白きオオカミを追いかけて.19
あの“夜霧”が晴れている……。
霧をも届かぬ遥かに高い山の頂で、ふたりの男女が身を寄せ合い、静かに下界を見下ろしていた。
「どうやら、やってくれたようです」
耳元で囁かれる、オスの本能を刺激する艶のある女の声。
まるで匂い立つような、という淫靡な表現が、その女にはよく似合う。
「“結界”が弱まった。これで“道”が出来る。――そうか。彼のやり方は美しいとは言えないけれど、僕たちの目的を理解してくれる、その忠誠心は何より尊い。彼にはなにか……褒美を与えよう」
「きっと、喜びます」
すると女は甘えるように、丸みのある肢体を男に寄せた。
「……余計なことをしましたか?」
男の着物がはだけた箇所を、女の長い指が、まるで生き物のように這っていく。
月光を浴びた男の肌は、この世のものとは思えないほどに青白かった。
「“先生”の張った結界は強力だったよ。僕の力では決して破れなかった。だから全て、“あなた”のお陰だ」
下腹部まで来たところで、男は指をからめ取る。
「彼は使えるよ」
「彼……? 誰のことでしょうか? 嫉妬してしまいます」
からめ取った女の指を、男はぞんざいに口に入れた。
それは、別の生き物のように美しい。その女の長い指が、ヌラヌラと唾液で妖しく光る。
「キョウスケくんは驚くべき速さで成長している。きっと僕たちの、“最良のパートナー”となるはずだ」
「そう簡単に付きますか? “こちら側”に」
「隠された真実を知れば、彼は同志となってくれるよ。“巫女の神託”ではそう出ている。欲しかった狭霧の血が、ようやく僕たちの中に入るんだ」
そして男は月を見上げた。
満月だ。
「島に〈英気〉が満ちる。神の器は既に完成している頃だろう。それを見守る“先生”の役目も終わりだ。明日の夜、〈神域〉に“総攻撃”を掛ける」
なんと強引に、女の唇が奪われる!
抵抗する素振りも見せず、女は黙って身を預けた。
「もう少しだけ、僕に力を貸してほしいな」
「少しと言わないで、永遠に」
男が女の名を呼んだ――
「ありがとう。アサギさん」
『××年 ×月 ×日』
この果てしない館は、どこに居ても雨音がよく響く。
雨は嫌いだ。
私の可愛いキョウタロウが、なかなか寝付かない。きっと不安を覚えているのだ。せめて私の部屋だけでも、壁を厚くしてもらえないだろうか。
夫には、どうか私とキョウタロウの生活空間を守って欲しい。
『××年 ×月 ×日』
今日、初めてキョウタロウが「ママ」と私を呼ぶ。とても驚いた。同年代の子と比べて、成長が早いのではないか。
キョウタロウの笑顔は、私の心を弾ませる。
彼のために、私はどんなことだってするつもりだ。
『××年 ×月 ×日』
今日も冷たい雨が降っている。
外の廊下から、あの特徴のある足音が聞こえてくる。
擦るような、とても、とても弱々しい、耳を澄まさなくては聞こえないほどに小さな足音。私は決してそれを聞き逃さぬように、じっと息を潜める。
キョウタロウはすくすくと成長している。
それに呼応するように、私は夫を恐れるようになっていた。
明確な理由はない。それは女に備わった本能と言う他ない。
キョウタロウとの日常を壊される気がしてならないのだ。
狭霧の家――
それが、なんだと言うのだ。時代錯誤な気がしてならない。
『××年 ×月 ×日』
夜遅くに帰ってきた夫が、見知らぬ赤子を抱いていた。
雨でびしょ濡れの着物を、着替えもせずに私の部屋を訪れ、その赤子を差し出した。
尋ねたところで、夫は事情を話そうとはしない。
ただただ険しい顔をして、お前の子として育てて欲しい、と言い続ける。
選択の余地はなかった。
この家に囚われる私に、断る権利など元より存在しないのだ。しかし、いくら他人の子とは言え、安らかに眠るその子の表情を見ていると、思わず微笑してしまう。
私は母親なのだ。
私は、その赤子を引き取る決心をした。
『××年 ×月 ×日』
この子供、奇妙だ。
――決して泣かぬ。
腹が減っても粗相をしても、絶対に泣かぬ。
放っておけば、おそらく死んでいるだろう。
果たしてそれは、普通のことなのだろうか。まるでこの子には、感情がないようにさえ思えて来る。
私のキョウタロウとはえらい違いだ。
『××年 ×月 ×日』
遂に見た。
視えない何者かと戯れる、身の毛もよだつ、あの子の恐ろしい姿を――
キョウタロウが心配だ。今では私の傍よりも、キョウタロウと一緒に居る時間の方が多い。もしも私の眼の届かぬところでコトが起こりでもしたら――ああッ、とにかく心配だ!
キョウタロウには、あの子と出来るだけ遊ばぬよう、よく言い聞かせねばならないだろう。
『××年 ×月 ×日』
今日分かった。
あの子は私たちと生まれながらに違う。
夫がどこでさらって来たかは知らぬが、あの子はきっと――
鬼の子だ。




