暁の残月。五
「当代の有宣とやら、許せ」
その言葉と共に、我の視界に牙ある大きな口が広がり、そして暗闇に包まれた。
我は集中を解き、ため息を一つ。
結跏趺坐していた脚を投げ出す。我の前にいた黒揚羽がひらひらと舞っていく。
「有宣様、いかがでしたか」
「東京まで届く術の行使、見事でした」
ここは土御門家における儀式の間であった。と我は認識し直す。時刻はもう夜半を過ぎているか。長時間遠方に意識を飛ばすと、今どこにいるのか見当を失ないがちだ。周囲には土御門の術士たちが、護衛やら術の見学やらのために大勢待機していた。
彼らが口々に声を発する。
女衆の一人が手巾を渡してきたので、額に流れる汗を拭った。
「最後は向こうの猫に術を食われてしまったよ」
「なんと不敬な」
「まあ猫だからねぇ」
失礼します。そう言って手巾を渡してきた彼女は我の烏帽子をとって白髪を椿の櫛で梳く。土御門の当主はその霊力の高さに反してかなぜか色が薄いのだ。
ともあれ、それが終わると我は纏う白絹の浄衣の襟をただして、術士たちに下知する。
「我が見たもの、聞いたものを語ろう。倉橋の追放された娘、茉莉は独立して東京の護国の御役目を行うこととなった。倉橋家は存続するがしばらくは働くことかなうまい」
「質問をよろしいですか」
術士の一人が問うた。
「うむ」
「その茉莉なる娘、まだ十五と聞きます。力も取り戻したとはいえ奪われ続けていたとも」
我は頷きを返す。
「それに御役目が務まりましょうや」
別に御役目というのは我らだけの仕事ではない。寺社などにも術士はいる。だが、陰陽師という職が弱体化したとみなされるのは困る。そういうことだ。
「懸念は尤もだ。だが彼女は本日、十二天将が一柱、天后の励起に成功した」
おお、と感嘆の声が上がる。
天后は最後に励起したのが室町の頃。四百年ぶりの顕現となる。
「かつてはともかく、今の実力に不安はあるまい」
「は、畏まりました」
「私からもよろしいでしょうか」
今、手巾を渡してくれた女術士である。
「勿論」
「その猫とやらはなんなのでしょう?」
疑問は当然だ。黒揚羽の術は戦闘用でないが、下級妖怪に噛まれたところで壊れるほど脆くもないのである。
「それも茉莉の式神であり、彼女はヒスイと名付けていたが……」
言葉を止めれば誰もが続きを待って真剣にこちらを見つめている。
我は思わず口元を笑みに歪めた。
「あれの正体は平安の京を荒らした悪妖、蘆屋道満が式神、臥待月の衛士だ」
術士たちは騒めいた。我の前では行儀良くしている彼らが珍しいことである。討伐すべき、利用すべき、静観すべき、色々な意見が出ていたが代表してか彼女が尋ねる。
「危険ではありませんか」
「危険という観点で言ったら術士も妖も式神もどれも危険になってしまうな」
「そうですが……」
「今、そのヒスイが害をなすかといったらそうでもないだろう」
主たる茉莉に敵対しない限りはな。我はそう心の中で続ける。
どこか釈然としない表情を彼女は浮かべた。まあ、道満の式であり、悪妖と言われれば当然であろうが。
「茉莉さんから引き離した方が良いのではないでしょうか」
「無理だな」
我が即答したことにきょとんとした表情を浮かべる。
「何故かうかがってもよろしいでしょうか」
「におい、がな」
「におい、ですか?」
「お前たちはあの場にいないから仕方ないけど、妖力を嗅げばわかるさ」
ここにいるのは誰しも一流の術士であるが、その中でも妖力を嗅ぎ分けられる人間は限られるか。それも式神を通じて遥か東京にいる妖の妖力を嗅いだと言ったからな。唖然とするような反応が多い。
「あれだ、まぁきんぐ、という奴だよ。あの猫が自らの妖力をどれだけ彼女の身体に染み込ませて自分のものだと主張しているか」
「はぁ」
「東京に行ったら見てくるといいよ」
人生は、世界は意外であるから面白い。我は機嫌よく笑みを浮かべ、解散を告げたのだった。




