三日月の綺麗な或る宵の一幕。二
というわけで猫ちゃんを連れて帰ったのですが……。
「捨ててきな」
「ええっ!」
なぜか家の玄関で待ち構えるようにいらした梅お婆さまは、けんもほろろにそう仰ったのです。
「私が世話しますから! ね?」
私は猫ちゃんの方を振り返って言います。
猫ちゃんはわかっているのかなんなのか、玄関の三和土の上で顔をくしくしと擦って、「なあ」と鳴きました。
「賢い子です。きっと迷惑はかけませんわ」
お婆さまは大きなため息を一つ。
「そりゃ賢いかもしれんがね」
「はい、きっと粗相もいたしませんから」
猫ちゃんは梅お婆さまと私の顔を交互に見ます。まるで会話を聞いているかのよう。
「お願いします!」
私が頭を下げると、梅お婆さまがじいっと猫ちゃんを見つめている気配がします。猫ちゃんは私の足元で再び「なあ」と鳴いて頭を下げました。お婆さまは大きなため息を一つ。
「ま、こういうのも運命というのかね。よかろ」
「本当ですか!」
私はぱっと顔をあげると、猫ちゃんに向き直りました。
「良かったね」
猫ちゃんはそれに答えることなく、三和土の上からぴょんと跳び上がり、お婆さまの横をすり抜けて家の中に入って行きました。
「ええ……」
思わずそう呟くと、お婆さまはもう一度ため息を落とされました。
私もブーツを脱ぐと、猫ちゃんを追って家に入ります。
猫ちゃんはすぐに見つかりました。廊下の板張りの上を、音もなく黒い影が歩いています。
「何をしているのかな?」
猫ちゃんはちらりとこちらに顔を向けて、再び背を向けました。無目的に歩いているように見えて、足取りにまよいがありません。それはまるで家の中を見回り、間取りを確認しているかのよう。
ちょうど猫ちゃんが階段に差し掛かったところで私は声をかけました。
「猫ちゃん、私の部屋は二階なんだけど、のぼれる?」
階段は側板に段板が嵌められただけのもので、よくあるものではありますけど、結構段差が急なのです。
猫ちゃんは呆れたような表情でこちらを見上げると、軽やかな動きで二階に駆けあがりました。
なるほど、私なんかよりずっと運動ができるようですね。
こうして猫ちゃんをお家にお迎えしたのですが、もちろん翌日は普通に学校があります。
朝の支度をぱたぱたとこなし、私の部屋に用意した籠の中で転がっている猫ちゃんにも挨拶をしてご飯をあげます。
「私は学校に行ってくるから、猫ちゃんは大人しくしててね! 終わったらすぐ帰ってくるから、待っててねー!」
そう言って家を出たのでした。
梅お婆さまの家は神田の須田町にあります。神田川のすぐ南側に位置し、近くには万世橋駅がありますから、路面電車もたくさん走っています。
私がこの春から通っている東京女子高等師範学校は同じ神田区ですが、川の北側に位置しています。お茶の水橋を渡ってすぐに湯島の天神様がおわしますが、ここから北へ行けば猫ちゃんを拾った神田の明神様。天神様の聖堂を西に坂をのぼって行けば師範学校です。
梅お婆さまの家からは歩いて三十分もかからず、友人たちには羨ましがられているのでした。
さて、その日の授業を気もそぞろに終えてのことです。私が急いで帰りの支度をしていると、友人の千代ちゃんから声をかけられました。
「茉莉ー。今日はお急ぎね?」
「ええ、ちょっと今日はお急ぎなのよ。明日にでもお話するわ。ごめんあそばせ」
「よくってよー。ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
お家には猫ちゃんがいますからね。とてもかしこさんな猫ちゃんなので、お家で待っていてくれると思うのですが、拾ったばかりでもありますし不安もあります。
梅お婆さまが気にかけていてくれれば良いのですけど……。
ですが私が師範学校を出て、急いでお茶の水橋を渡っていると、不躾に声をかけられたのです。
「よう、お嬢ちゃん、お急ぎかい?」
そこには三人の男子学生が立っていました。この時間に外を出歩いているとは不良学生に違いありません。
「ええ」
「ちょっとそこらで珈琲でも飲んでいかんか」
「いえ、ですから急いで……」
男子学生の一人が私の正面に立ち、私の言葉を遮ります。
「まあまあ、そう急ぎすぎるものでもない。珈琲はおごるとも。なんなら流行りの菓子もつけようじゃないか」
「いよっ、兄貴太っ腹!」
三人には上下関係があるのか、背後の二人が囃したてました。
「こ、困ります」
私がそう言って彼らの横をすり抜けようとしますが、男子学生たちは私の行く手を遮るように位置を変えました。そしてにやにやと下卑た笑みを浮かべます。
がたんごとんと音を立てて、路面電車の錦町線が私たちの横を通り過ぎて行き、足元の橋がびりびりと揺れます。
その時でした。
「そのへんにしておけ」
そう、声がかけられたのは。




