三日月が綺麗な或る宵の一幕。三の裏
神田の祭りの翌朝のことである。
丸まるように転がっていた瞼を朝の日差しが刺激するので、僕は薄らと目を開いた。
……見覚えのない部屋。
籐籠の内側に布が敷かれ、僕はその上で寝ていた。だいぶ心地が良かったようで、ずいぶんよく寝た気がする。
ああ、そうだ。僕は昨日、三日月が綺麗な宵、少女に拾われたのであった。
人に拾われ、飼われるのは久しぶりのことだ。飼われるのは窮屈なことも多いし、飼い主にもよるが、寝床が快適であるのは大きな利点であるとは思う。
「あ、猫ちゃん起きた?」
少女がこちらを覗き込んでくる。僕は特に返事はせず、くしくしと顔を撫でた。
茉莉、だったか。確か昨日の夜、そう名乗っていた。僕にも名前をつけようとして、『思いつかないから明日ね!』と言って寝てしまったのである。
「私は学校に行ってくるから! 猫ちゃんは大人しくしててね!」
彼女は着替えながらそう言った。
学校というものも、ここ最近の時代の変化の一つであろう。寺子屋という教育の場は江戸の頃からあるが、それを拡張したような施設に子供たちが集められて学問をするようになったのだ。
平民でも女でも学ぶ機会があるというのは悪いことではあるまいが、猫たちにとっては近寄りがたい施設でもある。特にうっかり低年齢向けのそこに入ってしまうと、しばしば子供たちに追いかけ回されるためだ。
「はい、これご飯ね」
茉莉なる少女は階下に行き、食事を持ってくると僕の前に置いた、そして僕の目の前で手を振った。
うっとうしいので前足で彼女の手をどける。
もう一度手を伸ばしてきたので、再びそれを前足で払う。
「えへへ……」
何が嬉しいのか彼女は笑みを浮かべた。そして卓上に置かれた鞄を掴んで部屋を出る。
「終わったらすぐ帰ってくるから、いい子で待っててね! いってきまーす!」
その際に振り返り、僕に向けてそう言い放った。
たったった、と軽やかに階段を駆け降りる音がして、階下ではお婆さまとやらと言葉を交わし、玄関の引き戸がガラガラと音を立てる。
ふむ。
茉莉という娘が出ていくと、部屋は一気に静かになった。
僕は伸びをしながら籠から出ると、供された食事をもそもそ口にする。
いわゆる猫まんまというやつである。白飯に味噌汁をかけたものだが、上には焼いた魚の切れ端が載っていたし、汁も薄められていた。
猫は人間ほど多くの塩をとってはいけない。この家には他の猫の気配はしないけれども、茉莉のお婆さまとやらがそれを知っているということは、かつて猫を飼っていたことがあるのかもしれない。
まあ、僕はただの猫ではなく妖であるのだから、なんだって食べられるのだけども。気を使って貰っていることに悪い気はしない。
もそもそと猫まんまを平らげ、ぺろぺろと皿を舐めると、腹はくちくなった。あらためて部屋を眺める。
ありがちな女の部屋である。十代後半であろう年齢の女が一人部屋を有しているというのは、それなりに裕福なのであろう。婆さまと娘の二人暮らしというのも珍しい関係である。他の家人の気配はしない。茉莉という少女の両親や兄弟姉妹は死別したのか別居しているのか。それであれば部屋が余っているということも考えられるか。
何故かって裕福な少女の一人部屋にしては、少々飾り気に欠けるというか、華やかさが少ない気もするためだ。殺風景とまでは言い過ぎだろうが、それに近い。
その中で目立つものといえば昨日彼女が抱えていたあれだ。卓上では赤と黒の金魚が硝子の鉢の中を泳いでいる。
「…………にゃ」
不用心ではないのか……?
そう思わなくもない。
水中でひらひらと揺れる赤と黒を見つめていると、猫としての狩猟本能が刺激されて、ふと鳴き声が漏れた。
彼女は僕が金魚を捕まえてしまうと思わないのだろうか。そうでなくとも、金魚鉢を転がしてしまうとは。障子の紙を突き破り、机の端から垂れているリボンをダメにしてしまうとは考えないのだろうか。
まあ、千年も生きている僕は若い猫たちのように部屋を荒らすような真似はしないけれども、それでも彼女は思い違いをしているのだ。
僕は立ち上がる。
––待てと言われて待つ猫は無し、ってね。
僕はそうひとりごちると、散歩に出かけるのだった。




