んでいきました。
赤い魚は、
少ししてから、
低くしていた頭を、静かに起こしました。
星空の方を、
まだ、見ています。
しばらくして、
赤い魚は、ゆっくりと後ろを振り返りました。
尾ビレの下に、目を向けています。
海草の、ちっちゃなシッポ付きの新芽が落ちています。
赤い魚は、口を近づけていきました。
パクっと食いつきます。
しょんぼりとした顔で、口をモグモグと動かしています。
新芽を食べ終えた赤い魚は、
横を向き、ポンポンと泳いでいきます。
そして、
練習場に着くと、集中した顔をして、
いつもの練習をいつものように、せっせと始めました。
次の日の夕暮れ。
赤い魚は、
きょうも、サンカク岩のところに来ています。
遠くの空はオレンジ色。
太陽は、もうすぐ沈み始めます。
赤い魚は、
でも、そのオレンジ色の空は見ていませんでした。
上の方の、
すでに夜になりかけている、紺色の空を見ています。
月は、そこにありました。
きのうよりも、ちょっとだけふくらんでいます。
三日月です。
三日月は、
太陽からは少し離れた、高いところにありました。
見えなくなるまで、
まだ、だいぶ余裕がありそうです。
赤い魚は、自分の尾ビレの下を確認してから、
また、前を向きました。
紺色の空の、ポツンとした白い三日月を見上げて、
そのまま、頭を低くしました。
日が沈んでいきました。
遅れて、空の全てが夜色になります。
キラキラ星で、いっぱいです。
そうして、そんな空の中、
三日月は、
ちょっとずつ下りていき、だんだんと低くなっていき、
やがて、
そのまま、見えなくなってしまいました。
赤い魚は、少ししてから、
低くしていた頭を、ゆっくりと起こしました。
後ろを振り向きます。
尾ビレの下にあった海草の新芽に目を向け、口を近づけていき、
パクっと食いつきます。
モグモグと口を動かし、食べ終えましたが、
赤い魚は、
その場で、じっとしていました。
だんだんと、うつむいていきます。
でも、
途中で顔を上げると、クルッと向きを変え、
いつもの練習場の方へと、
元気よく、ポンポンと泳いでいきました。
さらに次の日。
赤い魚は、
サンカク岩といっしょに、夕日に顔を照らされつつ、
空高くの、白い月を見上げていました。
程なくして夜になり、そのまま時間が過ぎていき、
月も沈んでいきました。
星明かりが、
海底のサンカク岩と赤い魚を、うっすらと照らしています。
頭を低くしていた赤い魚は、
しばらくして、
その頭を、ゆっくりと起こしました。
後ろを振り返り、
海草の実に、口を近づけていき、
パクっと食いつきます。
モグモグと、静かに口を動かしています。
そうして、
実を食べ終えると、練習場の方を振り向き、
海底をけとばし、ポンポンと泳いでいきました。
赤い魚は、
きょうも、ダンスの練習を黙々と続けていましたが、
でも、
やがて、途中で動きを止めてしまいました。
顔をうつむけ、じぃっとし、
少ししてから、顔を上げ、
ポンポンと練習を再開させたかと思うと、
また止まって、
顔をうつむけ、じぃっとし・・・。
そんなことを、
その夜は、何度も何度もくり返していました。
赤い魚は、
それからも毎日、夕方になるとサンカク岩のところに行きました。
空が暗くなり、夜になり、
その後、月が沈んでしまうまで、
姿勢を低くしたまま、いっしょうけんめい待っていました。
けれども、
ヒカリの魚は、いっこうに現れませんでした。
頭を起こした赤い魚は、
身をひるがえし、尾ビレの下にあった海草の実を食べると、
うす暗い、ひっそりとした練習場へ行き、
1ぴきで、ダンスの練習を続けました。
数日後、
月が、半分よりも少しふくらんだ頃、
赤い魚は、ついにガマンできなくなりました。
こわい顔をして、夜空の月を思いっきりにらみつけて、
その口を、大きく開けていきました。
・・・。
・・・。
・・・。
赤い魚は、けれども、
ちょっとしてから、
そのまま口を、閉じていきました。
こわかった表情も、
いつの間にか、元に戻っています。
遠くの月を、
その大きな目で、
いとおしそうに、ただ見つめています。
月が沈みました。
後ろを振り返った赤い魚は、
尾ビレの下の、海草の実を食べると、
向きを変え、ポンポンと泳いでいきました。
そうして、
何事もなかったかのように、ダンスの練習をせっせと始めました。
また、数日が経ちました。
その日は、朝から空がちょっとずつ曇っていき、
昼になると、弱い雨がパラパラと降り出しました。
ダンスの練習を中断させた赤い魚は、
顔を上へ向けました。
空をおおっている灰色の雲を、じぃっと見ています。
そうして、しばらくしてから見上げるのをやめると、
前を向き、真剣な顔になって、
砂地の線の上を、
ふたたび、ポンポンと泳ぎ始めました。
夕方。
鮮やかなオレンジの日差しが、
サンカク岩とその横にいる赤い魚を、後ろの方から照らしています。
前方の砂地に、
小さな赤い魚の長い影と、
すぐ隣にある巨大なサンカク岩の、長い長い長い影が映っています。
赤い魚は顔を上げて、遠くの空を見ていました。
沈んでいく太陽の、ちょうど反対側の、
もう夜になった、暗い空を見ていました。
雲は、
今は、まばらになっていました。
小さな星たちが、あっちこっちで輝いてます。
海底が、次第に暗くなっていきます。
砂地に伸びていた小さな影と、その何十倍もある大きな影が、
自分の体を、さらに長く伸ばしていき、
それと同時に、
周囲の暗さの中へと、だんだんと溶けこんでいきます。
赤い魚は、
振り返って、尾ビレの下を確認すると、
また前を向き、
遠くの空へ、目を向けました。
夜になりました。
星の光だけの、ささやかな明かりの中で、
空を見上げたまま、待っていると、
それから間もなくして、
赤い魚の顔に、
うっすら白い明かりが、かかるようになりました。
月が現れたのです。
月は、
出会ったときのように、まん丸でした。
ぽおっと明るく、優しい光で輝いてます。
赤い魚は、月を眺めていました。
姿勢を低くすることも忘れて、
その、大きくてきれいな2つの目で、
はるか遠くの、きらめく星たちの中に浮かぶ白い月を、
まん丸な美しい月を、
海の底で、
サンカク岩の近くの砂地で、
1ぴきで、
ただ静かに、ずうっと眺めていました。
月が、
海の向こうへ、沈んでいきました。
辺りが暗くなります。
赤い魚は、しばらくの間、
月のいなくなった夜空を、そのまま眺めていましたが、
やがて、
ゆっくりと、
徐々に、顔をうつむけていきました。
下を向いたまま、じっとしています。
動きません。
まっ黒だった空が、だんだんと紺色に変わってきました。
砂地の上で、
ずっと、うつむいていた赤い魚は、
その顔を、ゆっくりと起こしました。
そして、
そのまま、
夜明け前の、うす暗い海の底を、
1ぴきで、
ポン・・・ポン・・・と、力なく泳いでいきました。
明くる日の夕方。
雲ひとつ無い、美しい夕空。
沈みかけの太陽が、
海底のサンカク岩とその周りの砂地を、きれいなオレンジ色に染め上げています。
ひっそりとしています。
赤い魚の姿は、ありませんでした。
「兄ちゃん」
「どうした?」
「赤いお魚さん、最近見ないね」
「うん、見ないね」
「もう、空を泳ぐお魚さんになっちゃったのかな・・・」
「・・・たぶん」
「この海には、二度と戻ってこられないんだよね?」
「うん・・・」
「ちょっと寂しいね」
「うん、ちょっと寂し・・・って、
あっ、あーっ」
「兄ちゃん?」
「・・・ふぅ、危なかった」
「もー、しっかりしてよ。
こんな調子で、ホントにだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶだ。
もう、コツはつかんだ」
「毎日つかんでるじゃん・・・」
「なんか言ったか?」
「ううん。
僕、何も言ってない」
「そっか。なら、いいんだ。
次のダンス大会は、オレたちが優勝しような」
「うん!」




