三日月が綺麗な或る宵の一幕。一の裏
––昨日、猫ちゃんを拾ったのです。明神さまのお祭りの夜に。
「梅お婆さま、ただいま戻りました」
「おかえりなさい、茉莉さん」
下宿している神田の梅お婆さまの家に師範女学校から戻ると、二階にある自室に戻って学生鞄を置きます。制服を脱ぐと流行りの矢絣模様の着物に着替えて、女袴を締め直します。鏡を覗き込んでお気に入りのピンクのリボンで髪を結えば、お出かけの準備はそれでおしまい。
階段を降りて台所の収納から硝子の広口の瓶––もとは舶来の飴玉がたくさん入っていたもので、とっても甘くておいしかった––を取り出します。それを小脇に抱えて玄関へ。
「お婆さま、ちょっとお祭りに行ってきます!」
「そう。茉莉さん、お気をつけて」
「はい!」
革のブーツを履いて外へ。今日は明神様のお祭りで、学校から帰る間も笛や太鼓のお囃子が聞こえてくるので、胸がそわそわわくわくするのです。
「んーふふ、んーふふー、てんとん」
お囃子の笛の音を、つい小さく鼻歌で歌いながら歩いていた自分に気づきます。
こういうことは以前、つまり倉橋の家にいた頃はありませんでした。『鼻歌なんてはしたない』たちまちお母様にそう叱られていたことは明らかでしょうから。私自身でもこの変化に驚いているところですが、良くいえば明るくなった、悪くいえば浮かれているとでもいうのでしょうか。
明神様の境内に行けば、もう人がいっぱいです。
まずは鳥居を潜って正面のお社の列に並んで、お参りをしてご挨拶。それがすんだら境内の露店を回ります。
ざらめを煮た、甘い飴の匂い。炭火の上に転がるとうもろこしにかけられた、醤油の焼ける匂い。大きな氷がしゃりしゃりと削られる音。
ついついそちらに足が向かいそうになるのですが、今日の最初の目的は決まっているのです。
提灯が吊るされた下には的屋のおじさんが座り、その周囲には水の満たされた大きなたらいが何個も並んでいます。たらいの側にしゃがんで水面を覗き込む子供たち。中には赤や黒の小さな魚が群をなしていました。
私は蜻蛉を刺繍した巾着袋から、稲穂の描かれた硬貨を取り出しました。
「おじさん、一回お願いします」
「はいよ、お嬢ちゃん!」
一銭硬貨を差し出して、代わりにポイなるものを受け取ります。針金で作られた輪っかに、向こうが透けて見えるほど薄い和紙を張ったもの。
そう、私は金魚すくいなる遊戯に興味があったのです。
「姉ちゃんここ座んなよ」
「あら、ありがとう」
子供たちがしゃがんだまま身体をずらして場を開けてくれたので、お礼を言いながら袖まくりをして桶の前にしゃがみこみます。
ではいざ勝負!
たくさんの金魚が泳いでいて、どこから手をつけたものか目移りしてしまいます。
「嬢ちゃん、お見合いしててもしょうがねえぜ」
的屋のおじさんから揶揄うように声がかけられました。確かにその通りです。私は近くにいた金魚めがけてポイを差し込み……ポイはすぐに破れてしまいました。
「あー……」
「残念だったな。嬢ちゃん。そう真っ直ぐ水に突っ込むんじゃなくて、横から入れるんだよ」
周囲の子供たちの様子を見ます。なるほど、紙に水の圧力がかからないように縦に入れるのがコツなのですね。そう、金魚すくいなのですから、料理のお玉のように金魚をすくいあげると。ふむふむ。
「おじさん、もう一回」
「はいよ、毎度ありぃ!」
私は破れたポイと追加の一銭を渡して、新たなポイを受け取ります。
集中、針に糸を通すように集中。
狙いは小さくて赤い金魚。慎重に、だけど素早くポイを水面に差し込み、金魚の動きに逆らわないようさっとすくい上げます。
––ひょい。
たらいの金魚は私の左手の瓶の中へ。
金魚はすくわれたことも気づいていないかのように、瓶の中で泳いでいます。
「よし、やりましたわ!」
「おお、やったなお嬢ちゃん」
なるほど、わかった気がします。
––ひょいひょい。
立て続けに追加で二匹。
的屋のおじさんが驚いた表情を浮かべました。
「お嬢ちゃん上手えなおぃ。そんなやられたら商売あがったりだぜ」
「すっげー、ねーちゃんすっげー!」
隣に座っていた子供たちが、私の手元を見て大はしゃぎしたり、穴の空いたポイを手に、ポカンと口を開けてびっくりしています。
––ひょい。
もう一匹。
「ちょ、おいおい!」
「私、金魚すくいの才能があるのかしら?」
私はそうおどけながら、瓶に金魚をすくっていきます。気づけば私の抱える瓶の中には、たくさんの赤い金魚が提灯のあかりを受けて煌めいていました。なにやら取りすぎた気もします。
では最後にでっかい黒の出目金を狙ってみましょうか。
「よいしょっ!」
「すっげー! ねーちゃんすっげー!」
黒いのをなんとか瓶に落としたところで、ポイの紙はついに破れてしまいました。
結局、戦果は小さくて赤いのを20匹くらいと、中型の白赤のを1匹と、大型の黒い出目金を1匹。
「ほら、あげる」
全然掬えてなかった小さな子に金魚をあげて、大半は的屋のおじさんに返し、小さいの2匹と出目金を1匹だけ瓶に残して立ち上がります。
「ねーちゃ、ありあとー!」
「はーい」
こうして金魚すくいの屋台を後にし、そのあとは屋台で買ったお菓子をいただき、境内を散策します。陽は落ちて空は暗くなり、天には三日月。そろそろ帰ろうかという矢先のこと。
ふ、と惹かれるものを感じました。
ふらふらと境内の脇、小さな社やお地蔵様のいる一角へと向かえば、急に人がいなくなり、喧騒が遠くなります。提灯のあかりもまた遠ざかり、三日月が光を増したかのようです。
秋桜の香りが風に乗り、鼻をくすぐりました。
––そこで出会ったのです。
––神社の片隅、狛犬の影に身を横たえている、夜より黒い彼と。
「あら、猫ちゃんだわ」
思わずそう呟きました。
しなやかな体を包む、真っ黒で艶やかな毛並み。左の前足だけが白く、片手だけの手袋のようなそれが闇に浮かび上がっています。
猫ちゃんは石畳の上で横になっていたのですが、私が近づいたのに気づいたのか、頭をもたげました。
「かわいい、かわいい」
私は猫ちゃんのそばにしゃがみ込みます。猫ちゃんは伏せていた耳をピンと立て、視線をこちらに向けました。黄金の瞳は光の加減か、綺麗な翡翠色に輝きましたが、ぱちぱちと猫ちゃんがまばたきするとまた黄金に戻りました。
ゆらり、と揺れる尻尾。……あら。
「あなた尻尾が二つあるのねえ」
闇の中、二本の尻尾がぱたぱたと動いています。
私の言葉に反応してか、猫ちゃんはゆっくりと立ち上がりました。その仕草は、なぜか残念そうに、あるいはどこか寂しげに、さらに言えば生きることに疲れたかのようにすら感じられたのです。
猫ちゃんの毛艶や肉付きは、老猫のそれとは全く異なるのに、です。
私は思わず猫ちゃんの方に右手を差し出して言いました。
「貴方、うちの子になる?」
そう言った途端、負の気配は感じられなくなりました。
「なぁ」
猫ちゃんはひと鳴きし、私の手に頭をこすりつけたのです!
思わず笑みが浮かんでしまいました。
「じゃあ、おいで」
私が立ち上がって一歩後ろに下がれば、玉砂利が音をたてます。猫ちゃんは音もなく、二歩ほどの距離をあけて私についてきました。
ふふ。
「行こっ」
空を見上げれば東京の街並み、瓦斯灯の柔らかな光の向こうに三日月が明るく輝き、足元を見下ろせば私の影に寄り添うように真っ黒な猫ちゃんがついてきます。
そう、それは三日月がとても綺麗な宵のことだったのです。




