三日月の綺麗な或る宵の一幕。三
「なっ……!」
男子学生たちは驚いた様子で声を上げました。私も声こそあげませんでしたが驚きました。私の横に一人の長身の男性が立っていたのです。
電車が走っていったせいなのか、こんなに近くに人がいて誰も気づかなかっただなんて。
長身といっても、しなやかさを感じさせる細身で、私が見上げるほどの背でありますが、大柄という印象は受けません。
服装はいわゆる書生風で、立ち襟の白いシャツの上に紺の着物に袴。足元は背の低い下駄。学生たちと似た服装ですが、学帽は被っていらっしゃいませんでした。
艶のある黒髪には左の前髪に一筋の白髪が走っています。彼は切れ長の瞳で男子学生たちを睥睨すると、おもむろにこうおっしゃいました。
「や……僕の女に何か用か」
「なっ!」
「……!」
男たちは驚き、私は息を呑みます。
男性は私の耳元でそっと囁きました。
「大丈夫、悪いようにはしない」
低く、穏やかな声が鼓膜を揺らします。
私は思わず頬を熱くし、小さく頷きました。
「この辺じゃあ見ない顔だけど、書生さんよ。別嬪さんの彼女をちょっと貸してくれよ」
「人の女と知って声をかけるとは随分な不作法だな?」
「ふん、どうだか」
男子学生はこの『僕の女』というのを嘘だと思っているのでしょう。いや、実際に嘘なんですけども。
拳をこれ見よがしに握って近づいてきました。
私は思わず、見知らぬ男性の袖を掴んでしまいます。
こちらの男性の方が長身です。ですが向かいの学生の方が骨太で腕も身体も太く、大きく力強そうに見えるのでした。
心配に見上げると、男性は私に視線をくださいました。黒い瞳が光の加減か綺麗な榛色に輝きます。私を安心させるように、その目は僅かに細められ、大丈夫と頷きを返してくれたのです。
そして男子学生たちに視線をやると、整った鼻をひくりと動かし、薄らと笑みを浮かべられます。
「女を抱いてきた帰りに女を口説くというのは品がないな」
「なっ! 何言ってやがる!」
私たちの正面に立つ男子学生は動揺した様子を示しました。
「酒と煙草、白粉の匂いくらい落としてくるべきだ」
その背後にいる二人は驚いた表情を浮かべます。
「なんすか兄貴! 独断専行っすか!」
「そいつはひでえ!」
後で友人から聞いて知りましたが、独断専行とはその……一人で花街に行かれることらしく。
「うるせえ!」
兄貴と呼ばれた男子学生は恥ずかしさを隠そうとしてか、拳を振り上げました。
「きゃっ」
私が小さく悲鳴をあげると、その男性は私を守るために片手で私の肩を抱きました。殿方の大きく、力強く、ですが優しい手で。そして逆の片手で男子学生の拳を軽々と受け止めたのです。
「ぬっ、ぐぬぬ……ぐぎぎぎ」
男子学生は唸り声をあげて力を込めますが、その拳は全くその場から動かすことが叶いません。一方の彼は涼しい顔です。
先ほど私にくださった優しい眼差しとは一転、冷ややかな視線を向けて言うのでした。
「それで仕舞いか?」
すると男子学生はもう片方の手を振り上げました。男性のもう片方の手は私の肩に回されてしまっています。危ない、と叫ぼうとしたのですが。
「シャッ!」
それより速く。武道の呼吸のような、あるいは野生の獣のような鋭い声が、男性の口から発せられました。
私の身が竦みましたが、それを正面から受けた男子学生の衝撃はそれ以上であったようです。
小さく悲鳴をあげ、その場で膝をついてしまったのです。
「うむ」
男性は捕らえていた拳から手を離すと、膝をついた学生の頭、学帽の上に手を置かれました。
それは明らかに力の上下を示す所作であるように感じられたのです。
「行け。もう彼女に関わるのはやめよ」
「うっ」
「良いな」
奥で棒立ちになっていた二人に、膝をついた男を連れて行くよう、顎で示されます。
「は、はいっ!」
学生たちは肩を組んでその場を後にしていったのでした。彼の手が私の肩から離れます。
「あっ……」
名残惜しさを感じてしまったのは、はしたないでしょうか。
「えっと、あの……ありがとうございました」
私は彼の袖から手を離してそう言います。うん、と彼は頷きました。男性にしてはちょと長めの髪が額にかかります。こうして見ていても涼やかな居住まいの書生さんで、片手一つで男子学生を圧倒したとはとても思えません。
「私、栗橋茉莉と申します。差し支えなければお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「フシ……いや、まだない」
男性は何か言いかけて不思議なことをおっしゃいました。名乗ろうとしておやめになったのでしょうか。
「何かお礼を……」
「別にいらん」
「そういうわけにも」
男性は片手を整った顎に添え、少々思案されてから仰います。
「次に会う機会あれば、飯でもおごってくれるといい」
「では今……」
「急いでいるのだろう?」
「あっ!」
男性はきっともう会う機会はないことと、私が急いでいることを聞いていてこう仰ってくださったのだと思います。
私は深く頭を下げました。
「ありがとうございました! このご恩は決して忘れません」
「うむ、気をつけてな」
男性はそう言ってひらひらと手を振り、橋を渡って行かれたのでした。




